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高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

勘定奉行 荻原重秀の生涯

2007年06月11日 | 本と音楽の話題
 勘定奉行 荻原重秀の生涯(2007年6月11日)
江戸時代と現在の官僚
 歴史や時代小説に興味がないために、「萩原重秀」がどういう人物なのかこの本を読むまで、全く知らなかった。「新井白石が嫉妬した天才経済官僚」との説明的キャッチフレーズがあった。官僚に対して「天才」の形容は如何なものかと思いながら、読み始めた。萩原重秀は確かに経済官僚であること、しかも実に多種多様の仕事をしていることが分かる。その業務の中でも、有名な、そして、現在では評価が分かれる(悪評)名高い、「元禄改鋳」の実務責任者・元締めであった。
 この本は史料をベースにして、萩原重秀が従事した多くの業務を紹介し、評価を加えながら、萩原重秀を好意的に見ながら、当時の幕府の経済事情について書かれている。しかし、私は、少し読み始めると、萩原重秀の功績等から相当離れてしまうのであるが、江戸時代の官僚・官僚制度は現在と比較して、どんなものであろうか?と言うことの方に興味が湧いた。

 萩原重秀の父は大名でもないし、旗本でもない、その録は高々200俵の下っ端役人であった。萩原重秀に関する史料が余りないと嘆きながら、著者は伝聞以外の一次史料を探し求め、精査を行い彼と彼を取り巻く幕府政治等を生き生きと再現し、著者の苦労が窺い知れる。そして彼に纏わる人事等は殆ど完全に(死亡以外は)再現されるのは驚きである。萩原重秀が幼少の頃住んでいたところも特定され、当時の地図入りで出ている。
 萩原重秀の公務員生活は17歳の時に勘定所に採用されたことを以て始まる。この時、32名が一斉採用されている。当時は、公務員試験なんてものはなかったようで、役人がその人となりを調べた「縁故採用」のようである。このような多数が一度に採用されたのは勘定所始まって以来である。その理由は「寛文・延宝検知」の企画立案のためである。財政が逼迫してくると、その税収の確保が大切で、そのための、企画立案が重要であることは今も昔も変わらない。
 その採用の身分は今の公務員と比較してどのようなものであるのか分からないが、将軍にお目通りをしていることを考えると、国家公務員の将来を約束された「法律事務官」の様なものかも知れない。しかし、その後の同時期に採用された人達の出世街道を見ると、法律事務官のように将来を約束されたとはとても言い難い。そこにあるのは、能力(と上役の引き)である。特にその能力の査定は今の公務員よりも格段に厳しかったように思える。彼はその競争に連戦連勝し、最後の肩書き「勘定奉行」まで昇進した。しかし、最後の「改鋳」の責任を問う等の新井白石の度重なる断崖書により、遂に解任され・失脚し、その翌年に死亡する。その時、彼は56歳であった。

 ところで、何かと理由を付けて、組織を整備し、肥大化して、人員を増やすのは今の官僚も全く同じである。この本からその当たりを垣間見ると次のようである。勘定所のトップは彼が採用された当時「勘定頭」と言うが、その後、勘定奉行に格上げされ、老中等から独立機関となる。吉宗の時に、勘定所の業務が幕府経済の「勝手方」と訴訟・法律の「公事方」に分けられる。その勘定頭のスタッフとして勘定吟味役の新設、勘定頭の下に、勘定組頭―勘定―支配勘定の職階制があり、後に支配勘定の下に支配勘定「見習い」とか支配勘定「出役」とかが作られる。この辺りは本論と関係ないのであるが、徳川幕府支配体制が円熟期に入ってきたことが理解できる。それと同時に官僚機構の肥大化の点で見ると今も昔も変わらない。本能的にあれこれ理由を付けて、組織肥大に突き進むことは興味有る。ビルドには熱心であるが、スクラップは見向きもしない。
 萩原重秀は、実に色んな職務を経験しながら栄進していくのであるが、その中で、代官・地方奉行の検査にも従事して、その時にも辣腕を発揮している。その結果、大量の粛正が行われた。職務怠慢・収賄・私利私欲等々である。何れも、規律違反・経済事犯であるが、その処分の厳しさに驚かされる。代官やその子供が斬首・切腹・流罪・免職・相続不可等々。更にその上官である勘定頭全員が監督責任を問われて罷免される。江戸時代では一般的に量刑は厳しかったのであるが、それにしても経済事犯で命まで取るとは驚きである。収賄であっても、今では「社会的制裁を受けている。」との理由で執行猶予が付くのが通常であるし、その上司たるものも精々数ヶ月の減給か戒告処分である。今思うと当時は公務員にとっては「くわばらくわばら」の世界で、多分なり手が無いであろう。
 その職務に当たり特に功績があったものには加増・衣服とかの現物支給等の報償が出る。加増は今で言う「特別昇給」に当たるのであろう。勿論、萩原重秀も若い時から何回と無くこの褒賞を受けている。信賞必罰が当時の官僚の世界である。
 出世と共にその俸給が上がるのは今も昔も変わらない。当時も今と変わらない基本給と役職給の二本立てである。と言っても、どうも基本給の定期昇給のようなものはなかった様である。萩原重秀の俸給を見てみる。平勘定の録が150俵であったが、勘定組頭に出世するとその役録が100俵プラスされて、合計250俵になっている。さらに勘定組頭から勘定吟味役に抜擢された時を見てみると、300石加増されている。実は、この「俵」から「石」への移動は、宛いぶちの「俵」から自分の能力で年貢を取ることになり、実質の禄高は別にして、その格では大きな差であるらしい。さらに、勘定奉行へ栄進し、間もなく叙任して、「荻原彦次郎」から「荻原近江守」となる。その時の年齢は39歳と若く、平勘定から栄進したものは二人目である。最後の俸給は3700石である。国家公務員で言う所の「一般職」から指定職」へ、地方公務員で言うと「一般職から特別職」へ、会社で言うと「従業員から取締役」への栄進である。国家公務員の法律事務官は正に入省と同時に指定職への熾烈な競争が始まるのとよく似ている。しかしその競争は法律事務官のように若い頃は同期という連帯意識があるが、それは無さそうで、多分現在と違って最初から本当に熾烈な闘いであったようだ。

萩原重秀の業績
 前回では、江戸時代と現在の官僚について思う所を記事にした。今日は萩原重秀の仕事を著書に沿って見てみよう。どの業務を見ても、その時その時の幕府にとって重要な課題であったことに驚かされる。立て続けにそう言う業務に従事したことは本当に能力があったためであろう。それと共に、余りにも厳しい同僚・上司・部下への粛正のために、相当その職務遂行上、敵を作らざるを得なかったことも確かである。

延宝検地
 萩原重秀は多くの業務を行っている。最初の仕事は天領で実施された「延宝検地」の企画立案である。幕府にとって「検地」は税収の基本数値の確定調査である。しかし検地は殆ど行われていないために、生産技術が発達し、反当たり収量は増加していたにもかかわらず、農民の困窮が幕府まで届いていた。そのために、将来に渡って的確な税収を確保するため現地調査により見直す仕事である。この最初の業務で彼はその能力を発揮して、新規採用者の中ではただ一人報償を受けた。

代官会計調査
 「検地」だけではことは収まらなかった。将軍の下にも農民の困窮が伝えられ、その原因は代官にあるとされ、代官会計調査に基づく成績不良の代官等の摘発・粛正、に彼は従事した。その業務では、代官は言うに及ばず、僅か三ヶ月の会計調査で勘定奉行を総退陣に追い込んだ。その辣腕振りが目に見えてくるようである。このような手法は以降も続く。

佐渡金山経営の立て直し
 幕府を財政的に支えていたのは、年貢と産出する金銀であったが、佐渡金山の産出量は減少していた。その産出を立て直すために佐渡奉行との兼務することになった。佐渡金山の産出を上げるために公共事業を行うほか、検地も行い、佐渡の経済実態を明らかにした上で経営改革も行う。

長崎貿易の改革
 幕府にとっての関心事は、長崎における貿易である。当時、貿易と言っても今とは大違いで、日本が輸出する産物は殆どなく、外国からの輸入が殆どであった。そのために莫大な金・銀が外国へ流出していた。金銀に代わって銅の輸出などである。彼は長崎貿易を直轄化すると共に、銅調達を一元化した。

金銀改鋳
 その中で、最も大きな、評価が分かれる「金銀改鋳」に触れてみよう。歴史的に見てもこれが最も重たい業務であろう。著者は悪名高い「金銀改鋳」を現代経済学の立場から萩原重秀の先進性に言及している。この部分は多分著者が最も力を入れて書いたのではないかと思う。しかし、私は残念ながら、経済学というか経済に関しては全く不案内であり、さらに江戸時代の貨幣制度をこの著書で初めて知ったのであり、以下の感想等は的はずれであることをお断りしておかなければならない。
 幕府の収入は天領からの米・金銀が基本である。経常的支出は幕府維持のための人件費・施設費などである。年貢米は農民に課せられた税金で物納である。それを売却したり、旗本や役職員に現物として与えた。この部分は「貨幣」を回収する部分である。支出は貨幣で払うことになる。収支の帳尻が合わないと、今なら、「国債発行」になるのかも知れないが、その貨幣は佐渡金山などから算出される金銀で小判等の貨幣を鋳造して工面することになる。当時の貨幣は金銀という一般的に価値があるものに裏付けされていた。これは何処でも昔というか、ごく最近まで米ドルはそうであった様に古くからの話である。金銀が経済の規模に見合った分採掘されると、上手く循環することになる。暫くの間は上手く循環していた。ところが、時の将軍は、諸々の財政規模を考えずに浪費することもあった。更に、発行益を伴う金銀の生産奨励の結果、鉱山の老化は急激に進み、思うような産出が上がらなくなる。一方、一旦膨らんだ支出は世の常であるが、なかなか縮小できない。そんな時に、大飢饉・大地震・江戸の大火があると、歳入不足だけでなく、不意の出費も民生安定のために必要になる。更に、江戸時代の経済は商業も大きく発展したが、その商業に適当な「年貢米」のような徴税方法も殆どなかった。と言う訳で、幕府の歳入不足対策で「金銀改鋳」が行われた。要は「金の品位」を落とすことにより、発行益を更に得ようとしたのである。確かに幕府は莫大な発行益を手にした。
 金銀改鋳を批判された時に、萩原重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、正に行うべし」と言っている。確かに、これは現在の貨幣と同じ「名目貨幣」の発想である。しかし、この論法で行くとなると、マネーサプライ政策が必要であろう。さらに、現在においてもデフレ・インフレを防ぎ適正な経済成長を維持するにはこのマネーサプライのコントロールは大きな課題である。その後の緩やかな年率3%程度の物価上昇は経済発展には必要なことであり、この「金銀改鋳」が言われているような「悪政」と弾劾することに著者は反論している。現在も緩やかな物価上昇は良いとされていることから、著者の考えはその通りかも知れない。ただ、旧の高品位の貨幣の回収は思ったように当然のことながら、進まなかったようである。税負担公平の原理から言うならば、大きく発展した商業に課税することが技術的に出来なかった事情も考慮する必要があり、この改鋳の損害を受けたのは「両替商」等の大きな商業資本であり、考えようによっては税負担の一端であるとの経済学に裏付けされた著者の考えも成る程と頷ける。

失脚
 萩原重秀は最後の「改鋳」で失脚する。それまでの改鋳は政権全体の施策と言うか、将軍のお墨付きの上で行われたことが史料から明白であるが、最後のそれはどうも、将軍家の内諾のような、黙認のような、取りようによっては、萩原重秀の私利私欲のために行われたのではないかとの疑念さえ出て来るあやふやな状況で行われた。以前から彼に対して面白くない考えを持っていた新井白石・商業資本に狙われた。その失脚後、徳川家の史料からは全く彼の動向は分からない。自殺したと言われているが、どうも殺害されたのではないかと著者は推論している。

書籍のデータ
書名:勘定奉行 荻原重秀の生涯
叢書名:集英社新書
著者:村井 淳
発行所:集英社
発行年月日:2007年3月21日 初版発行



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