静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

≪ 生前葬 ≫   生きた証とは?  自分ではなく遺族の癒しの為なら弔われたいか?  不治の病でなくばフツウの葬儀か?

2017-12-12 09:17:01 | つぶやき
★ 増える?生前葬 元気なうちに感謝伝えたい 「生きた証し」コマツ元社長も https://mainichi.jp/articles/20171212/ddm/012/040/083000c?fm=mnm
・ <会が終わった後、安崎さんは記者に囲まれ「人生で巡り合った人に握手し、ありがとうと言えたことに満足している」と語った。個人で会を企画した理由については
  「会社に頼んだら私の希望とは関係なく儀礼風になる。せっかく来てもらうなら、楽しく帰ってもらおうと考えました」。>
・ <葬儀は、故人に関わりのある人々が集まって最後の別れを告げ、あの世へ送り出す営みを通じて悲しみを癒やす役割を持つ。だが、残された人たちによる儀式であり、
  故人は関与できない。 それを生きているうちに自分でやるのが生前葬だ。>
 ⇒ 「生前葬は今後、増えると思います」と言うのは終活事情に詳しい第一生命経済研究所の小谷みどり主席研究員だ。「有名人ではない一般の方の生前葬は結構あります。
   子供が障害者で『自分の死後もうちの子をよろしく』というケースや、シングルで死んだ後に葬式をやらないという方が友人を集め、感謝の集いを開くケースもあります」

 ここまで読んで、皆さんはどうお考えだろう? 自分が未だ持っていると思われる”人生の残り時間”を真剣に考えだした年頃、例えば70歳近辺にある人なら、墓を巡る親族/家族のしがらみ、親子関係にまつわる様々な変化、「イエ意識」との葛藤と自分の立場などなど、胸中に浮かぶだろう。 樹木葬は墓/檀家/イエ意識へのアンチテーゼだが、「弔う行為」そのものとは別の話である。  <自分で自分を弔う>それが生前葬だ、ということか?

・ <小谷さんは「呼ばれる側が戸惑う。古希の祝いなら喜んで行くが、生前葬は『笑ってはいけないのでは』とか『何と声かけすべきか』とか。でも、古希祝いも生前葬のようなもの」
  と分析する。それでも「生前葬を通して自分のネットワークで新たな人のつながりが生まれ、それが自分の生きた証しにもなります」と積極面を強調する>
※ ふむ、なるほど、自分の生きた証を元気なうちに確かめておく。そのための形式だと整理すればわかるが、其の心境とは、死を目前に自覚せねばなれないものなのか?

◆ 生きた証を確かめるというが<子供が障害者で『自分の死後もうちの子をよろしく』というケースや、シングルで死んだ後に葬式をやらないという方が友人を集め、感謝の集いを開く
  ケース>の場合、当人はそうして確かめる「生きた証」の無念さに打ちひしがれないものだろうか? と思わず反問してしまう。 
 私の知人にも、子供が心身いずれかの問題を抱え、己の死んだあと此の子はどうして生きてゆくのかと苦しむ人は少なくない。親が居なくなった後、其の子供は福祉施設で生涯を過ごす
 ことになるが、そういう子を長く抱えて人生を送ってきた当人にとり「生きた証とは?」の問いは亡くなるまで消えまい。そういう人に<生前葬>はどう理解されるのだろう?
  心身の障害とまでいかないが、”引きこもり”が高じて社会に出られない子を親が丸抱えにしている例の場合も、自分が旅だった後の心配は似たようなものだろう。親譲りの土地があり
 アパート経営などで収入の道を残してやれる幸運な人はマシだが、大多数の親は、そのような幸運を享受できない。
 
老いてなお、自立できない子供の世話を続ける自分を不運だと感じ、そういう子を持たず年齢を重ね自分の為に残り時間を使える同輩をねたむ気持ちなどゼロだ、と本音で言える人はいいが、そうでない人も居よう。 私にはどちらが多いのかわからないが、そうでない人にとり、<生きた証>を確かめる意味での生前葬はどう映るのか?
かくいう私は、少年期の自閉症の影響ゆえか、30歳近くまで苦節を経て、今は何とか社会生活を送れているように見える我が次男の将来を思うと、「生きた証とは?」の問いは他人事ではなく、己への問いだ。
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