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梶原和義のブログです。

2011-06-04 20:20:40 | 日記
罪存する地球と人間

人間はなぜ現世に生まれてきたのでしょうか。生まれてくる前に罪を犯したから、神の国を追放されて、肉の世に生まれてきたのです。
人間が現世に生まれてきたのは、間違いなく、死なねばならない条件を押し付けられたことなのです。ところが、死なねばならない条件を押し付けられたということが、救われるに違いないことを意味するのです。
もう一度言いますと、死なねばならない条件を押し付けられたことが、死ななくてもいい条件を与えられたということなのです。
税金を払わなければならない状態を与えられているということが、税金を払える状態であることを意味するのです。国が国民に税金を払いなさいというのは、税金を払う力を国民が持っていることを、国が知っているからです。
現代人の一番悪いところは、哲学的に見ることが不得手だということです。だから神を捉えることができないのです。税金を払っていながら、税金を払える力を持っている自分を、全然自覚していないのと同じことになるのです。
聖書を学ぶことが救いではなくて、自分自身が生きていることが救いになるのです。正しく生きていれば、聖書はおのずから理解できるのです。
パウロは次のように言っています。
「モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。しかし、信仰による義は、こう言っている。『あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな』。それは、キリストを引き降ろすことである。また、『誰が底知れぬところに下りるであろうかと言うな』。それはキリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。この言葉とは、私たちが聞いる信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙11・5~10)。
言葉が口にあり、心にあるのです。これが信仰です。神の言葉が人の口にあり、心にあるとすれば、なぜ人間は滅びるのでしようか。
神が人間を救うというのは、どういうやり方をするのでしようか。パウロは「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されている」と言っています(コロサイ人への手紙3・3)。神の内に命が隠されている。キリストが現われさえすれば、人間は勝手に救われる。キリストの栄光がその人の心に現れると、その人自身の命の栄光が、その人に現れるからです。
例えば加藤さんがキリストの栄光が理解できるとすれば、加藤さんの中にキリストの栄光が現われたのです。キリストの栄光が理解できたということは、その人の心の中にキリストの栄光が現われたことであって、その人の命はキリストと共にあるのです。キリストの栄光さえ分かれば、その人はもう救われているのです。
人間は冷静に、平明に綿密に自分自身を見るなら、生きている姿がそのままキリストと共にあることがわかつてくるのです。よほど無茶なことをしない限り、地獄へ行きようがないのです。それほど人間の救いは明々白々なものなのです。
言葉はあなたに近い。あなたの口にあり、心にある。だから口でイエスを言い表し、心で信じれば勝手に救われるのです。救われない方がどうかしているのです。口でイエスを言い表すのが、どうして難しいのでしょうか。心で思うことを信じることが、なぜ難しいのでしょうか。心でイエスを信じることが、なぜ難しいのでしょうか。
こういうことが、頭でわかってもだめです。分かった、分かったといくら言ってもだめ、です。それが命にならなければいけないのです。ローマ人への手紙十章五節から十節までを食べてしまうのです。食べてしまったら救われるのです。
皆様が生きているという状態に命があるのではない。人の命は、キリストと共にある。心で信じて口で言い表せば、救われる。これほど簡単なことはないのです。
口で言い表すとなぜ救われるのか。口がロゴス(言)になっているからです。心で信じると言うのは、心がロゴスになっているからです。
ロゴスとは何か。ヨハネは言っています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、きしてこれによらないものはなかった」(ヨハネによる福音書1・1~3)。
すべてのものができた原理が言(ことば)であって、これは第二の神になるのです。ですから、ロゴスが口にあり、心にあることが分かった人は、勝手に救われるのです。その人は神の子なのです。信じるのは、ロゴスの働きです。ロゴスが心にあれば、救われるに決まっているのです。
すべての人は、前世で、完全に神を見失ったのです。完全に死ぬという形で、現世に追い出されたのです。ところが、言が口にあり心にあるという状態で追い出された。これは完全に救われるという状態です。
完全に地獄へ行く状態と、完全に神の国に帰れる状態との両方を与えられて、この世に追い出されたのです。どちらか好きな方をとったらいいのです。神の言葉は妙なもので、この言葉をモーセが申命記に書いたのですが、書いたモーセが分かっていなかった。モーセが書いたということをパウロはローマ人への手紙に書いています。パウロは分かったのです。
原文を書いたのはモーセです。パウロはモーセの言葉をマスターしたのです。モーセの言葉を食べたのです。モーセは神によって直感させられて、それをそのまま文章にしたのです。これが預言です。モーセは預言の言葉を書いたのです。パウロは預言の言葉が命になった上で、書いているのです。
私たちがイエスが主であることを信じることができるのは、ロゴスであるからです。私たちの精神構造はそのままロゴスの構造になっているのです。
私たちが故意に反逆すれば別ですけれど、故意に反逆しなくて、あることをただあるがままに認識すれば、勝手に救われるのです。
ローマ人への手紙十章五節から十節は、素晴らしく深い内容がありますけれど、ただすらすらと読んでいると、ばかみたいなものです。このばかみたいな文章の中に、キリスト教で全く説かれていない秘密があるのです。それは肉体人間がこの世に現われた意味が、全然分かつていないからです。創世記二章、三章の意味が分かっていない。特に三章の意味が分かっていないのです。霊の人間が肉体を与えられて、肉の国へ追放されたという神のやり方が、何のことか分かっていないからです。
一番大きいことは、アダムが神に逆らったということ、陥罪したということです。ところが今地球上で生きている人間は、皆固有名詞の人間であって、アダムではない。それがアダムと同じ罪を犯したことになっている。これはどういうことでしようか。
アダムと、固有名詞の人間の関係はどうなっているかです。パウロは言葉はあなたの近くにある、あなたのうちにある。あなたの口にある、あなたの心にあると言っている。これだけで救われていると言っている。なぜでしようか。
救われるというのは、誰でもできるのです。誰にでもできるのは、心に言葉があるからです。心に神のロゴスの論理性がなかったら、言語になって現われないのです。言語が話せるということは、人間の心と口に神のロゴスが張り付いているからです。
この事実を考えても、人間は救われるに決まっているのです。神の言葉が人間の心に張り付いていることが、なぜ救いになるかです。口と心に言葉があることが、救いになるとはどういう訳かです。世間並みの人間では分からない。ロゴスの意味が分からないからです。神がロゴスによって天地万物を造っていることの意味が分かつていないのです。
人間の言葉は、実は神と対話をするためにあるのです。人間同士の対話のためとは違います。神と対話ができる人は、めったにいないのです。聖書の勉強をしていても、神と対話ができる人は、めったにいないのです。
人間同士の対話は、肉体生活の便宜上のことであって、してもしなくてもどちらでもいいのです。黙っていてもいいのです。
生きているのは霊(神の言葉の現れ)であって、肉体ではないのです。ですから肉体で生きないで霊で生きる人になるのです。霊で生きるとは、生まれる前の機能として生きるのです。それが毎日、毎日、できる人間になるのです。
ローマ人への手紙十章の説明ができても、毎日の生活で神と話ができるようにならなければいけない。天に上る必要はないし、地獄へ下りることもない。この地上で、自分の心と口に言葉があることを、正確に認識できればいいのです。
キリスト教ではこれが全然わかりません。神と話ができる人がいないのです。パウロがどのような気持ちでローマ人への手紙を書いたか分からないからです。
口に言葉があるということが、霊魂の救いの何よりの証明になるのです。信じるということが言葉の働きです。これが分かるだけの哲学性を持たなければいけないのです。そういう哲学性ができるように、自分自身を訓練したらいいのです。
現前が神の国です。キリストの信仰になると、新しい現前を現すことができるのです。キリストが神の右に座したからです。現れてきた現前を受け取ることもいいですけれど、望む所の現前を現すことが、キリストを現すものの責任なのです。ユダヤ人伝道はこれです。
どこまでもへそを曲げて、神に逆らつているユダヤ人を、神の前に平伏させることが、ユダヤ人伝道です。現在現われている現前ではだめです。現前を変えるのです。そのカを全世界に発揮するのです。
ユダヤ人が持っている現前を、こちらから変えてしまうのです。イエスはこれをしたのです。これがキリストの信仰です。現前を変えるような積極的な信仰こそ、神が最も喜んでくれるのです。
心に信じて義とせられ、口に言い現して救われるというのは、イエスが死から甦ったことを、心で信じるのです。そうして口でイエスが主であると言うのです。
固有名詞の自分をはっきり確認していると、イエスが死から甦ろうが、甦なかろうが、自分にとつて何の関係もないのです。固有名詞の自分が生きているとはっきり確認している状態では、信仰にはならないのです。イエスが主であると言い現しても、口先だけで言っているのです。パウロはそれを書きたかったのですが、書ききれていないのです。
心で信じて義とせられ。口で言い現して救われる。これだけ読んでいたら嘘です。これだけでは宗教になるけれど、信仰にはならないのです。もう一つの条件がいるのです。
もう一つの条件とは、個我は通用していないということです。個我は実在していない。罪存しているのです。パウロは罪存していると言っていません。それを古き人と言っています。
古き人とは罪存している人です。罪存するというのは夢うつつの状態で存在しているのであって、実在していないのです。罪存している人間が、いくらイエスが死から甦ったと言ってもだめです。そういえば宗教になるだけです。
自分が救われなければならないと考えている人は、絶対にだめです。自分の信仰がいいか悪いかを考えている人はだめです。自分の信仰はどうでもいいのです。
個我は聖書が造り出した人間です。初めから存在した人間とは違うのです。掟が来たことによって罪が生きたのです。これを認めなければ、生きていることはそのまま神の子です。イエスはこの証をしたのです。イエスにとつて、聖書はなかったのです。
個我を信じている人間は救われません。神と一つになりきれないからです。神の御霊に導かれている者は、パウロでもヨハネでも、自由に引証できるのです。モーセの間違いも指摘できるのです。
聖書が個我を造り出したのです。聖書がなかったら個我はなかったかもしれない。その代わり、神も分からないでしよう。
私たちは、個我を無視して聖書を勉強するのです。これがイエス・キリストの信仰です。イエスは個我を持っていませんでした。少なくともイスラエルの代表者であることを知っていた。自分が死ぬことが、ユダヤ人が皆死ぬことであることを知っていたのです。
イエスは個人を考えていなかったのです。個人という思想は、イエスにはなかった。これが生ける神の子です。イエスのようになろうとしたらどうすればいいのか。個我から抜け出すためにはどうしたらいいのか。
個我はあってはならない人格、あるはずがない人格です。嘘の人格です。ですから、個我を裏切り続けたらいいのです。個我を憎み続けるのです。個我を無視し続けることが、信仰の第一です。個我を認識し、自分の行いを問題にしていたら、絶対にだめです。
イエスはどうしたか。イエスのやり方を真似ると、個我が目に付かなくなるのです。どうしたらいいか。神を父と呼んだらいいのです。「天にいますわれらの父よ、御名(みな)があがめられますように」と祈ったらいいのです。これをすると、個我、固有名詞の自分に関係がなくなるのです。
これをすると楽です。これが実在する人の子の状態です。実在する人の子は、固有名詞に関係がないのです。他人の悪を責める必要がないし、自分の善を行う必要もない。全く気楽になるのです。
神を父と呼ぶのです。神を父と呼ぶと、ローマ人への手紙十章が実行できるのです。神を父と呼ばなければ、パウロの言ったことは何の価値もないのです。
神を父と呼ぶ人格は、人の子のあり方です。この世に生きている人間とは違うのです。エホバが働く場としての自分はありますが、個々の人間とは違うのです。
個々の人間は、聖書が罪人として造り出した人間であって、これを信じている間は絶対にだめです。信仰にならないのです。イエスは罪人としての自分を信じていませんでした。父なる神の子としての自分を信じていた。これは、父とインマヌエル(ひとつ)であった自分なのです。
地球があることが、罪の国があることです。だから地球にいることを認識している人、地球にいることを是認している状態では、正しい信仰は持てないのです。地球に生きていない状態で聖書を見なければいけない。これが神の国です。
地球に生きている状態で聖書を読んでいたら、聖書が造り出した個々の人間と言う意識に立たされてしまっているのです。聖書を信じなければ救われないが、聖書を信じると地獄へ行くのです。聖書はそういう妙なものです。
聖書が古き人を造っているのです。聖書を信じている人間は、救われません。聖書を食べた人、聖書から出てしまったものだけが、救われるのです。これがイエスだったのです。イエスは聖書を信じていなかったのです。
聖書はとんでもない信じ方をしなければならないのです。世間並みの素朴な信じ方ではだめです。聖書を食べてしまわなかったらいけないのです。
イエスは自分のことを人の子と言っています。パウロは人間という言い方をしています。一度度死んで、死んだ後に裁かれるのが人間です。イエスは人間という言葉を使っていません。人の子と言っているのです。
イエスが言う人の子は、聖書に書いている人間とは違うのです。神が生かしているのです。神によって生かしているのは、僕も君もないのです。神が御霊によって生かしているのは、たった一人の人です。世界の女性が子供を生むようになったのは、陥罪以後のことです。現在生きている人間は、罪存している人間ばかりです。実在しているのではないのです。
現在の現象世界は、罪存する世界です。このことを般若心経では色即是空と言っています。これはとてもいい言葉です。事実をずばりと言い表しているからです。五薀皆空とは、人間の思いは全部間違っていると言っているのです。五薀皆空の本当の意味は、すべての人間の意識は罪存する人間の意識だと言っているのです。罪存する人間は、ことごとく嘘を信じているのです。
人間は実在していない。罪存しているのです。地球が消える時、罪存する人間も全部消えてしまうのです。現世に生きているという記憶、地球に生きていたという記憶をもって死んだ人は、全部地獄へ落とされます。罪存していただけなのに、本当に存在していたと思っていたからです。
地球に生きていた時の記憶を持ち、固有名詞を認識したままで死んでいった者は、皆地獄へ行くのです。両親、夫婦、兄弟姉妹を認識したままで死んでいった者は、皆地獄へ生かされるのです。これが山上の垂訓の原点になるのです。
父と子の関係があるだけです。一対六十五億とは違います。地球存在が罪の世界です。イエス・キリストの復活が歴史的事実になると、千年王国が実現します。人間歴史六千年が終わって、最後の千年間だけまともな地球になる。
その時、地球の人間の人格はなくなるのです。イエス・キリストの人格になるのです。命が一つになるのです。復活の命になるのです。これが千年王国の原理です。
日本人は、この王国の原理をよくよく理解して、これをイスラエルに伝えなければない責任があるのです。個々の人間は、ユダヤ人を通して聖書が造った人間です。これは嘘の人間です。ましてや人権主義は、全く呪われるべき考えです。
個々の人間はいない。イエス・キリストの復活が、この地球上に現われた唯一の間です。人間は一人しかいないということを、どうしてもユダヤ人に教えてあげなければならないのです。



人生の目的

日本では、今日まで、般若心経と聖書を、一つにまとめて説明することができなかったのです。その理由は、宗教という角度から見ていたからです。
般若心経は、悟りを説いています。究竟涅槃は、悟りのことなのです。涅槃とはどういうことかといいますと、原語のサンスクリット語では「ニルバーナー」といいます。ニルとは冷えることです。バーとは消えることです。ナーとはなくなることです。つまり、冷えて、消えて、なくなることが捏柴なのです。人間でいえば、死んでしまうことなのです。
分かりやすい例でいいますと、ろうそくの火が、風によって、ふっと消えてしまうことです。人間の生活意識は、ろうそくの火のようなものです。自分が生きていると考えていることが、ろうそくの火のようなものです。
生きているのは、現世にいる人間の概念であって、これは、必ず消えてしまうものなのです。消えてしまうまでに、目の黒いうちに、消えない火を見つけることが必要なのです。
人生の目的は何かといいますと、魂の灯をともすことなのです。現在、この世に生きている間にそれをするのです。言い換えれば、死なない命を見つけることです。今までの世界観ではない、新しい世界観を持つのです。
世界観というと難しく聞こえますが、物の見方ということです。人間は、皆世界があると考えています。だから、死ぬのです。現在の人間の生活意識によれば、現象世界は現存しています。
しかし、人間の生活意識は、変化するもので、固定したものではありません。これは、一つの思想であり、また、考えであって、目に見えてはいるけれど、実は存在していないという考え方も、充分にありうるのです。
現在の学問思想が、人間に、見えているものがあるという意識を植え付けてしまったのです。昔の日本人は、そうではなかったのです。例えば、千利休は、一期一会をお茶の原理にしています。これは、見ている通りのものがあるとする考え方とは違っています。今という時しかない。今だけしか生きていないということをはっきり認識する時に、茶を立てる喜びが湧いてくるというのです。
五十年生きてきた、六十年生きてきた、という考え方とは違うのです。人間は今だけ生きているのです。こういう真面目な考え方が、かつての日本にはあったのです。
徳川家康は、戦国時代の武将でした。この武将の軍旗が「厭離穢土欣求浄土」だったのです。厭離穢土というのは、この世はけがれているから、私はいやだということです。欣求浄土は、浄土を求めるということです。日本の武将は、こういう考え方をしていました。これが、日本人の持つ特徴だったのです。
しかし徳川幕府三百年の間に、日本人の世界観が、がらっと塗り替えられたのです。ユダヤ人が、人類の世界観を塗り替えたように、家康および十五代の将軍が、士農工商と国民を四つに分けて、封建社会を形成したために、日本人の考えが、根本から変わってしまったのです。日本の伝統的な良さが、まったくなくなってしまったのです。
明治以降の日本では、文明開化の名のもとに、ユダヤ主義が氾濫しているのです。この思想が日本に氾檻したために、日本が文化的に塗り替えられてしまった。本当の人間歴史が消えて、文明という感覚が表面に浮かび上がってしまったのです。
文明と歴史とは、全然別物なのです。その区別が、今の人間には分からないのです。ただ世間に認めてもらいたいと考えているだけなのです。日本の学者は、皆ノーベル賞を欲しがっています。ノーベル賞をもらえば、世界的な学者ということになるからです。ノーベルは、ユダヤ人です。ユダヤ人にほめてもらわなければ世界的な学者になれないと、思っているわけです。文明が、そのようにしているのです。
現在、アメリカにあるのは、キリスト教の聖書であって、本当の聖書ではありません。キリスト教の信心はあります。でもこれは、すべてにおいて西洋の宗教です。キリスト教が説いているキリストは、本当のキリストとは違います。それを日本人に押しっけているのです。
聖書は宗教ではありません。神の言葉です。神の言葉という意味が、キリスト教の人々には、分からないのです。キリスト教の人も、聖書は神の言葉であるといいますが、神の言葉と宗教とがどう違うのか、分からないのです。
聖書が、キリスト教のテキストになっていることが、間違いなのです。聖書は、キリストを信じるためにあるのではないかと、キリスト教の人々は言いますが、キリストという言葉の使い方が間違っているのです。キリストというのは、神が地球をつくつたこと、また、人間を完成し、地球を完成するための神の地球計画のことなのです。
実は現在の地球は、未完成なのです。人間も、未完成です。まだ一人前の人間ではないのです。だから、命が分からないのです。目で見ているものの本当の姿が分からないのです。
神とは、簡単明瞭に言いますと、心臓が動いていることです。目が見えること、耳が聞こえることが、神なのです。五官の働きが、命のあり方を正確に表現しているのです。
人は、五官によって、命を経験しているのです。命を経験しているが、生活意識が間違っているために、命が分からないのです。
だから、今の考えを持ったままで、聖書をいくら読んでも分からないのです。マタイ伝の山上の垂訓の第一句である、『心が貧しい人たちは幸いである』(マタイによる福音書5・3)ということが、何のことか分からないのです。これは、神の御霊によらないと、分かりません。
聖書は、神の言葉ですから、神に教えてもらわないと分かりません。人に教えてもらってもだめです。キリスト教の牧師、カトリックの神父さんは、皆、人間です。だから、世間並の商売をしているのです。キリスト教の看板をかけて、商売をしているのです。
聖書は、命の言葉そのものです。般若心経が悟りそのものであるように、聖書は、命そのものなのです。
そこで、キリストを信じるということは、普通の人間の常識を待ったままでは、できないのです。できるつもりでも、皆間違ってしまうのです。パウロは、このことを、『心をかえて新たにせよ』といっているのです。精神の深みまで新たにせよといっているのです(エペソ人への手紙4・23)。
イエスは、『悔い改めて福音を信ぜよ』(マルコによる福音書1・15)といっています。悔い改めるとはどうすることか。これが、キリスト教では全然分かっていないのです。人間の意識構造、マインド(精神)を、まったく変えてしまうことなのです。
心をかえて新たにせよという箇所を英訳で見てみますと、マインドのあり方と働きを、もう一回新しくやり直して出直せといっています(ローマ人への手紙12・2)。マインドの働きをやり直すには、究竟涅槃しかありません。イエスをまともに信じるためには、ま
ず、涅槃を実行しなければだめなのです。
命が自分のものだと考えている頭で、いくら聖書を信じてもだめなのです。命は、自分のものではないのです。天から預けられたものなのです。これが分からないと、キリストを信じることはできません。信じたつもりでも、キリスト教の概念を信じているに過ぎないのです。
水と霊とから新しく生まれて、神の国へ入れ(ヨハネによる福音書3・5)と、イエスは言っていますが、これがキリスト教では実行できないのです。水から生まれるとは、どうすればいいか、霊から生まれるとは何のことか、分からないのです。
宗教は、いくら信じても、死んでから神の前へ行くことがありません。神の前に通用することを考えるなら、誠心誠意、霊魂の実態をつかまえていなければだめです。神の存在は、厳然たる事実です。神の前に立つには、何をどうすればいいかを、聖書によって勉強する必要があります。
聖書によって、神と人とを学ぶのです。祈ることは、神と人とのコミュニケーションであり、対話なのです。神と対話しようと思ったら神の心境が分からなければできません。
心臓が動いていることが神なのですから、これをつかまえるのです。そうすると、神と対話ができようになります。