静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

 言論の自由を壊そうとする 安倍政権

2016-02-18 21:53:39 | 時評
 ◆ 高市氏の「停波」発言 ホントの怖さ http://mainichi.jp/articles/20160218/dde/012/010/060000c
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 安倍政権とNHKが放送法第4条に抵触してきた事実は、(一)以外の(二)~(四)である。  ・・・具体的には、
 * 昨年、安倍首相が沖縄での戦没者慰霊式典で地元住民からヤジを浴びたことを無視し報道しなかった。 ← (二)(三)
 * 安保法制関連の国会議事堂前デモについて殆ど報道せず、報道する場合も参加者の主張音声は流さず、単なる風景のように写すだけ。 ← (四)

他にも拾えば幾つも出て来るだろう。これまでも問題視されてきた、民法幹部やNHKを党本部に呼びつけては目に見えない圧力をかける行為そのものが、(二)(四)を盾にした威嚇であることは否定しようがない。 
 問題は、メディア自身の隷従だけでなく、一般国民の関心が低いことである。 自分の給料と景気回復しか関心をもたず、他人ごとのようにしか「言論の自由」そのものが捉えられない、文科省の目指してきた(人権教育/政治教育)忌避の賜物だろう。 それでいいのか? どうして、世の現役世代は声を挙げないのだ??    
    もうすぐ世を去る我々はどうでも良いが、後に残る諸君に モノ言えぬ不自由が来るのだぞ。
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★ 2016.02.18.  ≪ 手で「書く」 vs 電子端末で「読む」 ≫  思う vs 考える  

2016-02-18 21:10:57 | トーク・ネットTalk Net
 ★ しあわせのトンボ 「思う」--「考える」=近藤勝重 http://mainichi.jp/articles/20160218/dde/012/070/006000c?fm=mnm
・ 胸に抱く希望や、何かをしようとする気持ちなどが「思う」で、「考える」はあれこれ比べるなどして結論を出すというのが、ぼくの理解だ。
  「思う」がまずあって、「考える」と続くのが一般的な思考の流れだろう。
・ ただ、ぼくの場合は「思う」と「考える」の間で、メモも含め「書く」という作業がしばしば伴う。書かないとちゃんと考えられないからだ。物事について何か思うことがあり、
  どうしたものかと疑問に思うと考え始める。 しかし、ああでもない、こうでもないとなってくると、書きながらでないと頭が働かない。 かつ、考えているうちに
  次から次に疑問や新たな答えが浮かんでくるので、何らかのかたちで書き留めておかないと、考えも前へ進まないのだ。
・ 書いて考えていると、物事の意味や内容への頭の理解はもちろん、そのことに心がうなずかないと、作文であれ、リポートであれ、前へは進めない。
  つまり書いて考えるということは、頭と心の往復運動を伴うので、同時に頭と心も生き生きと動いてくれるわけだ。   ← ここがポイント
<それはスマホに始まり、スマホで終わる一日が可能にしてくれるものでは決してない。スマホは物事によっては頭の理解や心の納得抜きでも手のひらの画面に答えを出してくれる。 しかし、ぼくらにとって勉強って何だったのだろう。理解と納得の過程にこそ勉強があったのでは……などと思うと、「スマホの人」の先々についつい考えが及んでしまう。>

 まさに我が意を得たり。 近藤氏は思惟と作文について述べているのだが、およそ文芸表現の根源も「思う」と「考える」の中間にある「書く」行為そのものだ。
例えば、詩。・・・何かに心が動かされ(思う)、それが≪何か≫を意味しているのか追い求める(考える)為、自発的に【言葉】を用いて≪何か≫を構成しようとするのが詩であろう。 音楽の場合は【言葉】の替わりに【音符】で、絵画では【線と色】で≪何か≫を構成する。 
 創作活動とはそういう精神の営みであり、自分の頭で考えるために「書く」行為を入れなければ、(感じたこと/思ったこと)は残らない。 自分の中にも、他者の中にも。  
 つまり、人が自分の生きた証しを残したいなら、こうした「書く」行為をせずにはいられない。そのような知的営為と、他人が用意した答えを受け入れるだけのスマホ依存のヒトは
無縁であろう。  <自分の頭と言葉>で貴重な人生の時間を使いたいものだ。  近藤氏が憂う点は、ここである。
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☆ 2016.02.18.. ≪ フランスで 食品廃棄禁止法 成立 ≫   問題視すべきは”廃棄品横流し”ではない

2016-02-18 10:03:01 | トーク・ネットTalk Net
 ☆ フランス 売れ残り食料、廃棄禁止…大型スーパー http://mainichi.jp/articles/20160218/k00/00m/030/016000c?fm=mnm
・ 世界の食料生産量の約3分の1が毎年廃棄されている。その現状を変えようとしたパリ近郊クルーブボア市のアラシュ・デランバーシュ市議(36)の努力が結実し、
  フランス全土にある大型スーパーに売れ残りの食料の廃棄を禁じ、慈善団体への寄付を義務付ける法律が成立した。 

 一介の市会議員の呼びかけが国会で議論され、成立する。  あ、さすが民主政治の先輩国。   羨ましい限りである。
 記事によれば、法規制の対象は<延面積400平米以上の大型スーパー>とあり、レストラン、食品加工業などに適用が拡大されるのかは不明。
然し、効果をみて将来的には拡大されると見るのが順当だろう。   翻って、わが国ではどうか?

 カレー料理レストランチェーンと廃棄処分契約した業者が廃棄品を再販していた、と先日から報道をにぎわしている。だが、真に問題なのは「横流し不正」ではない。
 記事にもあるとおり、<収穫されてから消費者の口に入るまでの間に廃棄され、食べられるのに家庭やレストランで廃棄される「食品ロス」は、フランスは約700万トン、
 日本は約640万トン>という現実であろう。そこにメスを入れないまま、何を云っても空しい。 
  和食ブーム、日本食材の輸出ブーム、いずれも結構な話だが、浮かれてばかりではいけない。  なに、食品廃棄抑制は票にならないから放っておけって?
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