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24 〈時〉が走りだす廃墟

 古代マヤの神殿や都市は“過去”や“未来”を〈今〉〈現在〉に収斂する装置としてつくられた。しかし「収縮する時間」*01によって完結し、充足した〈時〉を演出した支配階級も、それを享受した民衆もすでになく、神殿・都市は遺棄され、深い自然に覆い隠された。
 こうして廃墟になった都市が、19世紀“遺跡”として再発見されたとき、その都市が“時”を超越するためにつくられたことも、それを示す過去と未来を記述した“文字”も、もはや解読不能であった。それらは奇怪な神の浮き彫りとともに、“意味ありげな装飾”としか映らなかった。しかしその廃墟には、読解のルールが失われている中でも、人々を引きつけてやまない理由があった。

総督の館 ウシュマルUxmal/メキシコ

悠久の〈時〉を飛翔する“拠り代”としての廃墟
 古代人の自然=宇宙の真理に近づこうという努力は、精緻な天文観測の積み重ねの結果、時間のひみつ=暦の存在に到達した。それは宇宙(=神)の真理に近づいたものと考えられ、その宇宙の真理を解き明かした証として、また時間を〈今〉〈現在〉に収斂する装置として、マヤの神殿や都市がつくられた。
 しかしその神殿や都市が突然遺棄され、人間の様々な干渉から一切切り離されてしまったときから、人工物と自然の融合が始まり、長い物理的時間が経過した。
 人間がつくり出した人工物が、人間不在の中で自然と融合していく。その融合の度合いが、人間の不在の長さを示している。しかしながらこれらの人工物は、人間不在の中でも自然=宇宙の真理と干渉し続け、それらと融合しながらも、人工物としての痕跡を残してきた。その事実こそが、この人工物が人間の手を離れた後も、悠久の〈時〉を飛翔する“拠り代”となっていることを示すものであった。時間を超越し、永遠の時を旅する神々の“のりもの”。それが再び我々の前に姿を現した“廃墟”だったのである。

〈時〉が走りだし、“過去”や“未来”へ発散する
 廃虚という日本語には静的なイメージが付きまとう。しかしラン(run=走る)という言葉と語源が同じであるルーイン(ruin=廃虚)という言葉のなかでは、「時間が走っている」*02“文字”の解読が進み、その意味が理解できるようになった現在においても、また春・秋分に繰り返し起こるククルカンのピラミッドの奇跡に、毎年大量の観光客が押し寄せるようになっても、もはや廃墟としてのマヤ遺跡が、かつてのように過去や未来を〈今〉〈現在〉に収斂する装置として機能することはない。
 その廃墟は、むしろ過去の記憶と未来への想像力(イメージ)が、数千年の時間を行き来するための“拠り代”として、時間が溶解した〈今〉〈現在〉の“幅”を拡げる働きをしている。それはいわば〈今〉〈現在〉から“過去”や“未来”へ向かって〈時〉が走りだし、発散して行くかのようである。
Todaeiji-weblog
*01:続 古代日本人の精神構造/平野仁啓/1976 未来社
*02:知のケーススタディ/多木浩二+今福龍太/1996.12.10 新書館


知のケーススタディ
多木 浩二,今福 龍太
新書館

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