ブログ仙岩

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ブラタモリ京都祇園へ

2017-04-19 09:11:36 | エッセイ
日本一の花街・京都祇園はどうできたか?を江戸時代に遡って、その痕跡を探求する。

舞妓さんが行きかう情緒あふれる街並みは世界中の観光客が集まる日本を代表するところ、鴨川と八坂神社のあいだの花街を舞妓さん・芸妓さんと一緒に、一見さんお断りのお茶屋、豆六・豆千代など看板の置屋、そして仕出し屋の分業できめ細かなおもてなしが可能になった。

建仁寺の境内が花街になり、300年も続く歌舞伎仮名手本忠臣蔵に出てくる「一力亭」の玄関は四条通りにあったが、1912年の市電開通で、花見通りに移り、四条通りの八坂神社の西楼門も大正2年11月に移転し、かっては祇園社と呼んでおり、360年前の本殿は神仏習合造り、花街は祇園社の境内で、祇園と呼ばれて何ら不思議ではなく、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・。

江戸時代の三味線の音で豆腐を切る絵図を見て、味噌焼き豆腐を味わい、かっては河原町まで広い鴨川が1670年に出来た石垣の寛文新堤で狭められ縄手通りができ、江戸末期には700軒ものお茶屋があった。

さらに四条通の北側へ。今は飲み屋街が広がる場所にギザギザの町割り個人のお茶屋も残っており、これが江戸時代の花街発展の痕跡で、南の花街は組合で、聖と俗が相まって発展してきた祇園街であった。
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