
『ダーク・フェアリー』 2012年(米)監督:トロイ・ニクシー
●ホラーにおける脚本の重要性
孤独感と家族内の閉塞感を醸し出す「西洋屋敷」を存分に利用した本作は、西洋ならではのホラー・サブ・ジャンル「Haunted House Film」の正統派と言って間違いない。母親に問題を抱え、家族から分離された孤独な少女。真っ暗な地下室で出会う奇怪なモンスター。『パンズ・ラビリンス』(06)の監督・脚本を務めたギレルモ・デル・トロが、本作の脚本を担当しているためだろうか、『パンズ・ラビリンス』との酷似点が数多く見られる。にもかかわらず本作は、『パンズ・ラビリンス』のような哲学的な暗喩、ホラー・テイストとしての忌まわしさ、緊迫感あふれるサスペンスなどを生み出せないばかりか、それらを遥かに凌駕する魅力を発揮することができてはいなかった。そこで本論考では、本作と設定が非常に似ている『パンズ・ラビリンス』と比較しながら、なぜ『ダーク・フェアリー』が私的に退屈だったのかを分析していきたい。
そもそも『パンズ・ラビリンス』が何よりも魅力的だったのは、少女の行動や目にするモンスターたちが現実の産物であるのか、もしくは彼女の孤独と願望が生み出した妄想であるのかをラストまで明かさなかった点にあると思う。彼女が献身的に尽くすモンスターたちを彼女の父親は見ることはできないし、あくまで彼女の視点だけで語られる。そのため『パンズ・ラビリンス』に対して多面的な解釈が勃発し、時には「少女と対話し襲ってくるモンスターたちは彼女自身が抱える「孤独と恐怖のメタファー」である」と読解することもできた。また献身的で哀しみに溢れた彼女の努めに胸打たれることもあり、奇想天外な造形をしたモンスターたちが彼女に迫りくるサスペンスには、ホラーフィルムであるかのような恐怖を体感させられたものだ。しかし本作『ダーク・フェアリー』は見事に『パンズ・ラビリンス』の真逆をやってのけ、(それが逆転の発想となれば良いのだが…)凡庸な「Haunted House Film」に仕上がってしまった。
●求めるのは嗜好ではなく、挑戦
まずオープニングで、暗闇に潜む暴力的な妖精たちの存在を暴露し、老人が食べられてしまう描写を入れたことが脚本的に不味い。悪の妖精の存在を暴露することにより、本作は「少女の妄想か否か」という解釈の曖昧さを否定してしまっている。『パンズ・ラビリンス』のようなダーク・ファンタジーの代わりに、「家族VS悪の妖精」という対決構図を観客に突き付けたことによって、モンスターに襲われる少女の「怖れ」が主題となったのだ。すなわち「物理的暴力への恐怖」である。これは周知の通り『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』といった作品以前から永遠と描かれてきた往年のホラーフィルムの主題であり、なぜこのようなアプローチを仕掛けたのか謎である。
なぜなら『ザ・リング』や『呪怨/THE JUON』のヒットでジャパニーズ・ホラーという新たな恐怖の源泉を手に入れ、それらの演出や脚本術を『ゴシカ』や『ミラーズ』『ゴースト・ハウス』で積極的に取り入れてきた今日のハリウッドにとって、「物理的暴力への恐怖」という使い古された恐怖の対象は相当に巧妙な演出をしない限り、恐怖にはならないからだ。様々なホラー映画を堪能してきた今日の観客が、小さな妖精たちの襲撃に対し恐怖するとは到底思えない。だからこそ本作は『パンズ・ラビリンス』のように解釈の曖昧さを武器にし、少女だけの視点で描ききるダーク・ファンタジーで推し進め、哲学的なドラマ性を追求していった方が適切だったのではないだろうか。その中でショック演出を挿入させ、ホラー・テイストに仕上げれば、なおのこと新鮮でドラマティックだったように思える。観客の目が肥えている今日のホラー映画界。いつまでも同じ嗜好で映画を作っているようでは観客を満足させることはできないと思う。なぜならホラー映画界は常に「挑戦あるのみ」なのだから。
この記事が気に入りましたら、
下記のバナーをポチッと押して、投票お願いいたします(・∀・)♪
⇓












まさに仰るとおりだと思います。
確かに西洋の妖精は、例えばエルフとかドワーフなどが妖精に分類されているように、必ずしも非物理的存在ではないですが、この作品で「物理的暴力への恐怖」を求めてしまうといかにも苦しいですよね。
物凄く突っ込むなら、みんなであの入り口を封じてしまったらそれで終わりジャン!となるわけで。実際最後には塞がれていましたし(苦笑)漂う空気感、映像編集や処理から感じられるダークな雰囲気はデル・トロテイストですが、中身が伴っていなかったのが惜しいです。
KLYさんの言うように雰囲気を醸し出す映像表現はうまかったですね。
ただ少女の孤独や家族関係という「不可視的な問題」を主題としているのに、ホラーとして実践しているのが妖精との大バトルといった「可視的な問題」であるのは得策だとは言えませんよね。
この対極的な二つの問題を同居させるのは非常に「難しく、本作でも可視的な問題が前面に出てしまい失敗していると言えるでしょう。
雰囲気がでていただけにもったいないですね。