おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

十思公園。伝馬町牢屋敷跡。吉田松陰。(震災復興52小公園。その18。)

2013-12-14 20:12:31 | 震災復興小公園
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

 吉田松陰の辞世の歌。吉田松陰が処刑された「伝馬町牢屋敷」跡の「十思公園」内に大きな石碑に刻まれています。小塚原刑場で処刑(斬首)された、との記述も時に見受けられますが、吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所。
左手の石碑。

 大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られた松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。
 処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、文久3年(1863年)に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬された。(以上、「Wikipedia」参照)
「回向院」。

   
  
  左が1880年代のようす。右が2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 左図で、左中央の大きな空間を中心として広がる一帯が、「伝馬町牢屋敷」の跡地。空白になっているのは、なかなか跡地の土地利用が決まらなかったためのようだ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園一帯にあたる。

 江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、「伝馬町牢屋敷」は現代における刑務所というより、未決囚を収監し、死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設。2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。江戸城外・常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8(1875)年に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。周囲に土手・堀を廻し、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。
 牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人~80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。(以上、「Wikipedia」参照)

時の鐘。日本橋石町に設置されていたこの鐘が鳴ると共に処刑が執行された、という。

大きな説明板。

江戸三縁史蹟

石時町時の鐘宝永時鐘
工第四号  指定書
  石町時の鐘一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町    所有者 東京都中央区役所
銅鐘   高さ一・七米口径九三糎    宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
右を都重宝に指定する。
     昭和二十八年十一月三日   東京都教育委員会
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地区の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように送れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京に寄進した。

吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」継いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

江戸伝馬町牢屋敷跡
史第二十九号  指定書
  伝馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町一の五先    所有者 東京都(中央区管理)
地積   一三・四五坪(二二尺四方)
右を都史蹟に指定する。
     昭和二十九年十一月三日   東京都教育委員会
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□(木+豕)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不尽忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
          昭和二十九年十一月
  江戸史跡保存協賛会

 平成二年三月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。中央区土木部公園緑地課
説明板付近から「時の鐘」方向を望む。喧噪のオフィス街から一歩入ったところ、小さいが静かな公園風景。
緑も多く、よく整備されている。
児童遊具はこじんまり。

 周囲には、「伝馬町牢屋敷」跡だけに、曰く因縁のありそうな寺院もあって、ちょっと異質な感じがする「震災復興小公園」でした。

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