静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

書評 066-2 『 ラジオのこちら側で』 ピーター・バラカン 著 2013年刊 岩波新書

2017-02-24 10:05:41 | 書評
【1】 現代ジャズなどポップス音楽の共時性・・・クラシック音楽選好人種の階級性、「聖 vs 俗」、現実逃避と共生
 ★ 激動の60年代に青春期を送った英国の男の子、ピーター・バラカン君は、ザ・ビートルズの出現で始まる≪ポピュラーミュージック:ポップス≫に魅了され、
   ボブ・ディラン/PPMの反戦歌に高揚する少年だった。なに、私と似たような少年だったのだ。そのPBは大學卒業後にポップス音楽に関連する業界を選んだ。 
   私の好奇心をくすぐるのは、なぜPBがロンドン大学で日本語を習得しようと思ったかであるが、其の辺りは彼の別の著書にでも書かれているのかもしれない。
 ☆ PBが来日した頃の日本のポップス界のビジネスは、アメリカとイギリスで流行した(している)曲のLP盤をレコード会社が輸入し、其の解説や楽譜販売を
   出版社が行う、こういう業態だった。PBが東京で雇われた背景は、音楽出版社が版権獲得のための契約/交渉ごとの補助だったという。
 彼によれば、70年代の日本で人気が高かった若者向けポップスは<スティ-ヴィ―・ワンダー><ディオンヌ・ワ―ウィック>などの他、<カーペンターズ>
<サイモン&ガーファンクル>だ。何故か、ジャズは当時の若者に受けなかったとPBが書いているが、それは、大學でビッグバンドジャズを演奏するクラブに入りながら面白くなくなり止めてしまった私自身の経験とも符合する。 事実、日本でもアメリカでも”ビッグバンド音楽”は、60年代までを若いオトナで過ごした世代のもはや”懐メロ”でしかない。

 フォークソングに続く<カーペンターズ>< S & G >の世界的人気の理由、そこにはヴェトナム戦争に倦み疲れるアメリカの若者に漂っていた『虚無感/諦念』だったと私は分析している。 Yesterday Once More、Bridge Over Troubled Water などの歌詞に溢れる「優しさ」「哀しみ」は澄み切ったメロディ―と相まち、当時を多感な年齢で過ごした世代にしか繰り返し想い起されることはあるまい。 実際、私は何度聴いても眼がしらの奥から熱い記憶が湧き上がり、アメリカという国の姿、そして当時の日本に生きていた一人の若者だった自分を追憶する。

 PBは音楽出版社に身を置きながら、ひょんなことで Disc Jokcey=DJ を片手間に始め、人気も少しづつ出たことと多忙から遂にサラリーマンを止め現在に至る。 其の歩みは、DJからラジオ局で番組を持つ Broad Caster へと変わるが、私が最も感じたのは、「その時々の若者世代とラジオ番組を通してバラカン氏は、時代と共に生きてきた」ことである。  最初は英語圏(イギリス&米国)のポップスだけだった彼の選曲が、アフリカやインド・ラテン諸国、南アジア等のポップスへ拡がった。ここがPBの優れたところで、単なる DJ から一家言もつ Broad Caster に己を確立した。

 翻って、クラシック音楽の現代における作曲家/演奏家/愛好者は「音楽を通して時代と共に生きてきた」と言えるか? 20世紀後半このかた、世を変えるインパクトをクラシック音楽は与えていない。 20世紀前半以前に創られた楽曲を今も演奏し、CDで繰り返し聞かれるだけだ。王侯貴族のサロンから劇場での演奏会に表現の場が転換した19世紀以来、作曲家/演奏家も聴衆も、劇場の外で何が起ころうとわれ関せず、ではなかったか?
 現実逃避というと強すぎるかもしれないが、どうもクラシック音楽愛好人種には「聖と俗」の「聖」に安寧を求める心情があり、世の「俗」とは切り離した時の歩みを生きる傾向が見て取れる。 かくいう私自身が自分に其の心情と傾向をみるからに他ならない。
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