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梶原和義のブログです。

2011-06-04 20:17:34 | 日記
神との恋愛

人間は必ず死ぬことが分かっているはずです。死ぬことが分かっていれば、その人生はおかしいと思わねばならないはずです。死ぬことが決まっていることがおかしいのです。
釈尊は、生まれて、年老いて、病気になって死ぬことが、おかしいと考えた。冷静に人生を考える人は、生老病死があることが、おかしいということが、分かるはずです。
宗教を信じる人は、病気になるとか、何か悲しみ事があるとか、現象生活の行き詰まりから宗教の門を叩く人が多いのですが、それではだめです。生老病死という根本の問題を考えないといけないのです。
家庭内がうまくいかないとか、対人関係で悩んでいるとかいうことは、人生の常道です。あたりまえです。人生の常道的な苦しみから逃れようとすることは、宗教観念です。
もし病気で困っている人が宗教に入ったら、病気が治ればやめてしまうでしょう。心配事が消えれば、それ以上人生勉強はしないのです。そんなことではしょうがないのです。
死ぬことは初体験だといって、のんきに済ませておけることではありません。人間としての権利資格を行使して、現世で五年でも十年でも生きた人は、必ずその税金を取られることになるのです。子供の場合は神は責任を問うことをしませんが、大人としてこの世に生きていたとすれば、人間としての特権を行使したことになるのです。
人間としての特権を行使したということは、それについての義務が必ず付随するのです。義務が付随しない特権は、あるはずがないのです。義務や責任を感じないで、ただ権利だけを行使する。人間的な生活をするのがあたりまえだと思う。そういう資格が人間にどうしてあるのかということです。
歴史の流れから言いまして、一番悪いのはユダヤ思想です。ユダヤ人はこの問題に、今から三千四、五百年ほど前に、真正面からぶつかったのです。そうして、人間として生きるのはあたりまえという定説みたいなものを造ってしまったのです。これが有名なモーセの十戒です。
それまでの人間は、人間として生きているのはあたりまえという考えを持っていなかったのです。例えばエジプト文明では、死を大変大きく取り上げていたのです。それは死が恐いという漠然とした考えであって、人生全体を見通すという考えではありませんでしたが、人生を真剣に考えなければならない立場に立たされたのです。人間の命の本質について考えようという気風は、エジプトにもメソポタミアにもなかったのです。ただ死んだからでもなお生活があってほしい。現世と同じような生活があってほしい。この考えがピラミッドやスフィンクスに現れているのです。これは今の日本人よりずっと真面目な考え方ですけれど、死に対する正当な考えとは言えないのです。
命についての重要さを、ほとんど考えていなかったようですが、ユダヤ人はそうではなかったのです。神と真正面から対決しなければならないような運命に迫られて、モーセの十戒が与えられたのですが、これを肉体的に生きている人間を基礎にして考えた。これが間違っているのです。これが未だに世界中の人間の生活感覚の基本的な曲解になっているのです。
中国の孔子、孟子、老子、荘子は生きていることを色々考えたのですが、命については全く考えていなかった。現世での生き方を考えたのです。もっと古代の人々でも、結局、地球存在の起源についてはふれていません。生活哲学ばかりを考えていたのです。
ところがユダヤ人の場合はそうではありません。天地を創造した神に触れていながら、現世に生きていることが最高のことのように定義づけてしまったのです。これがユダヤ人の大失敗です。そのために、人類全体が盲目状態になってしまったのです。いう見方を、世界の学者の誰もしていないのです。
ユダヤ人が間違った考えを、世界にばらまいた。その結果、人間の心の傷がだんだん深くなってきて、今では、にっちもさっちもいかなくなっているのです。
宗教は現世に生きている人間という角度からしか考えていません。現世に生きている人間が幸せになる。そして後生安楽を願う。こういう考えになっているのです。
そういう根本的な間違いに陥ってしまった原因は何かと言いますと、今から約二千年前に起こったのです。イエス・キリストが復活した時に、初めて神と人間が公に接触できたのに、ユダヤ人がそれを拒否したのです。まことの命を拒否したので、人類全体が現世主義に陥ってしまったのです。
例えば目の前に花が咲いているとします。一体花が咲くとはどういうことかです。花は命についての根本的な感覚を促しているのに、それが分からない。花鳥風月は、そのまま命についての見方を促している。ただ風流とかいってかたづけておける問題とは違うのです。せっかく月や花を見ながら、その真髄に触れようとしない。これに触れようとすれば、死についての根本的な考え違いに気づくはずです。
死ぬのが嫌だと思うなら、少し真面目に考えればいいのです。死ぬのがいやだと思う気持ちは誰にでもあります。その気持ちがあるということは、死ななくても良い方法があるという証明になるのです。もし人間が死ぬに決まっているものなら、死ぬのが嫌だという気持ちが、人間にあるはずがないのです。後生安楽を願うはずがないのです。後生安楽を願うということは、後生安楽ができるに違いない方法があるに決まっているからです。
それを宗教的な角度から考えていこうとする。ところが宗教的な角度というのは、現世に生きている人間のセンスでできたものです。その概念は、生きている間しか通用しないのです。
死んでしまうと人間のあり方の本質が変ってしまいます。存在の本質が変ってきます。どう変るかと言いますと、肉体的に生きているという条件が消えてしまいます。そうすると霊に対する処置をどうしたらいいか分からなくなるのです。
人間は肉体的に生きていたという記憶しかありません。この世を去ると常識は一切通用しないのです。現世でいくら宗教の勉強をしても、道徳や哲学の勉強をしても、全部肉体的に生きていることが下敷きになっています。肉体的に生きているというセンスで何を勉強しても、死んでしまうと一切通用しないのです。
それでは、現世に生きている間に、何を勉強すればいいかということです。これは何でもないのです。例えば花が咲いているという事実があります。正確に言いますと花が咲いているではなくて、花が咲いている状態があるのです。花が咲いているという状態は、霊的な実体です。人間で言いますと、人間が生きているという状態が現れている。生きているという状態をつかまえたら、人間の方は消えてもいいです。人間が生きていることは絶対です。三部経はそれを言っているのです。
法蔵比丘という人は釈尊の別名ですが、この人が悟りを開いた。悟りを開くとはどういうことかと言いますと、自分の命のあり方が分かったということです。これが悟りであって、成仏することになるのです。
結婚についても人間の考えは間違っています。現世での結婚は、本当の結婚ではないのです。本当の結婚は、結魂というべきです。魂が永遠に命に結びつくことが、本当の結魂です。
現世にいる魂は命が本当に分かつていないのです。現世に生きているままの人間は、この世を去らなければならないに決まっているのです。現世に生きている間に、本当のお婿さんを見つけなければならないのです。
人間の魂は結魂するためにこの世に出てきたのです。この世はテストケースあって、本当の世ではありません。死ななければならないことは、テストケースであることを意味しているのです。
この世は有期限の世界であって、限定された時間の中の命は、本当の命ではありません。限定された命という条件の中で、命の本質をどのように見極めるかを、テストされているのです。
セックスの本当の意味は、現世の問題ではなくて、永遠の問題なのです。恋愛というのは、永遠の愛を恋という形で、現世でその端緒をつかまえるのです。愛は永遠に決まっています。それを現世におけるセックスと結びつけて考えてしまって、現世の生と永遠の愛を混同してしまうのです。それで愛の本体が分からなくなってしまうのです。
本当の意味での信心、信仰は、魂が目を開くことなのです。魂が目を開いて、永遠との結びつきをつかまえる感度を言うのです。永遠の命を捉える感度を言うのです。
日本の宗教が言っている神仏は本当のものではありません。譬です。譬がある以上は本物があるに決まっています。本物がなければ、譬ができるはずがないのです。
人間が生きている命は、譬の命です。譬としての命は、やがてなくなることを意味しているのです。なくなるに決まっている命があるということは、なくならない命があるからなのです。暫定的な命が与えられている間に本当の命を見つけたら、死ななくなるのです。
恋愛はすばらしいものです。現世の恋愛というのは、良くても悪くても、すべて譬です。す。口では説明ができないほどすばらしいものですが、奥底に本当の恋があるに決まっています。その意味で、神仏と結婚したいと思うのはすばらしい考えです。ところが、宗教で考える神仏は、本当の神仏ではありません。宗教は嘘ではありませんが、譬です。阿弥陀如来は譬であって、本物ではないのです。阿弥陀如来は小便をしません。小便をしない人格は生きている人格ではないのです。阿弥陀如来はすばらしい人格の譬ではありますが、本当に歴史的に実在していた人格ではないのです。
私たちは実在しています。小便をします。ですから、小便をする救い主をつかまえなかったらいけないのです。
人間が現世で経験していることは、食べることも、飲むことも、皆譬です。皆様がお茶を飲むことも、譬として飲んでいるのです。人間としてお茶を飲むのでなくて、魂として飲まなければいけないのです。魂でお茶を飲むセンスが分かつてきますと、初めて神との付き合いができるのです。仏というのは、まともに神とお付き合いができる人格を言うのです。
仏とは、心がほとけてしまうことです。何も雑念を持っていない人間になるのです。腹に一物背中に荷物となりますと、仏にはなれないのです。
本当に自分が空っぽになって、般若心経で言う究竟涅槃になりますと、仏になるのです。救われたいとか、幸せになりたいという雑念があったのではだめです。きれいさっぱりと、透き通るような心になることを、仏と言うのです。悟りと言うのです。
成仏するというのは、まともに神と付き合いができるような人格を言うのです。道元禅師は、平常心是常道と言っていますが、平常心というのは普通に生きている状態を言います。普通に生きている時の気持ちで、神と付き合うのです。これは神を信じることとは違います。神に生きればいいのです。神を信じるというのは他人行儀です。神と他人である間は、その人は死にます。すでに死んでいるのです。
神と他人行儀にならずに、神に生きるのです。皆様の心臓が動いていることが神です。人間はどこにもいないのです。それを人間がいると思っている。そう思っている間は危ないのです。悩みと苦しみがあるのです。
自分が消えてしまいますと、悩みも苦しみもなくなります。法蔵比丘はこういう状態になったのです。これが阿弥陀如来の心境です。ところが、大無量寿経には阿弥陀如来が小便したとは書いていませんので困るのです。
人間の命の本質は神に決まっています。これが分かれば何でもないのです。ところが皆様は生活に一生懸命になって、生活しなければならない自分がいると思い込んでいます。これはただの迷信です。生活しなければならない自分はいないのです。生きている自分はいますけれど、生活しなければならない義務はないのです。人間は生きるためではなくて、神をつかまえるために生きているのです。神をつかまえますと、皆様の命と神の命が一つになってしまうのです。そうすると絶対に死なないのです。生活はできなくても、死なないのです。こういう状態が神仏と結魂した状態なのです。
自分が生きていると思っているからいけないのです。自分が生きていると言う考え方は、根本から嘘です。自分が生まれたと思うことが間違いです。
この世は嘘で固められたものです。真実は一つもありません。この世の人間の思いの中には、真実は一つもないのです。孔子や老子は、何とかしてこの世から出ようと考えていたでしよう。日本の宗教家も考えたのですが、本当に出た人はいないのです。
仏を信じるという形で、やはりこの世に生きていたのです。自分がいるのはすべて宗教です。般若心経はそれがだめだと言っているのです。
神に生きるというのは、難しいことではありません。本当の真理は、最も平凡なことです。神という人格は、最も崇高な偉大なものですが、最も身近な形で、私たちの目の前に転がっているのです。
神は平凡すぎるほど平凡なものです。それが最も崇高で偉大なものです。一番どん底から、最高までのものが神です。神という言い方は最高になりますが、生きているという言い方は、一番平凡なことです。自分という人間はいないのです。人間の肉体は一つの化合物です。水分とか炭水化物、たんばく質等が、血液や筋肉を造っている。あるように見えますけれど、実体的に存在するのではありません。生きているということがらがあるだけなのです。これを魂と言うのです。その父が神です。
生きているということは、心臓が動いていることによって現れています。脳波が止まっても心臓が動いている。人工呼吸器を使うと、脳波が止まっても心臓が動いているし、血色もぬくもりもある。家族は死んでいないと頑張るので、医者が困るのです。
医学的に脳波が止まっていれば、人間は死んでいるのですが、肉体だけが働いているのです。この状態が現在の人間の精神状態です。脳波が働いていてもそれが何のことか分からない。それを全然認識していないのですから、あってもないと同じ状態になっている。そこで肉体だけが動いている状態になっているのです。
人間の脳波は働いていますが、本当の命を自覚していない。ですから、精神的に死んでいると同じ状態になっているのです。
お茶を飲む場合でも、自分が飲むのではなく、生きている事がらが飲むのです。固有名詞の自分が飲むのではなくて、生きている事がらが飲むのです。生きているという事がらがあるから喉が乾くのです。そこでお茶を飲むのです。
生きているという事がらは魂であって、肉体ではないのです。生きている機能は魂であり、生きている状態は霊です。魂がお茶を飲むというのはあたりまえのことです。人間がお茶を飲むと言いますが、人間は機能的にも能動的にもいないのです。人間は常識が造りだした概念なのです。思いとしてあるだけであって、実在していないのです。
神の実体は何か、神がどうして地球を造ったのか、地球はこれからどうなるのか、永遠の命は一体何なのか。こういうことを魂は知りたいと思っているのです。魂が人間という格好で数十年の間、地球上に生きていることには、大きい意味と責任があるのです。ただ生活をしていればいいということではないのです。
愛は永遠です。愛は宇宙に遍満するすばらしいものです。それを人間は現世で経験しているのですが、本人が死んでいる状態で経験しているのですから、せっかく経験していながら、永遠の愛として受け止められないのです。実体的にそれをはっきりとつかまえて、永遠の愛の中で生きることができないのです。
仮に阿弥陀如来のような人が出てきても、私と同じことを言うでしよう。これ以上の見方はないからです。
人間がいれば神を信じてもやはり死にます。悟った自分が生きていてはいけないのです。「悟りつつ身はなきものと思えども、雪の降る日は寒くもあるかな」という歌が禅宗にありますが、悟ってもやはり肉体があると思うのです。肉体があるのではなくて、魂があるのです。肉体はないのです。ノアの洪水の事件、イエス・キリストの十字架をしっかり勉強しますと、肉体がないことがはっきり分かってくるのです。
不感症の女性がいるとします。皆様の霊魂が不感症の状態から出て頂きたいのです。魂の感性の高い人と不感症の人があります。魂の感性が高い人は、神に恋ができるのです。この魂は上等です。
親鸞は神仏に恋をしかけた人です。肉体的な感性も豊かでしたが、霊的にも豊かだったのです。皆様は肉体的なセックスはご存知でしょうけれど、霊魂の感性がもうひとつ良くないようです。魂の感性を良くして頂きたいのです。
信仰も恋愛も同じものです。恋愛は人間関係のセンスです。性は二つありまして、人間としての性と霊魂の性があるのです。人間としての性は、霊魂としての性の譬なのです。人間としての恋愛がすばらしいというのは、魂の恋愛がもっと素晴らしいものであることを教えているのです。
信仰は非常につややかなものでありまして、恋は心の花です。神に恋をすると、本
当の命が分かってくるのです。
人間のセックスは肉体的なものでありまして、安物です。やがて消えてしまうのです。永遠に消えないのが霊魂のセックスです。本当の命に触れると、命がどんどん伸びていくのです。これが魂の情熱です。肉体の情熱と魂の情熱とがあるのです。肉体的に生きている人間は譬です。神の命の譬が現れているのです。皆様の肉体は神の命の譬です。女性の肉体は、神の愛のセンスがそのまま現れているのです。女性のボディーラインがそれです。
女性の容貌は花と同じものです。どちらも愛の表現です。地球にはこういうものが満ちているのです。石ころでも愛の表現です。硬い冷たいという面を現している。愛の固さ、堅固さを示しているのです。天地万物はすべて、神の愛の表現形式です。
男性はあばら骨を抜かれています。これは人間がこの世に出てくる前に起きたことです(創世記2・21~23)。あばら骨は愛を受け止める重要な機能性ですが、これが男にはないのです。あばら骨が女性になって現れている。だから男性は女性が無限に好きなのです。なぜ女性がこんなに好きなのかと思うほど、女性が好きでたまらない。それは男性の中にあるセンスが、外に出てしまっているからです。
そこでまず男性は女性を愛することによって、愛を教えてもらうのです。女性を愛することによって、愛を教えてもらい、その愛を神のほうに用いるのです。そうすると神を愛することができるのです。
男性は最初から神を愛することができません。女性を愛することによって、愛を勉強するのです。愛を勉強して、勉強した愛を永遠の命の実物である神に振り向けていくのです。恋というセンスは非常に要なものです。男性はどうしても恋の勉強をしなければならないのです。
男性が女性を好きになるというのは、助べえ根性とは違います。世間の男性はただ欲望でしか女性を見ることができないのです、男性は皆獣みたいなものになってしまうのです。 女性は愛の典型みたいなセンスを持っています。聖書はこれを自然の用と言っています。ですから男性はこれをもらってしまえばいいのです。
男性は女性を愛することによって愛を学ぶ。愛の秘訣が分かったら、それを自分のものにして、神を愛するのです。聖書に、「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」(マタイによる福音書)とありますが、男性は精神をつくして神を愛することができないのです。
男性は女性を愛することによって自分の心の中に愛の心をどのように蓄えていくかです。人間同士が愛することは、すばらしい意味を持っていますが、本当の神を知ることができない場合は、人間の感覚止まりになってしまいます。
命の実物が分からないままで愛を貧っていますと、罰金の対象になります。愛はそれだけの値打ちがあるものです。愛を人間の楽しみにしてしまいますと、必ず罰金をこれは愛だけではありません。食物でも、飲物でも皆そうです。衣食住全体を、肉で経験すると、税金を取られるのです。
体を通して神を学ぶために生きているのです。神を学ぶことをしないで、ただ衣食住だけに夢中になりますと、大きな罰金を取られることになります。これが地獄です。人間には理性がありますから、それを魂の知恵に振り替える勉強ができるはずです。
その能力を十分に持っているのです。コーヒーを一杯飲んでも、コーヒーの味を魂に振り替える能力はあるはずです。それをしないで、現世で肉体的にだけ楽しんでいますと、税金を取られることになるのです。
人間がどうしても知らなければいけないことは、天地万物として現れている力です。花一輪でも、花を咲かせるだけの力がなければならないのです。ですから花を見ることによって、花の根底にある力を感じることができなければならないのです。
これは宗教ではどうしても分からない問題です。花を咲かしているのは命の能動性です。これは霊です。花を咲かしているのは宇宙霊です。これは日本の神霊ではありません。巫女の口寄せの霊とも違います。
皆様の心臓が動いていることが霊です。それと同じ霊が宇宙全体に広がっているのです。これが花を咲かせているのです。これは宗教の神や仏ではありません。森羅万象を造っている霊です。地球が自転公転しているエネルギーの本質です。理性の本体です。これは疑うことができないものです。
神がなければ、人間の理性はあるはずがないのです。科学を科学としているものが神です。人間である以上、当然神を信じなければならない。ところが神を全然信じていない。だから罰金を取られることになるのです。命は霊の助けがないと分かりません。女性の喜びは男性の助けがないと分からないのです。どんな感性の鋭い情熱的な女性でも、男性の助けがなかったら、情熱が発生しないのです。
人間が宇宙の命をつかまえる場合は、男性だけではだめです。人間は神から見れば、永遠の女性です。霊魂は永遠の女性です。神は永遠の男性です。万物の本源である神、命の総本源である神は永遠の男性です。人間の霊魂は永遠の男性である神と結婚することが最終の目的です。結局、女性になりきれない男性はだめです。女性になりきれる男性は、女性に対して非常に感受性が鋭いし、女性を深く観察することができるのです。女性を尊敬することができる性格を持っているからです。女性が尊敬できない男性はだめです。そういう男性は女性になれないのです。
大局的にいえば、男性は女性だという自覚を持つのです。人間の霊魂は、神と結婚することが永遠の目的です。
聖書はキリストの花嫁という言葉を使っています。キリストは復活のそのものです。これは科学の原理、哲学の原理、あらゆる芸術の原理です遠史の原理、時間、空間の原点です。地球のオリジナルが神です。地球のオリジナルと結婚するのです。地球のオリジナルが皆様の旦那様になるのです。
信仰と恋愛は同じものですから、恋愛感情が豊かであればあるほど、聖書がよく分かるのです。恋愛感情が干からびていたのではだめです。
聖書の勉強、命の勉強は、理屈の勉強ではありません。情緒の勉強、情熱の勉強です。肉体的な情熱ではなくて、霊魂の情熱になるのです。親鸞は霊魂の情熱が非常に豊かでした。ですから、人間的にも情熱家だったのです。人間的に情熱家でなかったら、霊魂の情熱は分かりません。
人間は現在生きていると考えていますが、人間が生きていて一体何になるかということです。皆様の場合に一番困るのは、現世に生きていることに大きな意味があるとお考えになっていることです。これには意味がありますけれど、現世に生きていることは譬であって、そのこと自体に意味があるのではなくて、生きていることを通して何を教えられるかということです。
生活第一主義の考えは大変な間違いです。これはユダヤ思想なのです。私たちは生活することが目的ではなくて、命の実体を見極めることが目的なのです。このことをよくお考え頂きたいのです。
地球は愛と命によって造られています。愛は命の道義的本性を言います。命がある以上、愛があるに決まっています。愛がある以上、人間の命は確保されるに決まっています。
ただ本人が自我意識に基づいて、自分自身の思いの中にはまり込んで、自分の運命を閉ざしている場合は確保されません。因っている人は、その人自身の意識が間違っているのです。本人の自我意識が客観情勢に逆らつているからです。
人間は現世に生きている時には、客観情勢に逆らってはいけないのです。生きている以上働かなければならないし、働く以上、命を見つけなければならないのです。生きるために働くのではなくて、命の本体を見つけるために働くのです。
このことさえ分かれば、人間は必ず生きていけるのです。生活のためではなくて、命の実体を勉強するために働くのです。この基本概念さえありましたら、生活の行き詰まりは絶対にないでしょう。これは神が保証しています。本当に命を勉強しようという姿勢があって、なお食べられないなら、聖書は嘘になるのです。本人の自我意識が、勝手に本人を窮屈にしているのです。
世界に不景気があるとか、戦争をするというのは、人間自身の不心得が原因です。人間の考えが根本的にどこか間違っているからです。
現代文明は本質的に虚妄です。文明は生活のためにあるのですけれども、文明を全面的に信頼していいかどうかです。文明は生活の便利さを与えてくれますけれど、命の保障をしてくれません。肉体の命は考えてくれますけれど、霊魂の命は全く考えてくれないのです。霊魂に関しては無価値です。ですから文明は虚妄です。文明は人間です。
現世に生きている人間は必ず死んでいきます。そこで何かを信じるのです。何かに頼っていなければ寂しいからです。本当のことをつかまえないままで死んでしまうとどうなるか。常識を持ったままでこの世を去ることになります。常識は根から葉から全部嘘です。この世では通用しますが、死んでしまえば、通用しません。
そこで、死後のことを勉強しなければならないのです。死んだ後に人間の霊魂はどうなるのか。人間が現世を去ったらどうなるかです。
現世を去るとは眠ることです。いわゆるご永眠するのです。今まで死んだ人間は全部眠っています。眠っている者は必ず目を覚ます時が来ます。いつ、どこで目が覚めるのか、目が覚めた時に地球はどうなっているのか、こういうことを勉強しなければならないのです。文明の間違い、学問の間違い、宗教の間違いを、現世にいる間に十分勉強しなければならない。そうしないと死後のことが分からないのです。
人間は知らず知らずのうちに神の仕事を助けています。つまらない仕事だと思っていても、その仕事のあり方は神の地球計画の一端になっているのです。
人の理性は神の計画から出ることは絶対にできません。その人が神を信じていても信じていなくても、神なんかあるもんかと言っている人でも、その人が生きている命は神の内にあるのです。人間は自分白身で何をしているのか知らないのです。だから神仏を信じようと思うのですが、神仏を信じなくても、現在その人が生きていることが神なのです。これがなかなか分からないのです。
いまさら神を信じようと考えなくても、現在神と共にいるという事実があるのです。自分の命をじっくり見さえすれば、神が分かるようにできているのです。
阿弥陀如来は自分自身をじっと見つめて、命を見つけたのです。見つけたら世間並みの人間ではないことが分かった。自分の命は本来、無限の如来であることが分かった。命という如来と、光という如来があることが分かった。これを大無量寿経に書いているのです。
人が生きている実体が如来です。皆様がこの世に生まれておいでになったことが如来です。
如来というのは真如のごとく来るということでありまして、皆様がこの世に生まれておいでになったことが、真如のごとく来たことなのです。真如とは何かと言いますと、命の実質を言うのです。真如という命が、この世に肉体的に生きていたことが魂です。これをまともに見つけるルートを探しさえすれば、その人は成功するのです。ルートを見つけずにうろうろしていると、バカを見るのです。自分が生きているということが、何よりのルートですから、自分が生きているということを勉強すればいいのです。
そのためには、自分が日本人であるという気持ちを捨てて、世界の歴史の中の一人である自覚を持つことです。世界歴史を離れて命を考えようとすることが、間違っているのです。本当の真理なら、白人にも黒人にもアジア人種にも妥当する原理を持っていなければならないのです。世界歴史の流れに関係しなければならないのです。
聖書はキリスト教の教典ではありません。キリスト教は西洋の宗教ですが、聖書は世界歴史の流れをまとめている書物であって、世界歴史の因縁、地球の因縁を述べているのです。
バイブル書の語源は、パピルスから来ています。パピルスは紙いう意味です。バイブルは書物、記録です。バイブルはキリスト教が勝手につけた名前であって、本当は記録でいいのです。
聖書は世界の記録です。人間の記録です。日本は国ができてから、千二、三百年しか経っていません。こんな国の歴史はあてにならないのです。
アブラハムが神と約束したのは、四千年も前のことです。三千年前にはエジプトの文明がありました。千二、三百年の歴史は幼稚なものです。日本的な考えで、いいとか悪いとかいうことが間違っているのです。人類全体の流れを勉強しなければ、本当の命は分からないのです。
特に悪いのは日本の霊です。荒神さん、龍神さんの霊です。この二つが一番うるさいのです。安物になると、キツネとかタヌキの霊があります。これは動物の霊ではなくて、悪霊ですが、そういうものがあるのです。日本では霊友会とか、霊法会とか、霊の商売がやたらに流行しているのです。
もし皆様が世間並みの人間より傑出したいと思われるなら、人間の常識を相手にせず、歴史という時間の流れと、大自然という空間の流れを相手にして頂きたいのです。
地球の歴史はどこから来てどこへ行こうとしているのか。それに対して日本はどのように接触してきたのか。これから日本は、世界歴史に対してどういう役割を演じようとしていくのかということを勉強して頂きたいのです。
聖書は人間全体の記録です。これを正しく勉強しますと、初めて、目から鱗が落ちるのです。
皆様の目には、鱗が付いていますから、本当の如来が分からないのです。命は如来です。如来が花を咲かせているのです。如来が月を見せているのです。仏教は人間の教えが書かれているのであって、これは歴史ではありません。宗教です。宗教と実体とは違うのです。宗教をいくら勉強しても命は分かりません。
親鸞とか法然、道元ほどの熱心な人でも、世界歴史が全く分からなかったのです。日蓮も分からなかったのです。これらはすべて日本の国家の中の思想であって、全世界の人間をリードするような思想とは違います。もっと大きい感覚を持って頂きたいのです。
人間が現世に生きていると思っていることが妄念です。生きていることは命を経験していることです。命を経験しているなら命のことが説明できるはずですが、できないのです。それは命の経験の仕方が間違っているからです。人間の常識で経験しているからです。常識があてにならないのです。常識は全くの虚妄です。
この地球で、本当に悟りを開いて、神と結婚できる魂はめったにありません。皆様はめったにいない人の中の一人になって頂きたいのです。この自惚れが必要です。その人は生まれる前から神に選ばれていた人です。そのくらいに因縁が良い人でなければ命はわかりません。まず世間並みの人ではだめです。ですから、何百万人、何千万人の中の一人と思って、自惚れて頂きたい。そうすると分かるのです。
とにかく、人が考えないことを考えなければならないのです。人が言わないことを言わねばならないのです。ですから、世間並惣人ではだめです。
人間が考えている物質世界、人間社会は、空なるものです。人間はないものをあると考えている。あるものをないと考えている般若心経はこれを顛倒夢想と言っているのです。 皆様が今まで生きていらっしゃった命は、皆様のものではありません。皆様の所有物ではないのです。
生きていることの実体は、花が咲いている、月が輝いていると同じようなものです。神の御霊(みたま)によると聖書は言っています。英語では大文字のスピリット(Spirit)になっています。これが地球のエネルギーの根源です。これが電気になっているのです。神の御霊が電気現象になっています。電気になっている面があるのです。これが地球の能動性の基礎になっているのです。
神の御霊は皆様の霊魂にアピールする働きでもあるのです。物理的、生命的な働きが、皆様の魂の目を開く働きにもなるのです。
物理的な原理と心理的な原理はひとつです。これは日本文化ではお茶とかお花という形で、又日本人の生活作法の原点に、心理的な面と物理的な面とが一つになっているのです。これが日本文化の特徴です。
ですから神が分からなくても、行儀作法が分かる人、お茶お花が本当に分かる人は神が分かるはずです。そういう人間の生活を貫いて流れているものが、皆、神の御霊に関係があるのです。
聖書を勉強するというのは、そういうことを勉強することになるのです。聖書を勉強すると、アブラハムの生活の原点が分かつてくるのです。
アブラハムは聖書がない時に神を信じたのです。彼は聖書なしにどのように神を信神をどのように見つけたのかということです。アブラハムが生きていた感覚があらゆる哲学の絶対根拠になるのです。アブラハムの思想を勉強しますと、人間の学問、人間の常識の根本になることが分かつてくるのです。
人間とは何か。実は神の意思がそのまま人間になっているのです。従って、人間であることを理解しますと、アブラハムの信仰と同じになるのです。これが分かりますと、あらゆる意味での心配事、苦しみ、悲しみが消えてしまいます。本当に消えるのです。
あらゆる学問、あらゆる宗教、あらゆる文化の原点が、アブラハムの思想です。孔子も老子も孟子も、マホメットも、アブラハムの範囲内にあるのです。あらゆる学理学説の基礎が、アブラハムの思想です。
皆様に考えて頂きたいことは、皆様自身が部屋であるということです。人間の霊魂のあり方は部屋を意味するのです。自分が生きているという意識は、自分の部屋を意味しているのです。
AさんにはAさんしか分からない気持ちを持っています。Bさんの気持ちはBさんしか分かりません。これは部屋の状態です。個室の状態です。人間は個室に監禁されている状態になっているのです。
夫婦でも、親子でも、兄弟でも、自分の気持ちが分かるのは、自分だけしかいないのです。これが、自分が一個の独立した部屋であるという意味です。
そこで、自分という部屋をじっとながめて見ると、どこがどう間違っているかが分かってくるのです。
アブラハムは神をながめたのです。自分が消えて、神という一番大きいものを見たのです。一番大きいものを見て、自分という部屋の構造を見る。このやり方をするのです。
アブラハムが生きていた世界はどこか。彼は現世にいましたが、現世に生きてはいなかったのです。この地球が消えて、やがて新しい地球が現れることを見たのです。
今の地球は未完成のものであって、やがて人間が住めなくなる暗が来るに決まっています。爆発するか氷の塊になるか、人間が一人も住めなくなる時が来るに決まっています。 ユダヤ人学者は、まだ数十億年は住めるだろうと言っていますが、これがユダヤ主義の悪いところです。
仏教はもっと大げさなことを言っています。五十六億年後に弥勒菩薩が現れる。それまで地球が存在すると言うのです。そういう御伽噺は別としまして、未完成の地球はやがて完成されるのです。今の物質は未完成です。完成される物質がなければならないのです。 今の私たちの命が譬ですから、譬でない命がどこかになければならないのです。
自分の部屋に入って、戸を閉じなさいとイエスは言っています(マタイによる福音書6・6)。自分の部屋に入って戸を閉じますと、初めて自分の妄念から遮断されることになるのです。
人間は、朝から晩まで、自分の妄念で振り回されているのです。本当の魂の安らぎはないでしよう。これは何とも気の毒な状態です。部屋に入って戸を閉じても、命はあるから安心です。戸を閉じると、世間の声、他人の声、マスコミの情報を聞かなくてもいいのです。そうすると、自分の命に対面できるのです。これが最も効果的な反省です。
日本人は世間が許さないとか、世間が笑うとか、世間では通らないとばかり考えるのです。これをやめるのです。戸を閉じて、独自の世界へ入るのです。
部屋とは生きているそのこと、ザ・リビング(the living)です。五官の基礎になるもの、目で見る、耳で聞く、触れたり味わったりすることが、ザ・リビングです。生きている実体がなかったら、目も見えないし、耳も聞こえないのです。
生きていることの実質、実体が部屋です。人の意見とか、宗教、学問、世間の利害得失に関係がないのです。自分だけが生きているという個室を見つめるのです。部屋に入ると、生きているということだけがあるのです。私が生きているのではない。神が供給している命だけがある。この命に向かい合うのです。
心臓を動かしている力があるのです。私が頑張る必要はありません。命は自分のものではない。命によって生かされているという事実だけがあるのです。この命の主が神です。
自分の部屋に入って戸を閉じるのは魂の所為です。この根底になるのが自由意志です。自由意志が霊魂の中心です。自由意志が部屋に入る、戸を閉じるのです。自由意志が命の根源と対面しようと思うのです。自由意志は神の出張所ですから、そう思うのです。
皆様の家の水道の蛇口をひねると、水が出ます。蛇口が水源地につながっているからです。人間が生きているのは、命という水源地につながっているからです。人間の脳波も、宇宙の脳波につながっているのです。
花が咲くこと、雨が降ること、日が照ること、森羅万象の働きはすべてが宇宙脳波の働きです。人間の脳波は、宇宙の大脳波とつながっているのです。
人に脳波があることは、宇宙に人格性の中心があることを示しているのです。宇宙の人格は神です。人間は魂です。神と魂は同じものです。神が人の中にいると言ってもいいのです。ですから大自然を弁えることができるのです。皆様は神を信じようと思う必要はありません。
自分の命の実態に目覚めたら、神を信じなくても、神に生きていることが分かるのです。心臓が動いていることが神です。脳波が働いていることが神ですから、神を信じようと思うと、かえっておかしくなるのです。この簡単なことが分かつている人が世界中にいないから困ったものです。
イエスはこれが分かつていた。だから彼は死ななかった。死んだけれども甦ったのです。死んだままで、放っておかれなかったのです。
皆様は、脳波の働きが神だということを、まずご承知頂きたいのです。これを常識で分かろうとすると、宗教になってしまうのです。今まで生きてきた自分が消えてしまうと、初めて、脳波の働きが神だということが分かるのです。
今から二千年前に、イエス・キリストの十字架によって、人間は全部精神的に死んでしまったのです。生きていると思うのは、世間的な迷いです。人間は全部死んでいるのです。これが世界歴史の秘密です。
究竟涅槃です。欲望に基づいて生きている自分が消えてしまうのです。そうすると、人間の脳波と神の脳波が直通になります。自分が生きているのではない。神が自分という格好で生きていることが、ありありと分かるのです。これがイエス・キリストの信仰です。これをぜひ、体験して頂きたいと思います。