静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

書評;040-5     < 英語で読む万葉集 >  りービ英雄  岩波新書 920

2015-05-22 14:14:32 | 書評
  ≪ 2. イメージの醍醐味、それは「映像」に近い ≫
 この章では、長歌2首(山部赤人・未詳人)と短歌4首(柿本人麿・高橋虫麿・山部赤人・沙彌満誓)を取り上げ、先の1章で示した「叙景と過ぎし時間」の組み合わせから「火山列島日本の風土の力強さと映像美」にリービ氏は視点を移す。火山列島の力強さを、彼はいにしへの詩人達が抱いた”富士山への畏敬の念”に見出す。
 
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ い出立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上がらず 
燃ゆる火を雪もて消ち 降る雪を火もて消ちつつ 言ひもせず 名づけも知らず 霊(くす)しくも 座ます神かも・・   (作者未詳:巻3・三一九)
  Rising between the lands of Kai, of the dark mountain pass, and Suruga, where the waves draw near, is Fuji's lofty peak.
  It thwarts even the heavenly clouds from their path. Even the birds cannot reach its summit on their wings.
  There, the snow drowns the flame and the flame melts the snow.    I cannot speak of it, I cannot name it, this occultly dwelling god ! .........
* 不尽の嶺を 高み恐(かしこ)み 天雲も い行きはばかり たなびくものを                       (高橋虫麿: 巻3・三二二)
  Because of Fuji's lofty heights, even the heavenly clouds, in their awe, are thwarted from their path and hang their trailing.
この長歌・反歌ともに火を吐く冨二の山への恐れ/畏敬そのものであり、現代も残る日本人のアニミズム嗜好が自然讃歌として1300年前から謳われ続けたことに
リービ氏は感じ入り、富士山の与え続ける神のイメージと映像性の結びつきが古代歌謡の魅力だと主張している。
* 田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける                         (山部赤人・巻3・三一八)
 
 言うまでも無く、富士への畏敬/恐れ/アニミズム信仰と「白」「純白」崇拝が山岳修験道を通じて結び合い、やがて神道の形成に連なっていったことは周知のこと。その「白」への憧憬・珍重は今も変わらない。純白から潔癖へ、無類の綺麗好きへ、清潔志向から無瑕疵へ。 そう、日本人の心情とモノづくりに於ける神経質なまでの品質追求心・・・「白」信仰からここに至るのも容易な連想である。

* 世の中を 何物(なに)に譬(たと)へむ 朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の跡無きごとし                 (沙彌満誓:巻3・三五一)
「人の世・人生とは何か?」この人類永遠の哲学的抽象に(朝の光・水面に残る船の艪跡)という具象だけで答える。これを仏教歌ではなく、動的で視覚的な「ことばの映像化」だとリービ氏は喝破した。 ここに彼は、古代日本語の普遍性と躍動感をみたのである。  例えば西行の和歌と比べれてみればよくわかる。
* 願はくは 花の下で 春死なむ その如月の 望月の頃                                 (西行法師:山家集・春歌)
 時代を下る古今・新古今に納められた歌との大きな違いは、万葉集には生きる苦しみや人生の儚さを謳いながらも「死」そのものよりも「生」について謳う方が殆どだという点。それは伝来仏教の宗派の差<=浄土思想の輸入>なのだが、産業は発達せず人口まばら、大自然の中で悩み少なき古代人にとり、「死」は遠い彼方にあり、目の前を餓えずに生き延びることの方が遥かにおおごとだったからであろう、と私は想像する。そんな時代にあって、沙彌満誓の短歌は重い。≪ つづく ≫
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 書評;040-4     < 英... | トップ | ★ 2015.05.22    < イ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

書評」カテゴリの最新記事