柴犬日記と犬の児童小説

初めて飼った犬の記録と犬が出てくる児童小説

短編小説「太吉」㊦

2017-12-04 09:37:22 | 短編小説「太吉」
太吉はバスの中にいた。行く手に広がる中国山地は山際の青空が色を失って朱に染まり、山の濃い緑は徐々に薄紫に変わっていった。もうすぐ山あいに五十数件の家々が寄り添う稲積村に着く。村が近づくにつれ山の斜面に段々状に整備された棚田が多くなり、黄金色に染まりつつある稲穂は天を目指して背伸びしていた。道端の荒地で年寄りが何かを燃やし始めると、風にあおられて立ち乱れる白煙がバスの中にも舞い込んできた。太吉は急いで窓を閉めたが、むせて咳をした。
「ただいま。伯父さん今帰りました」
太吉が母屋の玄関に入ると居間から出てきた作治夫婦は手放しで喜んだ。
「おー帰ったか。静子とは会えたのか」
 作治はすぐに静子の消息を尋ねた。
「まあ、とにかく上がってゆっくりしたら」
 民は居間の丸いちゃぶ台に湯飲みを三つ用意した。ちゃぶ台の前にどっかりと腰を下ろした太吉は久々に大きく伸びをした。
「疲れただろう」
 民が微笑んで太吉の湯飲みに番茶を注いだ。
「太吉、静子はどうだった」
作治は静子の話をせかせた。太吉は静子が暴力団組長と一緒になっていることを話したが、正妻と同じ屋根の下に住まわされていることや入れ墨をされていることは隠した。
                 ◇
九月、秋の気配が漂う中国山地の朝。山々は濃い緑の木々の中にも少しずつ紅色も交じり始めていた。太吉は作治夫婦とともに田んぼに行く途中だった。停留所に差し掛かるとバスの窓から顔を出した運転手に加え、行商の夫婦と老女の四人が、差し出された写真を眺めながら二人の男と話し込んでいた。二人の男は鳥取署の矢田貝と佐山であった。太吉たちは停留所の六人に会釈したが、夫婦の方は太吉と目が合うと困ったように目をそらした。お得意先で新聞に掲載された倉本の顔写真を偶然目にした夫婦は警察に通報していたのである。太吉は気にせず停留所を通りすぎた。その日は太吉に何事もなかった。 
「あら梅さんじゃないか。お前さんはここの敷居をまたいじゃいけんことになってるが。どうしたことかいな」
 夕食の後片付けをしていた民が玄関の方から「今晩は」という声がするのを聞いて出てみると提灯を手に下げた老女が立っていた。
「そや分かっちょう。だけどな、今日は太吉のことで、おじゃましただ。作治さんに取り次いでくれや」
 五間ほどの長い暗がりの廊下をきしませ居間に戻っていった民と入れ替わるように作治が廊下に現れた。
「話は太吉のことらしいが、まあ上がってくださいや」
 作治は奥の方から手招きしながら玄関までやって来た。
「急におじゃましてすまんのう」
 二人は居間に入るまでの廊下をゆっくり歩きながら短くやりとりした。
「梅さん。二十五年前はのう、わしも親の顔を立てて心ならずも、あんたとこの娘とわしの弟の結婚を反対したが、二親とも逝ってしまった今では後悔してるんだよ」
 作治は遠い昔の不始末を詫びたつもりだった。
「はあ、ありがたや」
 梅は両手を合わせ拝むようにして作治を見上げた。
居間では、ちゃぶ台に番茶の入った湯飲みが三つ並べられた。作治と民が並んで座り、梅は二人に向かい合って正座した。天井に吊るされた裸電球が八畳間の真ん中にいる三人の真剣な表情を照らした。
「今日、巡査(刑事)が家にやって来て、わしの日記を見せろと言うだが。どこぞで、わしが昔から日々のことを細かに書いていることを聞いたんだなあ」
 梅の前置きに「それで」というように作治と民が身を乗り出した。
「先月の日記を見よって喜んでのう。日記を貸してごせと言って持って帰りよったわ。そこには太吉と見知らぬ二人の男が一緒に歩いていて、なんぞ悪い仲間に入っとらせんか、というようなことが書いてあるだが」
「その男の人たちは離れに泊めてあげたお人たちだ。うちにも今朝がた巡査が来て二人のことを根掘り葉掘り聞いて行ったよ。一人はわしの知り合いだが、なんぞ悪いことでもしたんじゃなかろうか」
 作治が腕組みをしながら言った。
「太吉が巻き込まれとりゃせんかいなあ」
 民もすかさず口をはさんだ。
「そりゃ、本人に聞かにゃ分らんぞ。民や太吉を呼んでこいや」
「よっこらせい」
 民は声に合わせて反動をつけるように立ち上がり居間を出て行った。
「太吉、太吉や。母屋まで来てくれんかね」
 玄関の引き戸を開け顔だけ外にのぞかせた民が大声で呼んだ。その声は母屋と離れそれぞれの玄関先にある外灯が照らし出す広々とした庭に響いた。離れのカーテンを透かして見えていた明かりはすぐに消えた。
「梅さんや。太吉には、あんたが本当の祖母だとはいまだに明かしてないよ。今日はいい機会だから二十五年前の経緯を話すとええわ」
「ありがたいことだなあ。わしも、あと何年も生きりゃせん。太吉に、おばばと呼んでもらえたらうれしいわいな。静子にも会いたいのう。噂じゃ、苦労しとるげな」
 作治がうなずくと、ちょうど障子が開けられ太吉が入ってきた。太吉は民が入るのを待ってから障子を閉めた。梅と目が合うと会釈し隣に座った。作治が声をかけた。
「太吉。梅さん知ってるだろ」
「はい」
 太吉はかしこまった両膝をずるずるさせて答えた。村に来たときから何かと親切にしてくれる梅がここにいることがうれしかった。一方で中学を卒業するころには梅の家が村人から忌避されているということも理解していた。
「実はなあ、梅さんとこに巡査が来て、お前と二人連れの男が一緒に歩いていたことが書いてある日記を持って帰ったんだ。それで心配になって相談にみえたというわけだよ。それに今朝はうちにも巡査が来たしな」
「太吉、男たちと何か関係があるんか。なんでも相談に乗るから言ってみい」
 民が太吉の顔をのぞき込むように言った。太吉は民の視線を避けるように深いため息をついた。居間に四人の息遣いだけがする。柱時計が八つ鳴った。
「太吉や。わしはお前のおばばだ。二十五年前、わしの娘と作治さんの弟が、ここでは一緒になられんで、二人して東京に行っただが。お前が中学生のころ作治さんとこに引き取られてきたとき、わしとこは昔から村では別扱いじゃからのう。お前もいい大人だから理不尽な扱いをされている人たちがいることぐらい知っとろう。だからお前には本当のおばばだということを黙っておったんだ。須藤家への出入りも遠慮しとった。巡査が来たんは今日だけじゃないんだで。この間も停留所で男の写真を見せられて色々聞かれたが、わしは黙っておった。行商仲間の夫婦が男たちとお前が一緒に歩いているところを見た、としゃべったんだわ。わしはそのときから心配しておったんじゃ」
 梅が、もう待ちきれないとばかりに一気に話した。太吉がようやく口を開いた。
「おばば。やっぱり身内の人だったんだね。中学生のころ、いつも親切にしてくれありがとう。おばばには何か温かいものを感じたよ」
 梅は太吉の言葉を聞いて袖口で涙をぬぐった。
「太吉、男たちと何かあったんか。正直に言ってくれ」
 作治が珍しく力を込めて尋ねた。うなずいた太吉は静子に打ち明けたのと同じ話を語った。柱時計が九つ鳴った。太吉は話し終えると、また深いため息を一つした。梅がちゃぶ台に頭をたたきつけて泣き始めた。
「わしが姉さんを助けに行ってやれと言ったばっかしに。太吉にそげな恐ろしいことをさせたのはわしじゃ」
 梅は泣きやまなかった。太吉は梅の肩を抱き背中をさすった。
「僕が欲を出したことが悪かったんだ。おばばのせいなんかじゃないから」
 太吉も目を赤くしていた。
「どうしたらいいもんかいなあ。太吉を助けるには」
 作治は頭を抱えた。民も眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「太吉、静子をわが物にしてる親分に手紙を書くだ。今度は静子へのつぐないに、その弟を助けろとな。悪事を尽くしてる輩じゃ、何かええ方法を見つけるで。どっか遠い所へでも逃がしてもらえ」
うつむいて泣きじゃくっていた梅が顔を上げて叫ぶように言った。
「言うこと聞いてくれるかねえ」
 民が首をひねるような仕草で梅を見た。
「こうなったらもう静子の力に頼るしかないが」
 梅が民を見返した。
「よしっ、太吉。静子に手紙を書くんだ。姉さんの力で何とかしてくれと。いいな」
 作治の強引な提案に太吉は黙ってうなずき離れに行き手紙を書いた。

 静子姉さん、先日は大変お世話になりました。実はとり急いでお願いしたいことがありまして、お手紙を書きました。
最近、刑事が家や近所にやって来て色々と探っています。このままでは捕まるのは時間の問題です。親分に頼んで、どこか遠い所へでも逃がしてくれたらと思っています。姉さんだけが頼りです。
話は変わりますが、近所に住む梅というおばあさんが僕たちの本当の祖母だと知らされました。親分に助けてもらえと言ったのも梅ばあさんです。
僕たちのお母さんが梅ばあさんの娘で、作治伯父さんの弟、すなわち僕たちのお父さんと一緒になりたくて東京に出たそうです。祖父母の家は村人たちから差別を受ける境遇だそうです。でも、僕はショックではありません。近くに祖母がいたことが分かってとてもうれしいのです。
 それでは姉さん本当によろしく頼みますよ。すぐ返事を下さい。急いでいます。
                  ◇
太吉が静子に手紙を出してから五日後の朝。黒塗りの覆面パトが須藤家の庭先に泊まった。雨戸を開け放した縁側に腰かけ、庭を眺めていた作治は悪い予感を持ちながら車を見守った。後部座席から二人の男が降りて作治の方へ向かって来た。
「先日はどうも」
矢田貝が右手を軽く上げて会釈した。
「今日は何事でありますか」
作治は二人の顔を交互に見つめながらそわそわしだした。矢田貝が目で促すと佐山が説明した。
「実は京和銀行で横領事件がありまして。この間お見せした写真の男が容疑者なのですが、須藤君がその男に関わっている疑いがあります。それで今から署までご足労願いたいのです」
作治が、かっと目を見開いて聞いていると、いつの間にか民が縁側に出てきてかしこまっていた。作治が縁側から立ち上がり離れに向かおうとしたとき、離れの玄関の引き戸が開けられ太吉が出てきた。半袖シャツにスラックス姿で革靴を履いていた。矢田貝が太吉に近づきながら穏やかに言った。
「須藤君。京和銀の横領事件で容疑者の倉本と君の関係について話を聞かせてくれないかね」
「はい」
太吉はこわばった顔で答えた。
「あのー、太吉はすぐに返してもらえますか」
作治の震えるような声に矢田貝は言葉を返さず、佐山とともに太吉の両側に立って車へと向かった。太吉が刑事たちにはさまれ後部座席の中央に乗り込むと車はゆっくり須藤家を後にした。
「あーっ、静子は間に合わなかったなあ」
作治はため息をついて離れへ向かった。民は肩をすぼめて鼻をすすった。作治は太吉が寝起きしている八畳間に入り、部屋中を見回した。洋服ダンスのわきに置いてある文机の上をまだ新しい真空管ラジオが占拠していた。作治が太吉を引き取ったとき買い与えたものだった。「深夜ドラマを聞いていて眠れなくなった」と言っていた太吉の顔が浮かんだ。
「戻って来れるかなあ」
作治は胸の奥に鉛をぶら下げているような圧迫感を感じた。梅はもうすぐ須藤家の前を通る。作治は道に出て待つことにした。
 わずか半時間であるが、作治には半日も待ったような長い時間が過ぎた後、ようやく梅がやってきた。生しいたけを小分けにした小袋を幾つも入れたかごを背負い、腰を曲げて歩いて来る。ごむ草履をはき、手ぬぐいを頭に姉さんかぶりにして単衣の長襦袢ともんぺ姿だ。
「梅さんや、えらいことになったわ。太吉が今さっき巡査に連れて行かれてしまったんだ」
「何だってえい。太吉は戻って来るだかや」
「それを心配してるんだよ」
 作治は力なく道に座り込んでしまった。民が母屋から出てきて作治の背中を持ち上げて立たせようとしたが、尻を持ち上げるのが精いっぱいだった。民の力が尽きたところで二人は一緒に転んでしまった。腰の曲がった梅は作治の両肩につかまりながら励ますように言った。
「作治さんや、手紙はもうとっくに着いてるはずじゃ。手紙さえ届けば静子が何とかしてくれる。それまで太吉が頑張ってくれればええ。わしらも太吉にええことがあるよう祈るしかないがな」
「ああ、そうするしかないなあ」
作治は地べたに尻をついたまま梅の両手を握りしめた。
太吉たちを乗せた車が須藤家を出たころ、一台のトラックが鳥取市と大和町の境界付近を猛スピードで走っていた。大和町に入ると道路の右側は山の切り立った斜面、左は稲積川へ三十㍍も落ちこむ断崖絶壁となっている。道幅は三㍍ほどに狭まり、車同士が行き違うことはできない。太吉と二人の刑事を乗せた車が二時間ほど走ったころ、大きく右にうねった道の向こうからトラックが近づいてきた。
「こっちには路肩がないなあ」
舌打ちしながら運転手は右に大きくハンドルを切った。カーブを曲がりきり、トラックが十㍍ほど先で止まると運転手は驚いた。
「助手席に若い娘が乗ってますね」
「えっ」
矢田貝が腰を浮かせフロントガラス越しに前方をのぞき込んだ。佐山は肩を少しだけ動かした。うつむいていた太吉が顔を上げてバックし始めたトラックの助手席に目をやると、女の白いうなじが見えた。太吉の胸は高鳴った。女は窓から顔を出し、後ろを向いて道際にある後輪の位置を運転手に伝えていた。
「オーライ、オーライ」
柔らかな声が太吉の耳に溶け込んでいった。太吉はずっとこのままでいたかった。
トッラックは二十㍍ほどバックし山側の路肩に入って止まり、女が正面に向き直った。静子だった。
「ほー」
トラックにつかず離れず進んでいた車の中に、ほおを緩めた刑事たちの小さな歓声が上がった。太吉は誇らしかった。運転しているのは岡島組組員の坂東勇である。太吉が岡島組を訪ねたとき組長の居宅まで案内した男だ。静子は後部座席の太吉に気づいていないようだった。
「さよなら」
太吉はすれ違うトラックを左の肩口から見上げ、声にならないように唇を動かした。左隣の佐山がちらりと太吉の顔をのぞき見たが、何も言わなかった。
静子を乗せたトラックが須藤家に着いたのは正午前だった。
「こんにちは」
作治夫婦が居間でちゃぶ台に向かい合ってお茶を飲んでいると、玄関の方から若い娘の声がした。
「よっこらしょ」
民が勢いをつけて立ち上がり居間を出て長い廊下を通って玄関に下りた。引き戸を開けると長そでの白いスーツを着た、見たこともない娘が真っ白なハンドバッグを手にして立っていた。
「どちらさんですか」
「静子です。太吉の姉です」
いぶかしがる民に静子は深々とお辞儀をした。
「こりゃ、たまげたわ。ちょっと、あんたー」
民は居間に向かって大声を上げた。
「何だかい」
廊下を踏み鳴らして玄関まで出てきた作治は静子を見てきょとんとした。
「静子さんだってよ」
「なにー、静子か。なんと、よく来てくれた。七年ぶりだなあー。さっ、上がれ。待ちくたびれたよ」
「伯父さん、太吉が長らくお世話になりましてありがとうございます」
「そんなこと、ええよ。早く上がれ」
「あのー、トラックで私を連れてきてくれた運転手がいるんですけど」
「なら一緒に上がってもらえ」
トラックを庭に停め、静子の後ろに控えていた坂東は静子に促され作治に挨拶した。
「お初にお目にかかりやす。坂東勇と申しやす」
やくざ独特の言い回しに作治は面食らったが、手招きで二人を居間に迎え入れた。
「あのー、太吉は」
居間に誰もいないのに気づいた静子が不安げな顔をした。ちゃぶ台の前にかしこまった作治が両手を膝の上に置き、申し訳なさそうに前かがみになった。
「実はなあ。今朝がた巡査に連れて行かれたんだよ」
「えっ」
立ったままの静子は隣にいる坂東の顔を見た。
「こりゃ、札が出たなあ。静さん、遅かったわ」
「何ですかい、札というのは」
作治の隣に座っていた民が甲高い声を上げた。
「そりゃ、逮捕状のことでやす。太吉さんはもう戻ってきませんですぜ」
「何だとっー」
作治と民が腰を浮かせると同時に叫んだ。静子はハンドバッグからハンカチを取り出し目頭に当てながら崩れるように座り込んだ。坂東は静子の隣に胡坐をかいた。四人の沈黙がしばらく続いた後、民が静子に向かってぼそっと言った。
「親分がもっと早く来させてくれたらよかったのになあ」
「私が最初にお願いしたときは無関心で……」
「やっぱりそうかいな」
民が残念そうな顔をした。
「でも、太吉の手紙を見せて、もう一度頼んだら太吉を九州の舎弟にかくまわせると言ってくれたの」
「手紙には何と書いてあったんだ」
うつむいていた作治が急に顔を上げた。
「私たち姉弟が村で差別される出自だとありました。組長は、それを知って実は自分もそうだと打ち明けてくれたんです」
「そうだったのかい。お前さまも、えらい気苦労なことだったなあ」
 民は静子を気遣い、親分への疑念も振り払った。
「それでもなあ、夕方になったら最終バスを迎えに行ってみようや。ひょっとしたら戻って来るかもしれんからな」
 作治の提案に三人がうなずいた。
その日の夕方。静子と作治夫婦、坂東の四人は家から歩いて一分ほどの停留所で太吉を待っていた。川を背に道をはさんで正面に見える夕日は、その上端が山際で弓なりの短い帯になると、あっという間に消えていった。やがて川下の雑木林の中から川沿いに緩く上ってくる砂利道の土ぼこりを上げてバスが走って来た。このバスが一日三本しかない鳥取―稲積間の最終バスである。
バスが停留所に止まり、車内で人影が一つ立ち上がった。静子たちは乗降口に駆け寄った。ドアが開くと降りてきたのは大きなかごを背負った梅だった。
「何だ、梅さんか」
作治が素っ頓狂な声を上げた後、顔に刻まれたしわの彫りをさらに深めて落胆した。
「何だとはえらい挨拶じゃのう。太吉は戻って来たかや」
「いいや」
「何だってーえ」
今度は梅が口元のしわを引きつらせた。二人の老人は身体を小さく丸めて、しばらくたたずんでいた。梅が見知らぬ二つの顔に気づいた。
「この人らは誰だかい」
 作治はその一言で我に返った。
「あっ、言うのが遅くなった。梅さんや、これが静子だわ」 
「おー、お前が静子かや」
梅は姉さんかぶりの手ぬぐいを頭から引きはいで潤んでくる目頭に当てた。
「おばあちゃん、静子です」
静子は梅の手を両手で柔らかく包み込んだ。
「太吉がえらいことになってのう。お前も心配なことだのう」
「おばあちゃんにも色々と助けてもらって」
 静子は梅を気遣った。
「梅さん。こちらは静子を米子からトラックに乗せて連れてきてくれた坂東さんだ」
民に勧められ静子の隣に坂東が歩み寄った。
「へっ、坂東でやす。よろしゅうに」
坂東は両こぶしから出した親指を太ももにつけて前かがみになりながら額口から梅を見た。
「ふん、ちんぴらどもが。まあ、今日は静子を連れて来てごいたから大目に見てやるわい」
「おばあちゃんったら……」
静子は鼻の穴を空に向けた梅の腕を取り、軽く揺さぶった。坂東はあっけにとられた顔をしたが、分厚い唇から歯茎をむき出しにして笑いだした。その笑い声の余韻を残して五人は夕暮れの道を須藤家へと向かっていった。
                 ◇
矢田貝が住む官舎は鳥取署から歩いて十分の所にあった。一棟五世帯の平屋の棟割り住宅が十棟あり、妻子持ちの警官が入居している。矢田貝は半年前に妻を病気で亡くし独り身であったが、定年が来春のため署長の計らいで依然、官舎で暮らしていた。
署内で太吉に逮捕状を執行した後、官舎に戻ると夜十一時を回っていた。矢田貝は、やかんで湯を沸かして体をふく蒸しタオルをつくっていた。ちょうどそのとき玄関先の方で車のドアが閉まる音がした。やがて玄関のドアが二、三回たたかれた。上半身は下着のまま外灯のスイッチを入れてドアを半開きにすると、署内で見かけたことのある若い男が立っていた。真新しい紺のスーツに赤いネクタイが初々しい。男の肩越しにツーピースを着た女がたたずんでいるのが見えた。
「夜分に申し訳ありません。東日鳥取支局の浅川と申します。実は……」
「何も言わないよ。はい、ご苦労さん!」
 浅川が言い終わらないうちに矢田貝は、いきなりドアを閉めた。
「あの取材じゃないんです。倉本さんの奥様をお連れしました」
「えっ、何だって」
 一度閉まったドアが今度は大きく開けられ、上着を着ながら矢田貝が外に出てきた。浅川が二、三歩横にずれると後ろにいた女性が軽く会釈した。菊枝だった。二人を部屋に迎え入れた矢田貝はりんご箱を二つ並べ、大きな白い布をかぶせて即席のテーブルを作った。
「今朝、テーブルを踏み台にして棚の物を取ったら脚が壊れてしまったんですよ。こいつを代わりに……」
矢田貝は苦笑いしながらリンゴ箱の上に敷いた布の両端を両手で引っ張りしわを取った。
「米子支局に持ち込まれたボストンバッグの指紋採取は田村さんの指示だったそうですね」
浅川のいきなりの質問に、用意した湯飲みにお茶を入れていた矢田貝はぎくっとした。
「取材で耳にしたんですが、支局にバッグを持ち込んだらしい男を立ち会わせて、近く殺人絡みの大規模な捜索があると聞きました」
「それで」
矢田貝が表情を変えずに無関心なふりをすると菊枝が続きを引き受けた。
「どうしても捜索現場に立ち会いたいんです。どんな形でもいいので倉本の顔を早く……」
菊枝は途中で涙声になった。矢田貝は淡々と聞き流していたが、明日の捜索結果が菊枝にとってどんな悲惨なものになるか分かっていた。
「本部の連中は口が軽くていかんなあ。とにかく奥さん、捜索は警察に任せて宿で待機していてくださいよ。情報は分かり次第お伝えしますから」
矢田貝がそう言うと浅川が口をはさんだ。
「矢田貝さん、捜索うんぬんではなくて奥様は妻として一刻も早く夫に会いたいとおっしゃってるんですよ。そのために現場に行きたいと……」
若いのに気骨のある奴、と矢田貝は浅川に好感を抱いた。
「まっ、今日は遅いですから明日にしましょう」
「駄目ですかあ」
浅川は残念そうに低い声を出した。菊枝は両ひざにこぶしを置いたまま動こうとしない。
「帰りましょう」
浅川は小さく声をかけた。二人は玄関で夜遅く訪れた非礼を詫び外に出た。外灯の黄色味を帯びた弱々しい明りが、落胆して会話もなく車に向かう二人を照らした。五、六歩行ったところで後ろからドアの開く音がした。二人が振り向くと、わずかに開けたドアの外に矢田貝が顔だけ出していた。
「浅川君。わたしゃ明日、用事があって稲積村に行くんだよ。朝六時には村に入らないとね。じゃ、失礼」
矢田貝は勢いよくドアを閉めた。二人は青いペンキがはげ落ちそうなドアに向かって頭を下げた。二人が車に乗り込みドアを閉めると外灯が消え、あたりは真っ暗になった。
                 ◇
翌朝の稲積村は村始まって以来の人と車両で騒然となっていた。登山口前の木橋から停留所までの五十㍍間は川沿いにパトカー、覆面パト、ジープ、トラックの計十台が数珠つなぎになり、村の老若男女百人以上が道路を埋め尽くしていた。須藤家も例外ではない。
作治夫婦と梅、静子、静子を連れてきた坂東の五人が庭先で木橋のわきに駐車している先頭の覆面パトを見つめていた。その車はフロントガラス以外の窓にはカーテンが引かれ、中の様子はうかがい知れない。車の前には三人の制服警官が立ちはだかり壁を作っていた。
「すみませんが、庭先に立たせてもらってよろしいでしょうか」
川下の方から突然、若い男の声がしたので静子が顔を向けると、東日新聞の腕章を着けた若者とカメラを持った中年男、上品だが化粧っ気のない女の三人が頭を下げた。いずれも登山靴を履いている。どこか遠くに車を止めて坂道を上ってきたらしく三人とも息遣いが荒かった。
「はあ」
生返事をした静子は作治の顔を見た。作治が逡巡していると腕章を見て舌打ちした坂東が前に出た。
「何が始まるんかい、兄さん」
坂東が巻き舌で浅川を威圧した。
「ある事件で捜索があるみたいです」
「捜索って、何を」
浅川は答えずに目礼して川上の方へ歩き出した。残る二人も頭を下げながら続いた。坂東以外の四人は捜索と聞いて倉本と安田の遺体を警察が探しに行くのだと気づいた。太吉はとうとう自白したのか。落胆の思いが四人を支配していた。
「担架が二つ出てきたぞ」
川下の停留所から須藤家まで波のうねりのように村人の声が伝わってきた。それぞれ脇に担架を抱えた二人の警官に続きスコップやシートを持った警官が十人余り一列になって上がって来る。車列を見守っていた村人たちから、どよめきの声が上がった。
「一体、何が始まるんかいな」
「こりゃ、大事件だぞ」
誰もが不安と興味本位をないまぜにしたような顔つきになっていた。警官たちの列が先頭の覆面パトの前で一塊になった。車を警護していた警官のうち一人が後部座席の窓ガラスをたたくとカーテンが少し開けられ、顔を見せた白髪の男と短く会話が交わされた。
後部座席のドアが開いた。紺の作業服に登山靴を履いた矢田貝が降り、続いて手錠を掛けられた太吉が頭を低くしながら一歩を地につけた。もう一歩を踏み出すと太吉の腰に巻いたひもを持った佐山が、矢田貝と同じ服装で座席の上をずれるようにして外に出てきた。
カメラを構えた男が前に出てフラッシュをたいた。一瞬、まばゆそうにした太吉は須藤家の人たちに気づき笑みを送った。
「太吉!」
静子が叫んだ。梅と作治夫婦の声も入り乱れて山里に響いた。矢田貝に先導され木橋を渡り登山道に入っていく太吉が歩みを止めて振り向きざまに頭を下げると、佐山が腰ひもを持った手で太吉の背中を押した。革靴を履いている太吉は砂利に足をとられ、よろめいた。佐山の後を作業服に身を包んだ警官の列が続いた。その後を東日新聞の浅川たち三人が追った。
「新聞さんの後についていく女の人は何だらかな」
 梅が作治に話を向けると作治も「さあ」というような顔をした。静子だけは倉本の妻ではないかと直感した。太吉を見送る五人は、木々に見え隠れしながら登っていく警官たちの姿が消え去るまで立ち尽くしていた。
                ◇
登山口を出発して一時間後、矢田貝の合図で警官たちは小休止した。峠に着いたのである。そこは十人を超える警官たちが散らばって地べたに座ると、狭苦しいほどの広さしかなかった。太吉も矢田貝と佐山にはさまれて腰を下ろした。矢田貝は丸型水筒のキャップに水を入れて太吉に差し出した。
「須藤、飲めよ」
 太吉は目礼して小さなキャプを右手で受け取り一気に飲み干した。
「地獄谷の河原に二人を埋めたのは間違いないな」
矢田貝は太吉に書かせた殺害現場の見取り図に目を落としながら太吉に聞いた。
「はい」
 太吉ははっきり返事し、飲み終えたキャップを差し出した。
「もう一杯飲まないかね」
矢田貝はキャップを押し戻し、あふれるほど水を注いだ。太吉は喉を鳴らして飲んだ。目に涙がにじんでいた。松の木の根元に座っていた菊枝が二人の様子をじっと見ていた。
十分ほど休んだ後、矢田貝の号令で全員が縦一列になって峠を下り始めた。少し下って炭焼き小屋と杉の大木がある谷へ通じる道との分岐に来たが、その道を覆い隠している藪を左に見て下り続ける矢田貝の後を太吉は無言でついて行った。
一時間ほど下ると三十㍍ほどの高さがある断崖の上に出た。丈の短い草と岩くずが混ざりあった道端までは二、三歩ほど。その下は河原も含めて幅百㍍の川が流れる地獄谷である。対岸はこちら側より数十㍍も高い切り立った壁が上流、下流方向ともに延々と続いていた。太吉の指示で警官たちは矢田貝を先頭に、すぐそこに見えている河原への降り口まで川を右手に見ながら肩幅ほどしかない道を一列に進んで行った。ここに立った警官たちの誰もが大自然が創り出した神々しい風景を見て嘆息し、捜索の仕事を一瞬忘れたかのように晴れやかな顔をしていた。
「あっ」
 悲鳴のような声を上げた佐山が顔色を失い断崖の下をのぞき込んだ。矢田貝もほかの警官も一斉に川の方へ身を乗り出した。眼下には太吉が腰ひもをひらひらさせながら逆さになって宙を舞っていた。
「すみません!」
 佐山はその場に土下座して小石がごろごろしている地面に頭をこすりつけた。
「な、何ということだ」
矢田貝もへなへなと座り込んでしまった。
「バカヤロー、てめえー」
「佐山あー、腹切れえー」
佐山は同僚たちの怒声の渦の中にいた。浅川とカメラマンの二人だけが山側の雑木林をかき分け、先頭の矢田貝を追い抜いて河原を目指し一目散に下りて行った。菊枝は声も上げず呆然と立ち尽くしていた。
               ◇
 作業服姿の警官の一団が須藤家の前にある登山口に姿を現したのは正午過ぎであった。庭で登山口を見張っていた坂東が気づき、母屋にいた須藤家の人たちを大声で呼んだ。何人かの村人たちも集まってきた。先頭に矢田貝が見えた。その後を担架が一つ運ばれてくる。
「太吉の姿が見えんのう」
 梅が静子と作治夫婦の顔を順に見回した。
「後ろにでもいるのだろう。あの担架は倉本か安田かどっちかだな。それにしても担架が一つとは変だなあ」
 作治は列の後ろを探るように右手を額の上にかざした。
「太吉が見えないわ」
 静子が列の最後を確認すると慌てた口ぶりで駆け出し、先頭の田村に近づいて行った。梅も作治夫婦も続いた。
「太吉はどうしたんですか」
 静子が木橋に差し掛かった矢田貝に詰め寄った。
「申し訳ないことになりました」
 矢田貝は担架の上にかぶせてあった白いシートの端を静かにめくった。
「太吉! なんでーっ」
 静子の悲鳴が空高く響き渡り、梅も作治夫婦も担架に取りすがり泣きわめいた。矢田貝が下げた頭をそのままにして申し訳ないと繰り返した。四人の狂乱がかすかな嗚咽に変わると、木橋の下で川の流れが支柱に当たって砕け散る音があたりを覆った。
担架を持った先頭の二人の警官が互いに目配せして歩き出した。静子はシートの中を手探りして太吉の左手を握りしめ担架の歩みとともに進んだ。後から追ってきた矢田貝が静子を抱きかかえ担架から引き離した。静子の両手には血がべっとりとついている。警官の列の最後は同僚に抱きかかえられた佐山が、額からうっすらと血を流しながら生気のない顔でふらふらと歩いていた。しばらく遅れて東日新聞の浅川たちも下りてきた。
「お兄さん、何があったんですかい」
 坂東が朝とは打って変わって丁重な物言いで尋ねた。
「容疑者の男が自殺したんです」
「何だってえ」
 坂東は分厚い唇を震わせた。
「あのー、さっき担架にすがって泣いていた人たちは、どういう人たちなんですか」
 逆に質問された坂東は一瞬、戸惑った。.
「あんた、現場を見たのかい」
「はい」
 はっきりと答えた浅川は停留所の方へ視線を向けた。静子は砂利道に両手をついて泣き続け、梅は姉さんかぶりしていた手ぬぐいをとって静子の手についた血をふいていた。作治夫婦は地べたにしゃがみこんでいた。
「あの若い女は太吉……、いや自殺した男の姉さんだ」
「えっ」
「腰の曲がったばあさんは祖母。残る二人は伯父夫婦なんだよ」
 あっけにとられる浅川を伴い坂東は静子たちの元へ歩き始めた。菊枝も後を追った。
「静さん、この記者さんが見ていたそうですぜ。太吉さんは自殺したらしい」
 坂東は静子の手を取り立ち上がらせ浅川に向き合わせた。
「何で!」
 静子は浅川に食らいついた。驚いた浅川は、静子を見守っていた矢田貝に助けを求めるような眼差しを向けた。
「私が気づいて振り返ったときには須藤は河原に転落していました。大変、残念なことになりまして言葉もありません」
矢田貝が再度、頭を下げた。しばらく沈黙が続いた後、菊枝が静子をにらみつけた。
「あなた、あの男のお姉さんですってね。私は殺された倉本の家内です」
 梅と作治夫婦は唖然とし互いに顔を見合わせた。静子だけは抜け殻のようになった自分を奮い立たせるように菊枝の視線を受け止めていた。
「倉本の顔が早く見たくてここまで来たのに、これで主人がどこにいるのか分からなくなりましたわ」
 菊枝は静子にとげのある言葉を吐き捨てた。青い顔をしている静子に代わり梅が反撃した。
「あんたの娘さんは太吉のおかげで助かっただが。太吉が盗った金をわが物にしてたら、今ごろあんたさんの娘はあの世ですだで」
 梅は泣きはらした顔でぽんぽんと言葉を繰り出した。
「だからと言って倉本を殺した罪は逃れられませんよ」
「太吉は自分の命で罪を償ったんですじゃ。もう太吉のことを悪う言うのは勘弁してくだされ」
 梅はここまで言うと、はあはあと肩で息をしていた。目を真っ赤にした矢田貝が菊江に顔を向けた。
「奥さん、実は須藤が書いた地獄谷の現場見取り図があるんですよ。そうがっかりなさらないでください。明日の捜索に同行してくださってもかまいませんから」
静子と梅、作治夫婦は矢田貝の言葉を複雑な思いで聞いていた。
                ◇
矢田貝は翌春、退官した。佐山は腰縄を離して太吉を自殺させてしまった責任を問われ、県西部の山奥にある駐在所に左遷された。しかし、一か月後には退職し、米子の興信所に職を得た。
それから四年目の八月初旬。佐山が所属する県西部山岳会の定例会で、地獄谷に行ったことがあるという仲間から気になる噂を耳にした。毎年、盆の十四日になると、ふもとに住む美しい女が地獄谷の断崖から花束を河原に投げ込むという。もっと興味を引いたのは、その女が一つ隣筋の谷へ分け入って行くというのだ。十四日まであと一週間以上ある。佐山はアパートに戻ると受話器を握った。
「あっ、矢田貝さん。佐山です。ご無沙汰してます」
矢田貝が退官した後も半年に一度は連絡を取り合っている仲である。佐山は仲間から聞いた噂を披露し、その女とは太吉の姉、静子ではないかと推理してみせた。矢田貝はその推理に同意し、佐山が考えている通りのことを付け加えた。
「隣の谷に倉本と安田が眠ってるよ。佐ーやん、盆の十四日は空けておけよ」
その十四日の早朝。須藤家から道なりに五十㍍ほど上がった空き地に一台の乗用車が停まっていた。須藤家の庭と登山口を一望できる場所だった。運転席に佐山、助手席に矢田貝がいた。どちらも半そで姿の軽装で登山靴を履き、どこから見ても一般の登山客である。ただ普通と違ったのは登山帽を目深にかぶり、シートを倒して前方を抜かりなく見張っていることだった。ほとんど会話をせず数時間が経った。
「母屋を出ました」
「うん、行こう」
二人はシートを起こし車から出ると、それぞれリュックを背負い須藤家の方を見守った。登山靴を履き庭にしゃがみこんだ長そで姿の女性が、桶から何かを取り出し赤いリュックの中に入れ始めた。矢田貝と佐山は顔を見合わせた。その女性はリュックを背負うと木橋を渡って登山口へ向かった。矢田貝と佐山が四年ぶりに見る静子だった。顔はややふっくらとしているように見えたが、背筋を伸ばして振り子のように正確な歩幅で歩く姿は静子そのものだった。
「相変わらずきれいですね」
 佐山が水を向けても矢田貝は何も言わなかった。四年前の事件を頭の中でなぞっていた矢田貝は、太吉の血に染まった手を握りしめていた静子を思い起こしていた。
静子は一時間ほどして峠に着くと草むらの高くなっている場所を選んで座った。やがて峠を下り始め、また一時間ほど歩いて地獄谷の断崖の上に立った。リュックを降ろして中から取り出したのは小さな花束だった。それを右手に持った静子は、ずるずると滑り落ちそうな傾斜の道端を二、三歩小股で進んだ後、下手から放り投げた。
赤、黄、白のバラの花束が山風にあおられ、対岸の灰色の絶壁をバックにくるくると回転しながら小さくなっていく。河原に落ちた花束は、岩場の上を二回はね跳んで川の流れにのみ込まれていった。静子は二、三歩後ずさりして五分ほども手を合わせていた。静子がくるりとこちらに向きを変えたとき、矢田貝たちは岩陰から出していた首を慌てて引っ込めた。
リュックを背負い直し、下って来たときよりたっぷりと時間をかけて峠の直下まで登り返した静子は、分岐で右下に向かって繁茂している藪を両手で払いのけた。後ろの木陰で見守っていた二人は驚いた。
「あっちにも道があったんですねえ」
佐山が思いもよらなかったというような顔をした。
「気づかなかったよ」
 矢田貝は悔しそうに右のこぶしを木の幹にたたきつけた。
二人が静子につかず離れず三十分ほど下りると雑木林の向こうに小屋と大きな杉の大木が見えてきた。小屋の前庭は雑木と草が荒れ放題である。静子は雑木の間をすり抜けながら小屋のわきを通って大木の手前で歩みを止めた。裏手は雑木と草がきれいに刈られ、つやの良い黒土が草の根元の間に見え隠れしていた。二人は小屋の陰からしばらく静子の後ろ姿を見守った。
静子は再びリュックから花束を取り出すと、姿勢を正し一礼して花束を地面に置いた。ここでも五分ほど合掌し長い黙とうをささげた。二人は静子が頭を上げ反転するのを待っていたかのように、どちらからともなく静子の方へ歩き出した。
「あっ」
二人に気づいた静子が声を上げた。
「やあ、しばらく。矢田貝です」
矢田貝が笑顔で挨拶した。佐山も会釈した。静子は突然のことで声も出なかった。
「驚かれたでしょう。申し訳ないが、あなたの後をつけてきたのですよ」
佐山が何か言おうとしたのを制して矢田貝が続けた。
「あのとき須藤君は本当に残念なことになりました。ご家族の皆さんも、さぞお悲しみになられたことでしょうね」
矢田貝は静子を気遣うよう丁寧に言葉を選んだ。
「刑事さんにもご迷惑をお掛けしました」
静子は矢田貝の穏やかな物言いに平静さを取り戻していた。
「いや、わたしゃ、退官して今は一般人ですよ。彼も事件後すぐに退職して今は探偵さんです」
矢田貝は佐山をちらりと見た。静子は次の言葉を探しているようだった。矢田貝が先に口を切った。
「そこに花束を手向けられたのはなぜでしょうね」
「……」
「仏さまが二ついらっしゃるんじゃないですか」
静子はうなずいてようやく口を開いた。
「太吉が手にかけた人たちです。でも、あなた方はどうして私の後をつけるようなことをされたのですか」
「佐山が噂を聞いたんですよ。毎年お盆に、山のふもとに住むきれいな女性が花束を地獄谷に投げ込むという話をね」
「まあ」
静子がほおを赤らめた。
「どうなさるおつもりですの。また捜査が始まるのですか」
「そうなるでしょうね」
矢田貝が佐山に顔を向けた。
「あの藪さえなかったら須藤君も俺も違った人生になったかもしれませんよ」
佐山は苦笑いした。矢田貝と佐山は花束が置かれた方に向き直り合掌した。
下山した三人は木橋を渡り須藤家の前で別れを告げた。矢田貝と佐山は砂利の坂道を車の方へと上がって行き、静子は二人の背中を見送った。二人が歩いていく先の方から腰を曲げて杖を突いた老女が下りて来て男たちと会釈を交わした。すれ違いざまに矢田貝が振り返って話しかけたが、老女は何事もなかったように通り過ぎた。静子は老女に手を振った。民と納屋から出てきた作治が静子に声をかけた。
「今、向こうに行きなさった人たちは見たことがある人たちだなあ」
 民もうなずいた。
「いいえ、登山に来られた人たちですよ」
三人はそれぞれの思いで車に乗り込む二人の男を見つめていた。
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短編小説「太吉」㊤

2017-12-04 09:34:39 | 短編小説「太吉」
中国山地の懐深くにある鳥取県稲積村へ行くには、鳥取市から南下し稲積川から立ち上がる断崖絶壁の上につけられた未舗装の道を、二時間近く車上で揺られなければならない。昭和三十年代のことであった。バスの中には行商人たちに交じって色白で意志の強そうなきりっとした顔立ちの中年男と顔のいたるところにシミのある初老の男が、通路をはさみ隣り合わせで座っていた。連れ立って稲積村に向かっているのである。途中、大和村の停留所で大半の乗客が降りてからは、稲積村までの一時間は数人の行商人とこの二人の男が乗客であった。
稲積村は山の北側、標高三百㍍付近に広がり、斜面に造られた棚田での稲作が主業である。八月のある日、二十歳を迎えたばかりの太吉は農作業を終え、半そでの下着にパンツ一丁で離れの八畳間で横になっていた。その太吉が腕枕をしたまま大あくびをした瞬間、開け放した窓の外で砂利道の小石がきしむように鳴り始めた。何人かが庭先の道を足早に歩いていく。そして聞きなれない二人の男の声がした。太吉は壁際まで体を一回転させ聞き耳を立てた。
「杉の大木はここから一山越えて谷に下りた所ですんで」
「その根元に埋めたってことか」
へりくだった物言いをする男に続き、ずいぶん辺ぴなところに隠したものだと言わんばかりに別の男が言った。男たちは地獄谷に向かう登山道につながる木橋の方へ曲がったらしい。コツコツという靴音が止んだ後、ザッ、ザッと細い尾根道沿いの藪をかき分けていく音がかすかに聞こえてきた。男たちが話していた谷へ何度も行ったことのある太吉は、根元に大きな樹洞をもつその杉の大木を知っていた。
「大木の根元に埋まっているのは一体何か」
湧き上がる好奇心を抱いた太吉は急いでズボンをはき、裸足で玄関から隣の納屋へ急いだ。納屋は入り口を入って手前半分が土間で、向こう半分が座板になっている。土間の隅に寄せてあった地下足袋をつかんだ太吉は、座板の端に尻を置いて砂を払った足裏を滑らせた。地獄谷への登山口は幅の狭い砂利道を横切り、短い木橋を抜けるとすぐである。そこからは人ひとりが通れる尾根道がしばらく続く。太吉は壁に吊るされた麦わら帽子をわしづかみにすると山の方へ駆け出した。
道は昨日の雨で少しぬかるんでいた。太吉は泥を跳ね上げ、ぐんぐん登っていった。登山道は途中から尾根を外れて急斜面をつづら折りにだらだらと峠に向かう。このまま登山道を行けば峠までは一時間ほど。太吉は近道するため、つづら折りの道には入らず、そのまま背丈ほどもある熊笹が生い茂る尾根を登っていった。しばらくして熊笹の尾根を抜けて足を乗せるとぼろぼろ崩れ落ちる、人の頭ほどもある石が転がる岩場に出た。そこから急斜面の短い獣道を登り切れば峠に出ることができるのだ。
獣道は腰の高さまである茎の太い雑草が群生し、所々に見え隠れする石を避けて狐や狸が通れる幅でわずかな蛇行を繰り返していた。太吉は両手で束ねた雑草の根元をつかみ、葉っぱの波に顔面をたたかれながら登った。汗だくでたどり着いた峠は十人ほどが座って休める広さがあった。周囲を雑木に囲まれてほとんど見通しがきかず、頭上の楕円形に見える空以外は、ふもとの村と地獄谷へ下りるそれぞれの道の幅だけが見渡せた。疲れ切った太吉は湿った地面でも構わず両ひざをつき、シャツにしがみついている雑草の種子を何度も払い落とした。
峠の片隅に一軒茶屋跡と書かれた古ぼけた案内板が立っていた。そばには松の木が二本、接するように立っている。太吉はこの松の後ろに隠れて男たちが来るのを待った。
やがて二人の男がやって来た。四十がらみの長身の男が、後ろから来る小太りの男にしきりに何かを言っている。後ろの男は手ぬぐいで首筋をふきながら、ただ呼び掛けにうなずいているだけであった。かなり年配らしい。先に峠に着いた長身の男がふーっと大きな息を吐き、休むことなくそのまま谷の方へ踏み出していった。一息入れたそうにしていた小太りの男も、しぶしぶついて下りていった。太吉は注意深く二人の背中を見送った。
「地獄谷に行く道に迷い込んだな」
太吉は男たちが予想通り十㍍ほど下った分岐で左に曲がるべきところをそのまま、まっすぐに下りていくのを見て安堵した。大木への道を知らない者は夏場に繁茂する藪に覆われた道に気づかず、目前に見えている道を進んでしまうのである。そして一つ隣筋の地獄谷へ誘い込まれてしまうのが常だった。その地獄谷に道をとってしまった二人の男が、再び峠に戻ってくるころにはとっぷりと日が暮れているはずであった。
太吉は峠を踏み出し分岐まで下ると、左に折れる道で道幅いっぱいにしなだれた藪を両手で抱え払いのけた。藪の下から雨水をたっぷり吸った粘り気のある黒土が現れ、その先に続く濃い藪の隙間からも黒土の筋が一直線に谷の方へ落ち込んでいた。太吉が両脇の藪をつかみながら半時間ほど下ると、正面の雑木林の奥で杉の大木が足元に平屋の廃屋を従えそびえ立っていた。その廃屋は伯父の作治が建てた炭焼き小屋で、幅の狭い河原を見渡せる低い崖の上にあった。炭窯と炭置き場、二人が寝泊まりできる部屋があり、村の小さな一軒家ほどの構えだった。
作治が十年前に炭焼きをやめて以来、周囲には軒下まである雑木と膝を隠すほどの雑草が生い茂っていた。小屋の板壁は所々が破れ、屋根には散乱した小枝にまとわりついている苔の塊が幾つもあった。杉の大木はその裏手で小屋から五㍍ほど離れて敷地と崖の境目に立っている。高さは十数㍍、幹回りは四㍍を超え、河原の方へわずかに傾くように成長し太い枝を四方に伸ばしていた。
太吉は雑木をかき分け小屋のわきを通り抜けて大木の真下に立った。根元にぽっかりと穴の空いた樹洞は、幼児が入れるくらいの大きさがあった。空洞を縁取っている、朽ちてささくれだった茶褐色の樹皮が彫刻の飾りのようにも見えた。腰をかがめ両手をついてのぞき込んだ穴の地面は、黒土と白っぽい砂が入り乱れ掘って埋め戻した跡がある。太吉は風にへし折られてそばに落ちていた大ぶりの枝から先端をもぎ取り、地面のど真ん中に突き刺した。最初の一撃で手ごたえを感じた。
四、五回、土をかきだしたところで黒皮のバッグが現れ、アーチ状の二つの持ち手がぴんとはねあがった。両手で持ち手をつかみながら引きずり出しジッパーをずらして中を見ると、何段にも積まれた一万円札の束がぎっしり詰まっていた。札束は帯付きで四隅がそろっている。急に胸が高鳴ってきて、震えだした両手で黒皮についた泥を払い落とした。谷の斜面は赤く染まり始めていた。バッグの持ち手を背中側で両肩に通した太吉は、小躍りしながら歩き出し「姉ちゃん」と心の中で叫んだ。
その夜。太吉はバッグを隠しておいた納屋にこもった。黒皮の内側にごつごつと札束が当たる感触を楽しんだ後、取り出し数えてみると百万円の束が三十もある。太吉はこの大金で、父親の借金の肩代わりに夜の仕事をさせられているという姉の静子を救い出す決意をしたのだった。
                ◇
太吉はかつて両親と姉の四人で東京に住んでいた。太吉が中学一年の秋、母親が病死。翌年春には父親が事業に失敗し、借金を残して自殺した。太吉は二年進級を待たずに父親の長兄作治、民夫婦に引き取られ稲積村にやって来た。
太吉が村に来て間もないある日、行商で近在のあちこちを回っているという老女が、学校帰りの太吉に近づいてきて菓子を手に握らせながら耳打ちした。
「お前の姉さんは米子でお女郎しちょるげな。早う大きゅうなって助けに行ってくれんか」
太吉より五つ年上の静子は、太吉が伯父夫婦に引き取られて一週間後、高校を卒業し、鳥取県西部にある米子市の乾物卸問屋に事務員として就職していた。太吉が老女に耳打ちされてから作治夫婦は何度も米子に出向いたが、静子の行方は分からなかった。退職願の封筒を一通残して忽然と消えたという。
それから七年。太吉は中学を卒業以来、作治夫婦の米作りを手伝っている。無口ではあるが、背丈は百八十㌢を超える青年になっていた。将来、後継ぎがいない須藤本家の養子となり嫁をもらい、一生、田んぼ仕事と向き合う平凡な人生を送るはずであった。
                ◇
「太吉、太吉。お客さんを泊めるんで、ちょっと出てきてくれんか」
太吉が山から大金の入ったバッグを持ち帰った日の夜、離れに隣接する納屋の座板の上で札束を勘定していると、外から作治の声がして離れの引き戸が開けられる音がした。すぐさま札束をバッグに戻し、座板の下に隠した。太吉が納屋を出ると離れの玄関前で外灯の薄明りに照らされ、古希を祝ったばかりの作治と二人の男の姿が浮かび上がった。太吉はどきりとした。年格好と人相、体型から、まぎれもなく昼間の男たちだった。二人とも登山靴が泥だらけである。
「あれ、そんなところにいたのか。浜の安さんが泊めてくれと言うんで、二人ほど離れで寝てもらうからなあ」
作治が安さんと呼んだ男は、作治の青年団時代の仲間だった安田である。作治は太吉を引き取るずっと前に一度だけ安田に炭焼きを手伝ってもらったことがあった。安田たちは山中を一日中さ迷った挙げ句、一夜の宿を頼んだ民家が探し損ねた三千万円入りのバッグをわが物にした太吉の住まいだったとは夢にも思わなかった。
「若さん、すまないなあ夜分に。わしゃ、安田という者で作治さんとは古い知り合いだ。今日は山歩きに来たんだが、迷いましてのう。バスにも乗り遅れて面目ない」
半袖シャツに作業ズボン姿で八畳間の隅に立っていた安田が、母屋から布団を運んできた太吉に話しかけた。齢は六十前といったところか。敷布団を敷いて黙々とシーツを張っていく太吉に、今度はニッカボッカをはき長袖シャツを腕まくりした背の高い男が安田の隣にかしこまって座り挨拶した。
「私は倉本と言います。お世話かけて申し訳ない」
澄んだ目で柔和な顔立ちのその男は、微笑みさえ浮かべているようだった。太吉は心の中を見透かされているような気がしてまともに目を上げられず、饒舌な青年を装うことに努めた。
「僕は隣の部屋で寝ますから、この部屋は自由にお使いください。伯母が今、にぎり飯を作っています。もう少しお待ちを」
標準語で話す太吉に倉本は驚いた。
「太吉君は、こっちの生まれじゃないのかい」
「東京生まれです。中学一年まで住んでいましたが、両親と死別して伯父の世話になっています」
言葉はするする出てくるが、二人の顔をいまだに見ることができない。太吉は握り飯を取ってくる、と言い残し逃げるように部屋を出て行った。いつの間にか押入れの襖に背中をもたれて座っていた安田がすかさず言った。
「何だか、びくびくしてるなあ、あの子は」
「知らない男が突然、二人も泊めてくれと来たら少しは固くなるだろう」
安田は倉本の言葉に首をひねったが、倉本は疲れた表情で横になって腕枕でうたた寝を始めた。安田は鳥取港を拠点にして釣り人相手に渡船業を営んでいる。資金繰りが悪化した際、馴染み客だった倉本の計らいで銀行融資を受けることができたため倉本に恩を感じていた。しばらくして安田が口を開いた。
「倉さん、今日はすまなかったなあ。まっすぐ下りれば、あの谷に下りられるはずなんだがなあ。三月に来たときは確かにまっすぐ行ったんだが」
安田は山から村まで下りてくる間、何度も口にした言葉をここでも繰り返した。倉本は不意を突かれたように目を開けた。
「明日は金を見つけて早くここを出ないとな。ぐずぐずしていたら、この家の者に私たちのことが知れてしまうよ」
「誰かいるのか! 誰だい! 」
廊下に人のいる気配を感じた安田は、倉本の話をさえぎるようにして立ち上がり、片手で障子を思いっきり開けた。ぴしりと音を立てて柱から跳ね返った障子の先に、にぎり飯を載せた盆を震わせながら両ひざをついた太吉が小さくうずくまっていた。
「お前、聞いてたな。どこまで聞いたんだ」
安田が責め立てた。屋根瓦をたたいて雨が激しく降り始めた。
「まあいい。とにかくお入りなさい」
倉本が穏やかに促すと、太吉はこわばった表情で敷居をまたいだ。天井に吊るされた裸電球の明かりが青ざめている太吉の顔を照らし出した。
「聞いていたのかね」
「は、はい」
「で、どうする」
「……」
「こいつにしゃべられたら、まずいことになりますよ」
安田が早口で割って入った。太吉は畳の上でかしこまったまま、うつむいて押し黙っていた。
「お察しの通り私たちの探している金は、まともな金ではない。だが、私にはどうしても金が要る。協力してくれないか」
倉本は依然、冷静だった。
「倉さん、甘い考えはしない方がいい。小僧、覚悟はいいな」
安田が語気を強めた。
「あなたは僕をどうするつもりなんですか」
太吉は顔を上げ、ようやく切り返した。
「な、なんだとう、お前」
安田の左手が太吉の襟元を素早くつかまえ、右のこぶしを頭上に構えた。慌てて止めに入った倉本は太吉の顔を見つめて、ゆっくり諭すように言った。
「君は、こんな山奥で一生、百姓して終わるつもりかい。どうだね、助けてくれないか。お礼にそれなりの現金を進呈するから」
「何をどう助けるんです」
太吉は顔色が戻り、口も滑らかになっていた。
「金が埋めてある谷まで案内してくれないか。今日の様子だと、この男の記憶は間違っているとしか思えない。君なら、ここらあたりの地理に詳しいだろ」
「杉の大木がある谷に行きたいんですね」
「なにっ。杉の大木?」
冷静な物言いを続けていた倉本も、この時ばかりは血相を変えた。太吉の日に焼けた顔は倉本を見すえていた。険しい顔つきになった倉本が続けた。
「大木のことは誰も言ってないぞ。何で君は知っている」
安田も、ぎゅっと太吉をにらみつけた。
「実は、お二人が山に入るときに交わされた会話を聞いてしまったのです。本当にそれだけ……」
太吉が言い終わるのを待てずに安田が声を荒げた。
「まさか、わしらの目を盗んで金を掘り出しに行ってないだろうな」
「か、金なんか盗ってません」
太吉は恐る恐る答えた。
「嘘じゃないなあ。嘘ついとったら、ただじゃおかん」
安田は節くれだった両手で太吉の大きな頭をつかみ畳にこすりつけた。太吉は額の痛みをこらえた。
「もういいだろう、放してやりなさい。金のことは明日、谷に行けば分かることだ」
倉本は安田が拍子抜けするほど、きっぱり言った。安田が手を放して、やっと首の自由がきくようになった太吉の額は、畳にこすられて赤くなっていた。
「じゃあ協力してくれるんだね」
倉本の鷹揚な物言いに太吉は黙ってうなずいた。
「倉さん、こいつが警察にでも知らせたらどうするんじゃ」
「僕もお金が欲しいのです。どうか信用してください」
太吉は安田に訴えた。倉本が決心したように言った。
「じゃあ明日、谷まで連れて行ってもらうよ」
しかし、手に入れた大金を二人に渡したくなかった太吉は、既に恐ろしい企てを思いついていた。
「明後日まで待ってもらえませんか。まだ雨が降り続いているので、明日の山道は危険すぎます」
「うーん……。まあ、仕方ない。安さん、太吉君の言うとおりにするからな」
倉本は太吉をにらんでいる安田に念押しした。
                ◇
一晩中、降り続いた雨は夜明けとともにやんでいた。倉本と安田は太吉に明日、朝一番のバスを迎えに来るよう言い渡すと離れを出て行った。二人は野良着姿で庭に出ていた作治と民に礼を言い、道を下って一分の停留所に向かった。これからバスで一時間ほどの大和町に下り、宿に戻って明日まで時間をつぶさなければならなかった。
作治夫婦と太吉は男たちが出て行くと田んぼに行くため、連れ立って停留所の方へ向かった。作治と太吉は紺のつなぎ、民は袷(あわせ)の半着に帯を締めたもんぺ姿だった。この時季の田んぼ仕事は草刈りが主である。三人とも長靴をはいて鎌と軍手を入れたかごを背負い、手ぬぐいでほおかぶりした頭には麦わら帽子をかぶっていた。いつもと様子が違ったのは太吉が途中、気分が悪くなったので家に帰って休みたいと作治に伺いを立てたことだった。
「珍しいことがあるもんだなあ。今まで風邪一つひいたことがないのに。どうしたことだ」
「昨夜、ラジオドラマを遅くまで聞いていたら眠れなくなったんだよ。今朝は寝不足で頭が重いんだ」
 元気のない声に民は背伸びして太吉の肩口を左手で引っ張りながら、右の手の平を太吉の額に押し当てた。
「熱はないようだね」
 不思議そうに太吉の顔を見上げる民に太吉はどぎまぎした。
「それなら帰って休むんだな」
 作治の目は笑っていた。太吉の仮病に知らぬふりしたのである。
離れまで肩を落としてとぼとぼ歩いて来た太吉は道から敷地に入ると、納屋に走り込み背負いかごを土間に放り投げた。弾みでかごから飛び出した鎌と軍手が座板の奥まで転がった。太吉はそれには目もくれず座板に尻をかけ、長靴と靴下を脱いで地下足袋に履き替えると、杉の大木がある谷を目指して飛び出していった。
「確かナタも竹竿もむしろも炭焼き小屋にあったはず」
太吉は大木に着いてからの手順を思い浮かべながら尾根道から近道へと急いだ。普段より半時間も早い一時間ほどで小屋に着くと、小屋からスコップを持ち出し小屋のわきを通って裏手の大木の前に立った。その周辺には雑草とともに太い根の上部が縦横に地表を這っている。太吉は一㍍ほど戻って小屋寄りの場所を目標に定め、黙々と穴を掘り始めた。昼前に太吉が穴に隠れてしまうほどの大きさになってからは、中に短いはしごを入れて土を外に出す作業も加わった。
「よしっ」
太吉が額から噴きこぼれる汗を手ぬぐいでふきながら、満足げな声を出したときには直径、深さとも二㍍ほどの穴が完成していた。あとは先端を削って鋭くした竹竿を穴の底に仕掛け、五目状に組んだ細竹とむしろで穴をふさいで土をかけるだけであった。
                ◇
また一夜が明けた。約束の日の朝、太吉は停留所で男たちを待った。太陽は雲間に隠れ、日差しはさほど強くなかった。耳の奥をじんじんさせるセミの鳴き声だけが騒がしい。作治夫婦はすでに田んぼへ出かけていた。太吉はまた仮病をつかった。しばらくして、その日最初のバスが行商帰りの若夫婦と老女、それに二人の男を乗せて止まった。
「やあ、今日は幾分涼しいかな」
倉本が、さわやかな笑顔を見せて降りてきた。
「おうっ」
安田は太吉が約束を守ったことに安堵の表情を見せた。
「二日続きの天気で山道は歩きやすいです。あの大木までは一時間半ほど。さあ行きましょう」
太吉の弾んだ声をきっかけに三人の歩調は自然と早くなった。
砂利道から木橋を渡って登山道に入ると太吉、倉本、安田の順で歩き、途中から尾根を外れ、だらだらとつづら折りの斜面を登り峠に着いた。三人は少し休憩した後、同じ順番で下り始めた。左に折れる分岐まで来たとき太吉は、あのしなだれた藪を持ち上げた。
「あっ」
短く言った安田は藪の下から今まで来たのと同じ黒土と乾いた白い砂が混ざった細道が下っていくのを見て天を仰いだ。倉本がすかさず言った。
「なるほど。三月に来た安さんが分からないのも、もっともなことだ」
倉本は振り向いて安田に微笑んだ。慰めの言葉で気を良くした安田は先頭に立ち勢いよく下り始め、倉本もつられて足早に安田の後を追った。太吉は心の中でしめたと思った。
「おっ、あったぞ」
半時間後、安田が叫んだ位置から正面に見える雑木林の奥の方に杉の大木がそびえ立っていた。倉本も大木を目にすると安田に駆け寄った。太吉は小走りで二人を追いかけた。
安田、倉本が前後に並んで小屋のわきを通り、大木の数㍍手前に差し掛かったとき、太吉はぴたりと倉本の背後についた。乾いた唇が上下でくっつき、鼻でしか息ができなくなった太吉は息苦しさを覚えた。出にくくなったつばを何度も飲み込んで、ようやく上半身を前にかがめた太吉は、倉本の幅の狭い背中を目がけて右肩から突進した。倉本は声を出す間もなく前を歩いていた安田に激突し、二人とも地面から消えて行った。
                ◇
太吉は離れに戻ると真っ裸になり、泥だらけになったつなぎと下着を井戸端に持って行き、たらいで洗い始めた。土をかぶった倉本の尻ポケットから抜き取ってきた血染めの封筒が気になって仕方がない。たらいの中の服を手でしごきながら、わきの石段に置いた封筒を何度も見返した。洗い終わると軽く絞って納屋の座板の上に放り投げた。もうすぐ作治と民が帰って来る。離れの八畳間で寝間着に着替え、敷いた布団の上に座り込むと封筒から便箋を取り出し読み始めた。

お父さんお元気でしょうか。私は入院してから一か月になります。最初のころは検査続きでしたが、今は点滴とお薬で治療しています。心臓に異常があると分かってから、お母さんは毎日のようにお医者さんと相談をしています。とても難しい病気なので日本では手術できないそうです。
でも、アメリカの偉いお医者さんのところに行って手術すれば治る見込みがあるのです。そのお医者さんから八月に手が空くので、そのときなら手術ができるとの返事をもらいました。それには渡航費や治療費などで三千万円もかかります。それで、お母さんは東日新聞社にお願いして募金活動に協力してもらうことになりました。どれくらい集まるか分かりませんが、お母さんも私も頑張ります。
私のことが新聞に取り上げられたので切り抜きを送ります。早く手術をして来春には中学のセーラー服を着たいです。お父さんもお仕事頑張ってくださいね。時間ができたら病院にも来てください。待っています。
                      一月二十五日   真理子
                               
 あのとき金が要ると真剣な表情で話した倉本の顔が浮かんだ。ぐさりと胸を刺された思いで便箋を封筒にしまおうとしたが、何かが引かかって入らない。奥からつまみ出してみたら新聞の切り抜きで小ぶりな見出しが目に入った。
 心臓病手術の渡米費用を
 小六少女、募金呼び掛け 米子
 太吉は記事を読み終えると勢いよく横になり天井をにらみつけた。姉の静子を助けたい。が、少女も見殺しにはできない。太吉は頭の中で堂々巡りを繰り返すうち眠ってしまった。
「太吉、太吉…」
遠くの方で静子の呼ぶ声がした。いくら目を凝らしても静子の姿は見えなかった。闇の向こうから、か細い声が聞こえてくるだけである。
「太吉、迎えに来ておくれ」
「姉ちゃーん、待っててくれー」
 太吉は大声で叫んだ。
「お兄ちゃーん、早く来てー」
 今度は見知らぬ少女が太吉を手招きしている。
「君は誰だい」
 太吉は少女に問いかけた。すると少女の背後から男が顔をのぞかせた。全身が血だらけである。無言であった。
「うっ…。く、倉本さん」
 太吉は、はっとして目が覚めた。
「太吉! どうだい体の調子は」
 作治は離れの玄関に入るなり、いつものように声を掛けながら廊下をきしませて八畳間まで上がり込んできた。太吉の顔をのぞき込み再び小声で呼んだ。
「太吉、太吉。気分はどうだ」
「あー、伯父さん。少しめまいがしてたんだけど、寝たら楽になったよ」
 作治は口下手な太吉の芝居が面白くて仕方がない。太吉にあわせて自分も芝居を打っていることが楽しかった。ところが、太吉は作治の顔を見上げて、いきなり米子行きを打ち明けた
「伯父さん、米子に行って姉ちゃんを探したいんだ」
作治は驚いた。
「どこを探すって言うんだ。これまでに何度も会社や静子のアパートを訪ねても手がかりはなかったんだぞ」
 姉を探したいと繰り返すしか太吉に術はなかった。母屋に戻った作治は民に太吉の決意を告げた。
「静子に何もなけねばいいけど。太吉がそんなに米子に行きたがるって、虫の知らせというのもあるからねえ」
民は居間で作治の肩をもみながら心配そうに言った。結局、二人は静子に会いたいという太吉の気持ちに押され、あまりにも急な米子行きを承諾するしかなかった。
太吉は夕食後、納屋に隠していた黒皮のバッグの三千万円を東京からありったけの服を詰めてきた大型のボストンバッグに移し替えた。
                ◇
翌日午後、太吉はバスで二時間近くかけ鳥取市まで出た。夕暮れ時の山陰線鳥取発米子行きの鈍行列車は二時間半後に米子到着の予定である。太吉が列車に乗り込むと車内は席を取り合う会社員や高校生、行商の人たちでごった返していた。太吉は四人掛けで向かい合う座席の通路側に素早く席を取った。窓側と向かいの両座席もすぐに埋まった。太吉は洗面用具と下着を入れたリュックを頭上の網棚に置いて、高さが股下まであるボストンバッグは座席と接するよう通路に置いて右手でしっかり押さえていた。
「お兄ちゃん、えらい大きな荷物やな」
 真ん前の席にどかっと大きな尻を降ろした行商帰りの中年女性が金歯を見せて笑いかけてきた。
「はあ。お邪魔にならないようしますので」
 太吉は身をすくめるようにして答えた。
「そういう意味で言ったんやないで。背広を着てネクタイもしめて、ぱりっとしてるのに大きな荷物や。ちょっと目立つから何やら面白うて言うてみたまでや。気にせんといてな」
「どうも」
 太吉は愛想笑いで会話を終わらせ目をつぶった。緩く曲がって行く列車の車輪がきしむ音と車内のざわつく声が太吉の耳にこびりついた。
車窓に日本海の漁火が見え始めるころ乗客も減りだした。太吉は数分まどろんでは目が覚め、また眠った。ぽつぽつと座席にいる人たちも大半がまぶたを閉じている。ちょうど県中央部の倉吉駅を過ぎたころ、通路をはさんで太吉の斜め前にいた初老の男が新聞を乱雑にめくった。その乾いた音で目覚めた太吉の目に大きな見出しが飛び込んできた。
京和銀で三千万円横領
 不明の課長を指名手配 鳥取県警
 掲載されている顔写真は、まぎれもなく倉本だった。太吉が今、座席のわきに置いているボストンバグの三千万円は、倉本が勤めていた銀行から持ち逃げした金であった。顔を新聞に近づけ目を凝らして読んだ記事の概要は、三月中ごろ鳥取支店で倉本が管理に関わっていた現金三千万円が紛失し、その倉本が三日前から行方不明になった――というものだった。
「君、新聞見たいんか。私は何度も見たから、よかったらあげるよ」
 太吉の視線を感じた男が、いきなり新聞を差し出した。
「い、いや別に。どうも」
「そうかい」
 緊張した太吉の物言いに不審そうな顔をした男は、新聞を網棚に放り投げた。太吉に不安の白波が立ち始めた。倉本たちと一緒にいたところを村の何人かに見られていた。列車の揺れで体を左右させながら太吉は、ズボンのポケットに忍ばせている白手袋を握りしめていた。
 鈍行列車が米子駅に着いたのは夜九時過ぎだった。太吉はリュックを背負いボストンバッグを手に駅前に出た。東日新聞社の米子支局が入っている二階建てビルは駅の正面にある。太吉は駅前の交差点で長い信号待ちをした後、大通りを渡り歩道から短い階段を上がってビルの前に立った。支局の看板がかかった一階の一部屋だけに明かりがついていた。窓越しに見える支局の中は受付カウンターの奥に四つの机が置いてあるだけだった。人の姿は見えなかった。
「殺風景な事務所だ」
支局のドアを開けた太吉は意外に思いながら部屋の様子を探った。奥の現像室のような部屋で物音がしていた。太吉は難なくカウンターの前にボストンバッグを置き、両手から外した白手袋をズボンのポケットにねじ込みながら走り去った。現像室から出てきた支局員がボストンバグに気づき近づいてみると持ち手に東日新聞の切り抜きが絡み付けてあった。
支局を出て十五分後、太吉は三階建ての病院の前にいた。倉本の娘、真理子が入院している慈恵会共済病院である。太吉は当直室で部屋を尋ねた後、二階に上がり長い廊下を歩いて真理子の部屋にたどり着いた。
部屋の壁には四人の名前が記されたプレートがあった。太吉は右手でドアノブを少し引いて奥をのぞいたが、年配の女性ばかりである。ドアに一番近いベッドに目をやると酸素吸入し左腕に点滴をした女の子が横になっていた。顔は酸素マスクで覆われ、はっきりとは見えない。ベッドのわきでは疲れた表情の中年女性が椅子に座ってノートに書きものをしていた。倉本の妻、菊枝である。その菊枝が人の気配を察して突然、顔を上げた。それと同時に太吉もドアを閉めた。太吉は白い天井と灰色の壁に囲まれた長いトンネルの中を駆けていた。
その夜、太吉は米子駅前の旅館に宿を取った。翌日、朝食を済ませ、宿にあった東日新聞の朝刊で、心臓病少女のために三千万円が匿名で寄付されたと報じる記事を見てほっとした。今日は姉静子が行方不明になった当時に勤めていた会社を訪ね、手がかりを見つけるつもりでいた。
鳥取署の刑事を名乗る二人の男が倉本の妻で真理子の母菊枝を病院に訪ねたのは、太吉が宿で朝刊を読みながらくつろいでいたころだった。刑事たちは談話室で菊枝と向き合った。にきび跡が残る佐山にメモを取らせながら、来年に定年を迎える矢田貝が口を開いた。
「ご主人に横領の嫌疑がかかっているのをご存知でしょうか」
「ええ、銀行から連絡がありました」
 菊枝は矢田貝の顔を見ながら不安げに答えた。
「最後に連絡があったのはいつです」
「三日前の夕方です。金のことは心配するなというのが最後の電話でした」
「電話はどちらからでした」
「鳥取駅からだと思います」
「なぜそう思うのですか」
 矢田貝は白髪頭をまっすぐ菊枝に向けた。
「電話で主人が話しているとき、駅名を繰り返すアナウンスが聞こえましたので」
「ご主人が立ち寄りそうな所に心当たりは」
 矢田貝はじっと考え込む菊枝を油断なく見すえた。
「さあ。もともと米子の出身ですし……」
 菊枝の話に嘘はないと思った矢田貝は佐山を促して談話室を出た。
「あの、刑事さん」
 談話室を後にした二人を追いかけるように菊枝がドアから顔を出し呼び止めた。
「実は、さきほど知らない男が病室をのぞき見してたんです。私が気づくと走って逃げていきました」
 佐山が特徴を尋ねた。
「たぶん二十歳ちょっとくらい。とても背の高い男でした」
「人相は」
「一瞬だったので顔ははっきり分かりません」
 二人は病院を出ると、近くの飯屋で遅い朝食をとった。カウンター席で東日新聞の朝刊を眺めながら食べていた佐山がぽつりと言った。
「匿名で三千万寄付かあ……」
「何だいそりゃ」
 隣の席で、どんぶり物をかきこんでいた矢田貝が新聞をのぞき込んだ。佐山が記事の概要を説明した。
「三千万入りのボストンバグが東日米子支局の受付カウンターの前に置いてあったそうですよ。少女が渡米して心臓病の手術をするための費用にということらしいですね」
「ふーん、三千万ねえ」
 給料前になると財布に百円札が五枚と入らない矢田貝にとって別世界の出来事のように思えた。
「えっ、倉本真理子? 」
「なにっ」
 佐山が記事を読んでいて少女の名字が倉本であることに気づいて声を上げた瞬間、矢田貝も素早く反応した。
「よし、東日に行ってみるぞ」
 矢田貝が力強く言うと佐山は何度もうなずいた。二人は東日新聞の支局員から現金入りのボストンバッグを見つけたときの状況を聞いた。しかし、それを置いていった人物の情報は得られなかった。
「病院で倉本の奥さんが見た男と東日に来た人物は同じでしょうかねえ」
 東日支局を出た後、佐山が暗に同意を求めるように言った。
「今のところ何とも言えないなあ」
 聴取が空振りに終わり、矢田貝は珍しく沈んだ声だった。
「でも倉本が東和銀で三千万を持ち逃げして、その娘に三千万が寄付されていますよ。何かつながってませんか」
「任意提出してもらったボストンバッグから指紋が出ればいいがなあ」
矢田貝の低い声にその期待感はなかった。
                 ◇
太吉はこの日九時前に宿を出た。宿の裏手から続く商店街のアーケード通りを抜け、五分ほど歩いたら乾物卸問屋の木造二階建て社屋があった。一階の作業場で訪問の趣旨を伝えると太吉より年下に見える女性が二階の事務所に話を通した。
「先ほど連絡してもらった須藤と申します」
 太吉は慣れない言葉遣いで挨拶した。
「お姉さんを探してるんだね。この事務所にもお姉さんを知っている者は何人かいるんだけど、辞めた後のことは皆、分からないと言ってるなあ。やくざっぽい男たちに追いかけられていたようだが」
 五人の男女が事務を執る部屋の奥から出てきた中年男が答えた。
「やくざ? 何ですかそれは」
「お父さんの借金を返せとかなんとか言ってたね。しつこくてねえ、静子さん泣きそうな顔して対応していたよ」
「姉と親しかった人はいないでしょうか」
 男は振り向いて一人ひとりに確認するようなしぐさをした。
「入社してすぐ辞められたんでねえ……」
やはりあの老女の話は本当だったのか。不安の澱(おり)が太吉の心に沈み始めた。力なく前かがみになりながら階段を下り、作業員たちに目礼して表に出たときだった。年配の女性清掃員が声を掛けてきた。
「あんた静ちゃんの弟さんかい。お姉さんを探してるんだってね」
「あなたは」
太吉は親しげに話してくる清掃員の方に顔を向けた。白髪頭に水色の三角巾をかぶった女性は、ちり取りとほうきを手荒く道端に置いて太吉を隅の方へと促した。
「二階にいた静ちゃんとは短い付き合いだったけど、私に親切にしてくれたんだよ」
太吉はその先を早く知りたかった。
「静ちゃんな。最近、旭町で見かけたよ。バスで仕事から帰る途中、何やら大きな家に入っていく姿を窓越しに見たんだ。遠目だったけど間違いなく静ちゃんだった」
太吉には思わぬ朗報だった。静子を見かけたという家の地図を書いてもらい早速、米子の歓楽街になっている旭町に向かった。
米子駅からバスに乗った太吉は、静子が入って行ったという大きな家は誰の家なのかずっと考えていた。米子に親類縁者はいないはずだ。「旭町入り口」でバスを降りると道路の隅に髭面の男が段ボールの上でぼろを着て横になっていた。垢にまみれた男の姿が静子の境遇を連想させ、太吉の足取りは自然と早くなっていった。バス停から百㍍ほどの所に交番があった。太吉は清掃員に書いてもらった地図を片手にあたりを見回した。すると交番に立っていた若い警官がやって来た。太吉は地図を広げて指さした。
「ここに行くには、あの道を行けばいいんですね」
地図に目を通した若い警官は怪訝そうな顔つきで交番へ駆け戻って行った。
「君は何しにそこへ行くつもりかね」
交番から若い警官に先導され出てきた年配の警官が、訪問の目的を執拗に問いただした。警官の迫力に押され太吉が口ごもっていると、そこは暴力団岡島組の事務所であると教えられた。太吉は驚き呆然としたが、しばらくして声を絞り出した。
「姉に会いに行きます」
「えっ」
年配の警官が一段と険しい表情になった。
「お姉さん? 名前は」
「須藤静子です」
「あーっ」
 警官は分かった、というような顔をした。太吉は姉の名前が警察に把握されているのかと思うと情けなく悲しい気持ちになった。
「事務所の周りをうろうろしていたら何をされるか分からない。一緒に行って姉さんに会わせてやる」
年配の警官が若い方に目配せし案内してやるよう促した。
「あっ、ちょっと待て。やっぱり俺が行こう」
若い警官に先導されて歩き始めた太吉の背後から年配警官が意を決したように声を掛けてきた。
にぎやかな通りをしばらく歩き続け、商店街の方へ曲がるのと反対の道に少しばかり入ると、御影石を土台にした白壁が長々と続く岡島組があった。壁の向こうには手入れの行き届いた黒松が何本も見える。白壁に沿って数十㍍歩くと壁がいったん途切れ、二間幅の木戸になっていた。木戸の格子の隙間からは平屋の事務所が見え、事務所の奥にある建物は屋根にいくつもの鬼瓦を配した二階建てだった。
木戸の向こう側で見張り番に立っていた二人の若い衆のうち、でっぷりした兄貴分らしい男が制服警官を見つけ玉砂利を踏み鳴らして通りに出てきた。
「ご苦労さんで。今日は何用でございますか」
眉毛に墨を入れた男が太吉をちらりと見て警官にうやうやしく挨拶した。
「この青年は静子さんの弟さんだ。静子さんに会いに来たそうだ」
「へっ、さよですか。弟さんがいたなんて初耳で」
男は警官に頭を下げると太吉の方に向き直った。
「兄さん、何て名だ。どこから来なさった」
「須藤太吉と言います。稲積村から来ました」
「姉さんとはいつ別れたんだい」
「七年前です。姉は十八でした」
男はうんうんと言いながら得心がいったような顔つきになり警官に礼を言った。
「お手間かけ相済みません。確かにお引き受けいたしやす」
太吉も警官に深々と頭を下げ、男に促されるまま木戸の中に入っていった。岡島組と墨書された木板が事務所入り口のドアに掲げられ、窓越しに半袖の腕に入れ墨をした組員たちの姿が見えた。太吉は男の後につき、玉砂利の中に施された飛び石伝いに二十㍍ほどの庭路を通って組長の居宅まで行った。
「静さーん、お客さんでーす」
案内の男が大声で呼ぶと奥から和服姿の若い女が小走りで現れた。玄関先に直立不動で立っている背の高い若者を見て最初は誰だろうというような顔をしたが、太吉と分かると足袋のまま玄関に飛び降りた。
「太吉、太吉じゃないの」
静子は太吉の両腕をつかみ同じ言葉を何度も繰り返した。
「姉ちゃん。元気そうで良かった。連絡が取れず長い間、心配してたんだ」
あごの下にあるショートカットの髪から懐かしい匂いがした。太吉は静子をゆっくり押し戻した。七年ぶりに会う静子は太吉の脳裏に焼き付いていた少女の面影はなく、整ったうりざね顔を濃い目の化粧で彩っていた。
黄金色のシャンデリアが吊るされた応接室で二人は向き合った。皮張りのソファーに座るのが初めての太吉は、しきりに腰をずらしてごそごそしていた。
「太吉、どうしてここが分かったの。村は変わりない。しばらく泊まっていくんでしょ」
静子は笑みを浮かべて矢継ぎ早に話した。太吉は卸問屋で清掃員の女性から手がかりを聞いたことや作治夫婦も静子を心配していることを話した後、静子が連絡を絶った経緯を尋ねた。
「アパートや会社にやくざ者が毎日やって来て親の借金が返せないなら娼婦になって金を返せと迫ったの。ほんとに怖かったわ」
静子をじっと見つめながら太吉は次の言葉を待った。
「職場の目もあるし会社を辞めたわ。それからは組が経営する店で無理やり働かされたのよ。そのとき岡島が私を気に入り、この家に入ったの。こんな所だからね、あなたには連絡できなかった」
太吉は静子がつらい思いをしたと思うと黙ってうなずくしかなかった。
「ここに来てからよ。岡島が東京の高利貸しから債権を買い取ったらしいと聞かされたのは。それに親の借金を子供が返す必要はないということもね」
しかし、太吉は静子が何故ここから逃げ出さないのか疑問に思った。二人の間に沈黙の時間が流れた。
「これ、見てよ」
静子は着物の左袖をまくり、白く細い腕を見せた。ひじから上の方は薄墨色を基調に朱色の鯉が滝を登っていくさまがくっきりと彫られていた。背中には般若や龍の入れ墨をしているのかと想像してみた太吉は、どう言葉をつないでよいか途方にくれた。
「ここまで堕ちたら、どこへも行けやしないわ。もう蟻地獄よ」
静子の話が一段落したとき、ドアを乱暴に開けて幼女が入ってきた。小学校入学前らしく前歯の抜けた女の子だった。
「このお兄ちゃん誰」
 太吉を斜めに見ながら静子を問いただした。
「おばさんの弟よ」
女の子の方を見てなだめるように答えた静子は、太吉の視線を感じ向き直った。
「岡島の正妻の娘なの」
静子はため息をついた。
「えっ、どういうこと。姉ちゃんは、ここの奥さんじゃないの」
「岡島の妻と娘もいるところに私は住まわされているのよ」
太吉は頭に血が上って来るのを必死で抑えていた。廊下でバタバタと足音がしたため、太吉がドアの方を見ると中年の和服姿の女が入って来た。部屋に入ると太吉を一べつした後、女の子を連れて何も言わずに出て行った。
二人と入れ替わるように今度は腹を突き出した着流し姿の男が、のっそりと姿を現した。白髪の混じった角刈りで太吉にも負けないほどの大男である。やはり眉毛に墨を入れていた。
「静子、弟がいたとは知らなかったぞ」
岡島は鋭く言い放った。五十過ぎに見える中年男が若い静子を思い通りにしているのかと思うと太吉は腹立たしかった。
「太吉と言います。今日は突然にお邪魔して……」
憤りをこらえた挨拶の言葉は低く重く響いた。
「そりゃ、かまわん。今日は何か用かね。静子に会いに来ただけか」
 太吉の心を見抜いたかのように岡島もぶっきらぼうであった。太吉はしばらく間を置いて岡島に言った。
「今夜、姉と二人きりにしてもらえませんか。明日、帰ります」
「すみません」
 岡島が答えるより先に静子が謝った。岡島は「ふん」と言ったような表情で愛想もなく出て行った。
シャンデリアの淡い明りに照らされ、静子の化粧した顔が映えた。
「さあ食べて」
テーブルに置いた握りずしの大皿を前に静子が勧めた。太吉は初めての握りを口にした後、思い切って言った。
「姉ちゃん、稲積に帰ってくれよ」
 静子は一瞬、言葉に詰まった。
「こんな体にされたんじゃ……」
 太吉は静子が哀れでならなかった。静子はそれ以上何も言わずに話題を変えた。
「せっかく会いに来てくれたのに明日、帰るなんて」
 今度は太吉が黙ってうつむいた。太吉はしばらく迷った末、離れで聞いた男たちの会話から始まった一部始終の顛末を話した。最初は盗った三千万円を静子のために使おうと思っていたことや、殺した倉本の娘、真理子の病気のことを知り三千万円を新聞社に募金として届けたことも告げた。静子はテーブルに突っ伏して泣いた。
「私のために人を殺したのね……」
「姉ちゃん、泣かないで。俺はいいんだよ。実は病院で真理子ちゃんの顔を見に行ったとき、お母さんの顔も見たんだ。優しそうな人だったよ。もう俺、自首するよ」
「自首って……。二人殺したら死刑なのよ。姉さんを一人にするつもり。それに、あなたがいなくなったら伯父さん夫婦はどうなるの。あなたを頼りにしてるのよ」
 静子は太吉の両腕をつかみ自首を思いとどまるよう懇願した。静子の泣きながらの説得は夜明け近くまで続いた。太吉も最後には、うなずいてしまった。
早朝、太吉は静子に見送られ岡島邸を辞した。一応の目的を果たして稲積村に向かう太吉ではあったが、殺人をひた隠しにして生きていかなければならない将来に暗鬱たる気分になっていた。
                   ◇
 
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少年とおじいちゃん<21>最終回

2017-09-14 10:28:11 | 小説
「ねー。僕、休みの日に竜崎のおじいちゃんとこへ通って料理を習いたいんだ。お母さん車で送り迎えしてくれないかなあ」
 竜崎家から帰った和彦は晩ごはんを食べながらテーブルの真向かいにいる公子と左隣の雪男に相談を持ち掛けた。
「和ちゃん、勝手に決めたって竜崎さんにご迷惑よ」
「そりゃそうだ。話が逆じゃないか」
 公子に雪男もすぐ同調した。
「分かってます。ごはん食べたら、おじいちゃんに電話するんです!」
 何事にも引っ込み思案だった和彦が自分から何かをしたいと言ったのは犬を飼いたいと訴えて以来二度目だった。公子と雪男は和彦の変わりように驚いて思わず顔を見合わせた。
「あっ、おじいちゃん。僕、和彦です。昼間はごちそうさまでした」
 公子は電話を代わるタイミングを見計らうように受話器を握った和彦のそばに立っていた。
「えっ、ほんと。ほんとにいいんだね。じゃ、今度の土曜におじゃまします。何時ごろがいい? うん、分かりました。十一時ね」
 話がまとまったところで公子が和彦の背中をつついて代わるようせかした。
「竜崎さん、ご迷惑じゃないですか。はい、そうですか。ではうかがわせていただきますので。よろしくお願いします」
 公子は壁に向かって何度も頭を下げながら受話器を下ろした。
「カズ。お前、料理習ってどうするつもりなんだ」
 缶ビールを手にした雪男が半分笑って半分は真顔で尋ねた。
「僕、大きくなったら料理人になるんだ!」
「へー、ホテルのコックさんにでもなるのか」
「違うよ。おじいちゃんみたいに和食の料理人だよ」
「ほー、板さんかあ」
 缶ビールをテーブルに置いた雪男は座ったまま椅子を後ろに動かして大きな音をさせながら立ち上がった。テーブルにあったタオルの布きんを右手で拾い上げ左肩にかけると、はしを右手に握った。
「♫ 包丁一本ー、さらしに巻いてー。旅へ出るのも板場の修行ー。待っててーこーいさん……」
 ほろ酔いの雪男ははしをマイク代わりにして会社の宴会そのままに首を振りながら歌い始めた。
「なにーそれっ。はははっ」
 和彦は聞いたこともない歌だったが、雪男の節回しと首ふりの動きがぴったり合っているのがおかしくて腹を抱えて笑い転げた。
「お父さん、汚いでしょ! 布きん、取りなさい」
 公子の雷が落ちて短いショーは終わった。
               ◇
 カーン、カーン、カーン。待ちに待った土曜日が来て和彦と公子が公民館の駐車場に車を停め、竜崎家に歩いていくと金づちで釘をたたく音が響いてきた。二人が老人宅へ入る進入路に来て目にしたのは、手ぬぐいでねじり鉢巻きして金づちを振るう竜崎老人とレジ袋を手にした篠田民生委員の姿だった。
「おじいちゃーん」
 和彦はエプロンンと三角巾が入った小袋を左手に提げ、右手はタンのリードに引っ張られていた。
「おー、和くん。何とか間に合ったなあ。朝ごはん食べててふと気づいたんだよ」
 竜崎老人は背の低い和彦のためにキッチンの前に置くお立ち台を作っていたのだ。庭は草が刈られたばかりで草汁の生臭いにおいがした。老人は高さ二十㌢、幅六十㌢、長さ一㍍の台を二つL字に並べると、台に上がるよう和彦に促した。板は買ってきたばかりらしく木の香りがした。
「どうだね」
「うん。歩きやすいよ。ぜんぜんがたつかないね。おじいちゃん、大工仕事も上手なんだね」
「いや、それほどでも」
 老人は言葉と裏腹に満面の笑みを浮かべた。
「ほんとに竜崎さん、和彦くんとお友達になって明るくなられましたのよ」
篠田民生委員は公子に笑いかけた。
「はい、竜崎さん。これロールケーキ。この間のお礼です。頂いたキュウリのからし漬け、おいしかったわ」
 民生委員は老人の方へ向き直ってレジ袋を手渡した。
「いやっ、すまないねえ」
 受け取ったレジ袋を頭の上に掲げて恐縮する老人に公子が声をかけた。
「竜崎さん、和彦がお世話になります」
「いいや。わたしこそ和くんに救われた思いです。もう包丁を手にすることはないと思ってたのが、こんなかわいい弟子ができたんですから」
 竜崎老人は和彦の肩に手を置いた。大きな温かい手だった。
「おじいちゃんは今日から僕の師匠なんだね」
「そうだとも。和くんが一人前の板さんになるまで長生きして教えなきゃな。生きる張り合いができてうれしいよ」
「ウーッ」
 タンが低い声でうなった。
「あー、分かった、分かった。クロも仲間だぞ」
 老人は腰を落としてタンの頭をなでてやった。
「おじいちゃん、クロじゃないよ。タンだよ」
「ああー、そうだったな」
 老人は笑いながら胡麻塩頭に手をやった。公子と篠田民生委員は、からし漬けの話で盛り上がっていた。和彦は目の前にある老人の耳元でささやいた。
「おじいちゃん、仙吉さんは何でおじいちゃんとの約束、守らなかったの」
「うん、それはな……。和くんが、いつか言った通りだったよ」
 老人もささやき返した。
「あら、何をひそひそ話してるの」
 民生委員が二人の顔を見比べながら言った。
「いやっ……」
 和彦と竜崎老人が同時に同じ言葉を発した。
「はっはっはっ」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「まあ、おかしなお二人さん」
「じゃあ、五時に迎えに来るからね」
 篠田民生委員と公子は連れ立って竜崎家を後にした。
「おじいちゃん、ビシビシ鍛えてね。僕、日本一の板さんになってみせるよ」
「よーし覚悟はいいな。はははっ」
 タンに右手を引っ張られた和彦は左手にロールケーキの入ったレジ袋を持ち、二つのお立ち台を両肩にねじり鉢巻きした老人とともに家の中に入っていった。
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少年とおじいちゃん<20>

2017-09-14 10:25:04 | 小説
竜崎老人が右手で老眼鏡を外した。うつむいた竜崎老人の左ほおに一筋の光ったものが流れるのを和彦は見逃さなかった。
「おじいちゃん……」
「和くん。仙ちゃん亡くなったよ」
「そんなー。せっかく二人が会えると思って僕たち喜んでたのに」
老人は便せんを読み終えると四つ折りにして陶器の中に戻した。がっくりと肩を落とし背中が丸まっている。
「カズッ、どうしたんだ。不景気な顔して」
 食事をしながら便せんを読む老人に注意を払っていた誰もの気持ちを代弁するように弘人が声をかけた。
「仙吉さん亡くなったんだって」
 和彦の言葉に部屋は静まり返った。
「いやっ、みんな、元気だして食べておくれ。仙吉くんの供養だと思ってね」
 老人は慌てて場の雰囲気を変えようとした。
「あっ、その便せん、誰が書いたの」
 和彦があぐらをかいた老人の足元に置かれた赤い陶器をのぞき込んだ。
「仙ちゃんのお孫さんだよ。女性らしい清楚な字で書いてあるなあ。仙ちゃん、昨年末に病気で亡くなったそうだよ。死ぬ直前に心残りのことがあるって、この封筒の手紙を書いたんだ。それを中岳に埋めるようにお孫さんに託したんだそうだ」
「じゃあ、仙吉さんも大木の穴に手紙を埋めれば、おじいちゃんが掘り返してくれると思ってたんだ。二人とも考えることは同じだったんだね」
 和彦が老人を慰めるように言った。
「二人の心はつながってたんだよ」
 食べるのに夢中だった弘人がいきなり口をはさんだ。
「おーっ、弘人もたまには良いこと言うじゃないか」
 高貴が茶化すと司、卓也がそれぞれにはやし立てた。大人たちもどっと笑い声を上げた。
 部屋中に笑いの余韻が残る中、雪男だけは何か考え事をしているようだった。
「おじさん、どうしたの」
 高貴が隣の雪男に不審そうな顔を向けた。
「あっ、いや……。中岳で確か関西弁で私に話しかけてきた若い女性がいたんだが……」
「誰か、障子開けてちょうだーい」
 雪男が言い終わらないうちに公子の柔らかな声が響き、雪男が障子を開けると公子が温まった吸い物の大鍋を持って居間に入って来た。結局、間が悪く雪男の話はそこで立ち消えになった。
「おじいちゃん、封筒の方は読まないの?」
 和彦が老人を見上げた。
「うん、後でじっくり読ませてもらうよ」
「そうよ。仙吉さんの思いが込められた手紙ですもの」
 畳に置かれた鍋敷きの上に大鍋をのせた公子が、和彦をたしなめながら椀に吸い物をよそい始めた。竜崎老人はまだ何も料理を取っていなかった和彦のために中腰になって、たけのこご飯を小皿に入れて取ってやった。
「うまーい」
 和彦は一口食べただけで声を上げた。
「和くん、ほら。鯛のこぶ締めだよ」
 今度はつやの良いあめ色の切り身を載せた小皿が和彦の前に置かれた。
「ありがとう。今度から自分で取るからいいよ、おじいちゃん」
「はははは、そうかい」
 和彦はタイを一切れ口に入れた。
「ひゃー、味がしみてるー。これ昆布のうまみかなあ」
 和彦は公子が作る家庭料理とは違う味の世界にのめり込んでいった。ごま豆腐、ふろふき大根、アジのたたき……。次々と料理の味を確かめるように和彦は口に入れていった。今度は吸い物の入った椀を手に取った。
「あー、うまーい。おじいちゃんの腕前、すごいね」
和彦は感嘆の声を上げた。
「そうかい。ふふふふ」
老人の軽く笑った顔には自信があふれていた。和彦の顔も輝いていた。
「おじいちゃん、ここの電話番号教えてよ」
「ああいいとも」
 老人は腰を上げ後ろをむいて押入れを開けた。折り込みチラシの束を手にした老人は右手の人差し指をなめると五、六枚めくり裏側が白い小さめのチラシを抜き出した。
「はいよ」
老人は缶のふたからペンを取り出し電話番号を書いて和彦に手渡した。
「あっ、すっかり忘れてたよ。和くんの好きなタンをいっぱい買って来てあるんだ。どこにやってあるのかな」
 竜崎老人は民生委員に顔を向けた。
「あら、わたしも忘れてましたわ。冷蔵庫に入れてありますよ」
 老人は腰を上げ居間を出て台所に立った。冷蔵庫からタンの包みを取り出して鉄板でタンを焼き始めると、焼きあがった肉から次々と居間に運んだ。
一時間ほどの昼食を終えた和彦たちは、二台の車に分乗して家路についた。車を停めていた公民館まで見送ってくれた竜崎老人の笑顔が、和彦のまぶたに焼き付いていた。
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少年とおじいちゃん<19>

2017-09-14 10:14:29 | 小説
「ウーッ、ウーッ。ウワッン、ワンワワーン」
 タンがいきなり狂ったように吠え始めた。ガラーッ。玄関の引き戸が勢いよく開けられる音がした。タンは静かになった。
「あら、うちの人かしら。それにしても早いわね。よっこらしょっと」
 篠田民生委員は勢いをつけるようにして立ち上がり居間の障子を開けた。
「竜崎さん!」
「えっ、ほんと」
 民生委員の素っ頓狂な声に続き居間の七人が腰を浮かせて声を上げた。全員が一斉に立ち上がり我先に居間を出ていく。玄関には頭をかきながら照れ笑いを浮かべる竜崎老人が立っていた。タンは老人の足に両前足をかけてじゃれついた。雪男と公子はすぐ上がり口にかしこまったが、民生委員と子供たちは驚きと喜びが混在したような顔で突っ立ていた。
「おじいちゃん、治ったの! もう何ともないんだね。ほんとに治ったんだね。心配したんだから」
 和彦が喜々として声をかけた。
「あっ」
 思い出したような顔をした和彦は居間に駆けていき、収納ボックスの中棚にある赤い陶器を両手でつかむと開け放たれた居間の障子にぶつかりながら戻って来た。
「おじいちゃん、これ見て! 穴の中に埋まってたよ」
 和彦の膨らんだほおは赤く染まっていた。
「おーっ、おーっ。仙ちゃん……」
 竜崎老人は言葉にもならない声を発し、思わず仙吉の愛称を呼んだ。そして和彦の手から受け取った陶器を押し頂くように頭の上に掲げた。篠田民生委員以外は老人の歓喜にむせぶ顔を見て満足感に浸っていた。
「竜崎さん一体どうされたんですか。うちの人は?」
 民生委員は問い詰めるような口調になった。
「いやー、心配かけて申し訳なかった。救急車に乗るまでは死ぬほど痛かったんだが、救急車が動き出したとたん、ぴたっと痛みが治まったんだよ。それで先生の言うには詰まっていた結石が尿管から膀胱に落ちたんで痛みがなくなったんじゃないかって言うんだ。だからレントゲンもとらずにタクシーで戻って来たんだ。会長さんは公民館の駐車場で館長につかまって話し込んでるよ」
 竜崎老人は居並ぶ八人に何度も軽く頭を下げた。
「まあ、ほんとにそんなことで済んで良かったですよ。最初はびっくりしてもう……」
 最後の言葉が出なかった篠田民生委員はエプロンの端で目頭をぬぐった。そしてぐすっと鼻を鳴らして後ろを振り返った。
「今日は和彦くんのお友達とお父さん、お母さんも来られてますよ。皆さん、わたしが勧めても料理を口にできないほど心配されたんですよ」
 民生委員は泣いたり笑顔になったりと表情を小刻みに変えた。
「お留守におじゃまして申し訳ありません」
「治られてほんとに良かったですね」
 雪男と公子はそれぞれ両ひざに手を置き、続けて挨拶した。
「いやあ、この日のためにささやかな料理を作らせてもらいましたよ。それより今日はご両親にご足労かけて申し訳ない」
 竜崎老人はそう言うと上り口に腰かけて、脱いだ赤いサンダルのかかとをそろえた。
「あら、竜崎さん、そのサンダルは?」
 民生委員が、陶器を手に居間に向かおうとする老人に声をかけた。
「ああ、それね。病院を出るとき履物がなかったんで売店のおばちゃんに借りたんだよ」
 老人は何事もなかったような顔で言い、和彦たちを居間に入るよう促した。
八人は竜崎老人のために奥の仏壇下の席を空け適当な配置で座った。和彦は老人の左隣の席に着いた。
「おっと」
一声上げた老人は奥の席に着くと思い出したように後ろを向いて押入れを開け、下の段からもう一枚座布団を出した。そして居間の入り口の席で畳の上に座っている公子に渡すよう和彦に促した。
「ホイ、ホイ、ホイ」
子供たちは座布団のリレーが楽しくて掛け声を上げた。
「わたし、お吸い物、温めてきますから」
 受け取った座布団を畳に置くと公子は立ち上がった。
「ウーッワン、ウーッ」
公子が台所の板の間を歩く音に驚いたタンが横になったまま小さく吠えた。
「竜崎さん、さっき和彦くんがあなたに赤い陶器を渡してましたね。あれは一体何ですか」
「ああ、仙吉くんの手紙……」
 竜崎老人は目を大きく見開き、差卓の下に置いていた陶器を両手で取り上げた。右手でふたの中央についているぽっちをつまみ上げると底の浅い陶器から二つ折りの封筒がはね上がり、上に乗っていた一枚の便せんが畳に落ちた。老人は便せんを拾い上げ膝の上に置き、陶器を座卓の下に戻した。そして竜崎老人は咳ばらいをした。
「う、うーん。じゃあ皆さん、わたしが腕を振るった料理、どうぞ召し上がってください」
「おじいちゃん、それ読まないの?」
 隣の和彦が老人の膝の上を見つめた。
「おー、礼を言うのを忘れておったな。いやっ、皆さん、ほんとにありがとう。何だかドキドキするな」
 竜崎老人は胸ポケットから出した老眼鏡をかけると便せんをゆっくりと広げた。
「まあまあ、とりあえずいただきましょうよ」
 民生委員の一言で老人を除く全員が手を合わせた。老人は両手で持った便せんを顔に近づけた。
「いっただきまーす」
 子供たちの元気な声が部屋中に響いた。割りばしを右手に皿を左手にした子供たちは中腰になったり席を移動したりして好きな料理を取って食べ始めた。和彦は席を立たずに老人の横顔をうかがっていた。皿と皿が触れ合う音やにぎやかに談笑する声が、便せんの文章を読む竜崎老人には心地よく聞こえた。この部屋に活気がみなぎるのは妻を亡くして以来一年ぶりだった。
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