![]() | SUPER 8/スーパーエイト [DVD] |
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『SUPER8/スーパー8』 2011年(米)監督:J・J・エイブラムス
●ペンダントの意味するところ
「スピルバーグ映画へオマージュを捧げた作品」と微笑むエイブラムスの意志と映画愛が詰まった本作は(宣伝文句として乱用されている)『スタンド・バイ・ミー』(86)と『E.T』(82)を掛け合わせた作品ではないように思える。『スタンド・バイ・ミー』は男の友情を描いたが、本作は友情よりも絆を魅せている。『E.T』が少年の成長であるならば、本作はキリスト教の「隣人愛」や「赦し」をテーマにした「絆」の美しさではないだろうか。
大人たち(主人公と女の子の父親たち)は互いに憎み合い、子供たちは欠損家族ゆえに孤独となっていく。本作において主人公と女の子の孤独を表現するために家族と会話をするシーンはほとんどないし、映画監督であるデブの少年一家(裕福で、大家族に囲まれた理想郷)が主人公と度々対比され、より一層彼らの孤独を映像だけで感じさせるから巧い。
孤独な主人公と孤独な少女は、共に欠損家族だから惹かれ合う。母親不在。惹かれ合う子供たちを尻目に、父親同士は憎しみ合う。純粋な子供の姿は、憎しみ合い、赦そうとしない大人たちを涙で批判しているかのようだ。そしてラスト。「12000人を守らないといけない」と息子に投げ捨てた保安官の父親は、失いかけていた子供たちを取り戻そうと決意し、最も憎んでいた男を「赦す」。全てを受け止め、自分たちが本当に守るべきものを見出すのだ。相手を赦し、絆を取り戻した二つの家族。もぅ、独りじゃない。欠損家族は「絆」によって満たされていく。
磁力で引きつけられたペンダントを掴む主人公。母親の形見であり、母親との離別と覚悟、自立をも意味するペンダントは、「孤独の象徴」でもあるのではないだろうか。ペンダントの写真に残る母の姿。8ミリ・フィルムに残る母の幻影。だから彼にとって、写真と映像こそ孤独を忘れさせるオアシスなのではないのか。
ペンダントは磁力によって引きつけられ、主人公は自らの手でペンダントを手放す。なぜなら彼はもう孤独ではない。母親に頼ることもないし、母親がそばにいなくても、もぅ、大丈夫。孤独ではない。孤独は絆によって解消されていく。エル・ファニングと結ばれた手。その手は、恋心だけではない美しき絆の象徴でもあるようだ。二つの家族は、結ばれたのだ。
そして彼らと同じように地球に漂着して以来、孤独となった宇宙人も絆を求めて故郷へと帰って行く。
●「LOST」の作曲家マイケル・ジアッキノとエイブラムスの映画的表現
もちろん物語的な爽快さと美的感動は禁じえないが、何よりも映画的だと感心するのは、海外テレビドラマ人気シリーズ「LOST」の作曲家であるマイケル・ジアッキノの手腕であろう。『LOST』のエピソード終盤における感動的なクライマックスで流れる清く涙腺を刺激するサウンドトラックが、そのまま再現されたかのような本作のクライマックスにおけるサウンドトラックは、スローモーションとローアングル、サウンドと物語りとしての絆の集結が成就した映画的なシークエンスではないだろうか。
サウンドトラックもさることながらJ・J・エイブラムスの視覚的ストーリーテリングもずば抜けて才を感じる。
オープニング。リリアン工場の無事故記録が映し出される。閑散とした工場に飾られた記録は二年以上もの間、無事故であることを示している。しかし数字ははがされ、「1日」という数字が。画面は変わり、肩をなでおろす少年の憂鬱な表情が映り、少年の親族が事故で死んだことを感じさせてくれる。
凡庸な作り手であれば、状況を言葉によって語ってしまいがちだが、新鋭作家のエイブラムスは映像で、視覚的にストーリーを語ってしまう(ストーリーテリング)から刺激的で引きこまれるではないか。さらにサスペンスやショック・シーンにしたって、エイブラムスの映画的表現の巧さがにじみ出ているように思える。
●「音」と「映像」
ガソリンを入れる保安官。ガソリンのメーターは上がっていくにつれて鈴のような音が鳴り響く。そこで林の中で何かが音がする。近づいていく保安官。まるで心臓の鼓動のようにメーターのサウンドの周期が早まり、最高潮へと達すると静かにサウンドがおさまっていく。まるで命の砂時計が尽きるように。無音。破裂するような勢いでショックが鳴り響き、緊張感は一気に破裂し、新たな緊張感を生みだし、後に起こる「何かが近付いてくる」サスペンスに、観客はより一層の緊張をはしらざるを得ない。
巧みに計算された聴覚的な表現と映像が噛み合ったサスペンス・シーンであり、CGの爆破シーンよりも映画的な感覚を体感させてくれる。古典的な表現手法には映画への愛すら感じさせられた。
●映画愛(懐古趣味)に溢れた映画
「あの火事は軍が起こしたものだ」と暴露する男二人をカーテンのシルエット越しに映すショットは、『インディ・ジョーンズ』シリーズを彷彿とさせ、映画監督であり、ゾンビ映画マニアである少年が言い放つ「I have bad feeling about this(嫌な予感がする)」という台詞は、『スターウォーズ』(77)シリーズで必ず出てくるマニア必須の名セリフである。
スピルバーグをはじめ、エイブラムス世代が強烈な影響を受けた8ミリ・フィルムの自主製作。70年代のアメリカで大ブームを巻き起こしたゾンビ映画。絆を謳ったSF映画の王道を現代版でリメイク。ジュブナイル映画という80年代〜90年代のハリウッド黄金時代を飾るサブ・ジャンル。
木々が揺れ動き、何かが奥にいるというのは、『ジュラシック・パーク』(93)だろうか。そしてラストの閃光の輝きに溢れたショットは、『未知との遭遇』(77)。子供の純粋さが大人たちを改心させ、絆を生みだしていくスピルバーグ映画の王道「イノセンスの勝利」。
70年代から90年代の古き良きハリウッド映画の黄金時代を思い出させ、当時、映画人やシネフィルが少年時代に「体験」した、あの頃の映画への愛を走馬灯のように魅せてくれる愛情と優しさが本作に溢れているように思えるのだ。
本作のクライマックスは、まさにハリウッド第九世代とも呼ばれた黄金時代を思い起こさせ、映画作品内の感動ではなく、映画作品外の部分で個人的な感動を生みだしてくれる。本作はそんな映画の愛に包まれている。
間違いなく本作は本年度のベストであり、ここ十年間でベストのSF映画であった。
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映画愛に溢れた作品でしたね。
オープニングの無事故記録がリセットされてからの一連の見せ方は、巧いと唸らされました。
「古典的な映画表現」と仰っていますがまさにその通りかと思います。今作品は、まだCGが広く使われる前の映画の雰囲気がありますよね。
ただ、個人的にはモンスター映画にする必要があったのか、というところに疑問を感じてしまいます。むしろ、怪物の存在を匂わせつつ、画面には一切登場させないくらいの英断があった方がより締まった作品になったような気がします。
私的にはモンスター(宇宙人?)が姿を見せて良かったと思います。確かにモンスターを見せないというのは、非常に古典的な演出であり、緊迫感を生み出します。それゆえ本作でもガソリンスタンドのシークエンスでモンスターを見せていないですね。
しかし永遠と姿が見えないままだとテーマやドラマが失われると思います。本作は主人公の孤独と再生がドラマの主軸となっており、モンスターが自分と同じ境遇、つまり故郷を失った者同士であることが重要な意味を持ちます。そのため、モンスターと少年は向き合う必要があるし、姿が見えなければ、彼らの関係や向き合った時のドラマを体感することはできなかったのではないでしょうか。
ラスト、絆で結ばれた主人公と宇宙へと飛び立つ宇宙人が同じ空間と時間を過ごします。彼らは共に故郷へと帰還することができたのです。そうした主題を生むためにも宇宙人の姿を見せるのは絶対条件で、もし見せなかったら、ただのモンスター映画になっていたと思います。
そのため、私は本作はモンスター映画だと思っていません。ETがモンスター映画ではないように、本作はドラマであり、SF映画どと思ってます。
少なくとも演出と構造を見る限り、SFドラマに思えます(^_^)/
コメントありがとうございました!
私のブログで返信させていただいていますので、是非お立ち寄りください。今後もよろしくお願いします!!!
長ーい文章になりましたが、私なりの考えを載せています。お時間ございましたらぜひお立ち寄りください。