静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

書評 # 04

2014-05-24 21:30:01 | 書評
「虫の思想誌」:池田清彦 著 *読んだのは1990年<現代思想>に連載されたものの97年文庫版。

 全12章を貫くのは、著者によると「突然変異」及び「自然選択」で生物の起源から進化の全てを説明しようとする<ネオ・ダーウィ二ズム>への厳しい反論だ。何はさておき、「突然変異」なる”偶然 ”を介在させることひとつをもって(現代主流の新進化論は科学ではない)と斬って捨てる。ここは私の如き門外漢にも大変納得しやすい。<構造主義生物学>と自らを位置づける著者の論旨と視点は、全編に溢れているが、理解は簡単ではない。

 簡単ではないが私に最も説得力あるのは8章<虫に未来はあるか>で示す《時間》概念の構造主義的解析、それと《進化》概念の対比である。即ち、「自我と時間の双生:大森荘蔵氏」を踏まえ、自我とは自己同一性のことであり、(自我=不変の自己同一性を意識する存在としての私)&(私=刻々変化する現象としての私)の同一体における共存を結びつけるのが《時間》だという。前者の同一性意識があるものには「名」が与えられ、固有の《時間》が存在する。「名」が与えられないモノはこの世に存在しないモノであり、従って固有時間はもてないわけで、時間をもたないモノには過去・現在・未来のいずれもなく、進化もない。これまた、わかりやすいではないか。

 進化の論点以外で興味深いのは、地球上の全ての生物を収奪せねば生きられない人間にとり、どのような人為を自然に加えれば生物の多様性は最大限に保たれるか?という問いである。9章<ギガンテア最期の日>で著者は左の問いかけにおいてのみ日本の農耕民族伝統を<文化>と呼ぶのに反対しないという。これは、自然保護の美名のもと繰り返される生育環境全体ではなく固体/固種保護でことたれりとする”まやかし ”を批判した<5章:マニアという名の罪人>とも通底している。

 最後に、人間が《XXを好きになるとはどういうことか?》

12章<虫狂いの頃>で著者はそれを<構造主義>で分析してみせる。著者によれば、XXを好きになる心理の基底構造とは対象XXの中に{言語化できない秩序}を見つけ出す能力ではないか、という。私は構造主義はわからないが、著者のいう{言語化できない秩序}とは畢竟、【美】のことではないのか、と思える。この直観は誤っているかもしれないが、どうも私には【美】ということばしかあてはまらないのである。
 

 
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