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2017-07-23 17:16:06 | 日記
日野原重明
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この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。2017年7月18日 (火) 00:09 (UTC)貼付。(表示終了予定:2017年7月25日 (火) 00:09 (UTC))
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日野原 重明

駐日アメリカ合衆国大使公邸にて(真ん中、2013年5月撮影)
人物情報
全名 日野原 重明
生誕 1911年10月4日
日本の旗 日本 山口県吉敷郡下宇野令村
(現:山口市)
死没 2017年7月18日(満105歳没)
日本の旗 日本 東京都世田谷区
呼吸不全
出身校 京都帝国大学
両親 日野原善輔(父)
学問
学位 医学博士
主な受賞歴 勲二等瑞宝章
文化勲章
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日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44年)10月4日 - 2017年(平成29年)7月18日[1])は、日本の医師・医学博士。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務めた。
京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士(人文科学)、マックマスター大学名誉博士。
目次 [非表示]
1 人物・経歴
2 エピソード
2.1 自身について
2.2 戦争について
2.3 いのちの器
2.4 趣味・嗜好
2.4.1 趣味
2.4.2 嗜好
2.5 よど号ハイジャック事件
3 著書
4 共編著
5 翻訳
6 論文
7 メディア出演など
8 役職
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 関連項目
11 外部リンク
人物・経歴[編集]
1911年、山口県吉敷郡下宇野令村(現:山口市湯田温泉)にある母の実家で生まれた。
父母ともにキリスト教徒で、父・日野原善輔はユニオン神学校に留学中だった。日野原は父の影響を受け、7歳で受洗した。
9人家族(6人きょうだい)の次男。明治の年号にちなみ、きょうだい全員の名前に「明」の字が入っている。
1913年に父が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居する[2][3]。
1915年に父が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会(現日本基督教団神戸栄光教会)に移り、神戸に転居。
1918年、神戸市立諏訪山小学校(現神戸市立こうべ小学校)に入学。
1921年、諏訪山小学校4年のとき急性腎臓炎のため休学。
療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始める。
1924年、名門の旧制第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)に合格。
1924年、第一神戸中学校を入学式当日に退学し、関西学院中学部に入学[4]。
赤面恐怖症克服のため弁論部に入る[4]。
1929年、旧制第三高等学校理科に進学。
弁論部と文芸部に入部、詩集や随筆集を作った。
1930年、父が広島女学院長に就任。
1932年、京都帝国大学医学部に現役で合格し入学。
学費は教会関係者の寄付を仰いだ。
1933年、大学在学中に結核にかかり休学、父が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間闘病生活を送った。
医学部の内科教授になる夢を断念する。医学をやめて、音楽の道に進もうと考えるが、両親に反対され断念。
1934年、京都帝国大学医学部2年に復学。
病み上がりで体調が悪く、仕事の楽な精神科医になることを考える。
1937年に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手(無給)に就任(1939年まで)。
真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局。徴兵検査丙種合格。
京都帝国大学病院で2年間副手として研修をしたが、学ぶことはなかったと述懐していた。
1938年、北野病院や京都病院(現国立病院機構京都医療センター)で勤務。
1939年、京都帝国大学医学部大学院博士課程(心臓病学専攻)に進学。
京都大学YMCA地塩寮に住む。
1941年、に聖路加国際病院の内科医となる。
東京は東大閥があるからと、周囲に反対されたのを押し切り、東京で勝負をしたいと考え上京したが聖路加には学閥がなかった。
1942年に結婚。
同年に、広島女学院院長を定年退職し上京していた父が牧師をしていた田園調布の教会の教会の役員の紹介で教会の日曜学校で教師をしている女性と3ヶ月交際し、結婚。
1943年、京都帝国大学医学博士の学位を取得。
日野原は音楽好きだったため、博士論文は「心音の研究」[5]。心臓が収縮するとき低音がなることを発見し、アメリカの著名な医学雑誌[6]に投稿した。
1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官。
戸塚海軍病院や海軍衛生学校のある横浜市戸塚で訓練を受けるが、急性腎臓炎のため入院となり除隊となった。
1951年、聖路加国際病院内科医長に就任。
1951年、エモリー大学医学部内科に1年間留学し[7]、ポール・ビーソン教授に師事する。
メイヨー・クリニックでホリスティック医療に触れる。
1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐(研究・教育担当)に就任する(1972年まで)。京都大学医学部第三内科学教授ポストの打診を断った。闘病中の母が脳卒中で死去した。
東京看護教育模範学院(現日本赤十字看護大学)講師(1954年まで)、東京文化学園(現新渡戸文化短期大学)講師や医師国家試験試験委員や、医師研修審議会委員も務める。
1953年、国際基督教大学教授に就任、以後4年間「社会衛生学」などを講じつつ同大学診療所顧問なども務める。
1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。
1958年、バージニア州リッチモンドのアズベリー神学校で客員教授を務めていた父が劇症肝炎のためリッチモンド記念病院で死去した。
1970年、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放される。
同乗していた吉利和(東京大学医学部教授、犯人に教え子がいた)と、乗客の健康診断をした。
事件に遭ったのを契機に自己の内科医としての名声を追求する生き方をやめた。
1970年、学校法人津田塾大学評議員に就任(現在に至る)。
1970年、文部省医学視学委員となる。
1971年、聖路加看護大学副学長及び教授に就任する。
1973年、財団法人ライフ・プランニング・センター設立、同理事長就任(現在に至る)。
1974年、聖路加国際病院を定年退職。
死去した橋本寛敏前院長の後任の院長に推されたが、理事長を務めるライフ・プランニング・センターが笹川良一から援助を受けていることを問題視され、同理事長を退任するようにいわれたため院長就任を断った。
1974年、聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年まで)
聖路加看護大学に大学院を開設、日本で初めて看護大学に博士課程を設置した。
1975年、文部省看護視学委員、旭川医科大学参与。
1977年、佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)参与。
1978年、厚生省医療関係者審議会臨床研修部会会長(1981年まで)。
1980年、聖路加国際病院理事に就任。
1982年、自治医科大学客員教授(1998年まで)。 日本医師会最高優功賞を受賞。
1984年、国際内科学会会長(東洋人初、1986年まで)。
1985年、フィラデルフィア医師会日米医学科化学者賞を受賞。
1986年、日本バイオミュージック研究会(現・日本音楽療法学会)初代会長を務める。アメリカ内科学会名誉フェロー。
1987年、国際健診学会会長(1990年まで)。医療秘書教育全国協議会初代会長。
1987年、日本総合健診医学会会長(1997年迄)。
1989年、キリスト教功労者顕彰。社団法人学士会評議員。
1991年、国際基督教大学評議員(2001年まで)。
1992年、聖路加国際病院院長に就任(1996年まで)。
無給で院長を務めた。
1992年、ニューヨーク科学アカデミー会員となる。東京都文化賞受受賞。広島女学院維持会顧問に就任する。
1992年、国際健診学会会長(1994年まで)。株式会社聖路加サービスセンター代表取締役(第4代)。
1993年、勲二等瑞宝章を受章する。
1995年、全日本音楽療法連盟(現日本音楽療法学会)会長に就任する。
1996年、財団法人聖路加国際病院(一般財団法人聖路加国際メディカルセンター)理事長に就任(2014年まで)、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となる。公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所を設立し、理事長に就任(現在に至る)。
1998年、聖路加看護大学名誉学長及び名誉教授、東京都名誉市民、トマス・ジェファーソン大学人文科学名誉博士。医療法人真誠会名誉理事長。
1998年、ハーバード大学公衆衛生大学院沖永客員教授。
1999年、文化功労者に選ばれる。
1999年、中央区名誉区民となる。全日本学士会アカデミア賞を受賞。
2000年、財団法人笹川記念保健協力財団会長(現在に至る)。日本パブリック・リレーションズ協会日本PR大賞社会部門賞受賞。財団法人ライフ・プランニング・センターに新老人の会を設立、会長に就任(現在に至る)。
2001年、日本音楽療法学会初代理事長(現在に至る)。株式会社ウェル・ビーイング顧問。
2002年、マックマスター大学名誉博士。経済界大賞特別賞を受賞。
2003年、国立大学法人佐賀大学医学部顧問。朝日新聞社朝日社会福祉賞受賞、亀岡市生涯学習大賞・石田梅岩賞受賞。
2004年、日本栄養療法推進協議会理事長となる。
2005年、文化勲章を授与された。
2006年、社団法人日本循環器学会名誉会員、関西学院大学名誉博士、社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問となる。(スポーツ吹矢を呼気が吸気を促す呼吸運動とし、その健康効果に注目している[8]。)
2007年、日本ユニセフ協会の大使に任命された。有限責任中間法人日本総合健診医学会理事長に就任する。
2008年、4月から父親が戦中院長を務めた広島女学院大学で客員教授を務めた。
2008年、関西学院初等部教育特別顧問。
特別授業などを担当。
2008年、神戸市神戸大使。地方独立行政法人佐賀県立病院好生館顧問。日本ハンドベル連盟理事長。
2009年、聖トマス大学日本グリーフケア研究所名誉所長。
2010年、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長となる。世界宣教東京大会顧問、公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を最高顧問、医療法人名古屋澄心会名古屋ハートセンター顧問に就任、コルチャック功労賞を受賞する。
2011年、日本禁煙科学会賞を受賞。
2012年、ティーペック株式会社優秀糖尿病臨床医ネットワークサービス特別顧問となり、第12回日本音楽療法学会学術大会大会長、農林水産省みどりの特別大使を務めた。
2013年、オーストリアのアルベルト・シュヴァイツァー協会からアルベルト・シュヴァイツァー章受章[9]。
2014年5月半ば、血中に大腸菌があり入院した。4日で回復したものの念の為に検査をしたら大動脈弁狭窄症を発見した。高齢の為に手術は難しく、これを避ける為に移動のみ車椅子を使用している[10][11]と、2014年6月21日の続きのコラムを差し替えて公言していた[10][注 1]。
2015年、女子サッカー、日本-イングランドの観戦時に気分を害し聖路加で検査した結果、心房細動が発見された[12]。以降は力を込めて応援したくなる試合は生放送ではなく、結果を知ってから録画鑑賞することになった[12]。
2017年7月18日、東京都世田谷区の自宅で呼吸不全により死去。105歳没[1]
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