おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小金~我孫子~取手。その5。(「水戸街道」をゆく。第2日目。)

2016-12-07 20:21:02 | 水戸街道

 (14:34)やっと渡り終えそうです。対岸は、取手市。
    
                                       振り返って望む。対岸は我孫子市。

取手市。



1880年代のようす。明治に入って渡し場の位置が上流の方に移動したようです。



現在のようす。

橋を渡り終えると、右に進みます。常磐線のガード下。

その先で「取手宿」に入ります。「宿場通り」。

(14:49)左奥に「長禅寺」。

その参道入口に「奈良漬の新六」の店があります。

    

奈良漬
 そもそも奈良が発祥の地で、ルーツについては古く奈良時代に遡ることができます。1988年、奈良朝廷の左大臣長屋王(ながやのおう729年没)の邸宅跡から出土した3万点の木管の中に粕漬についての記述木片が発見されました。木片には、ウリ・ナスやミヨウガを酒粕に漬けこみ木箱に入れて進物用に用いられたと記されてあります。
 当時、貴族階級は酒(どぶろく)と粕漬を嗜む趣があり、粕漬は食物のなかで保存食としてまた、香の物として珍重され高級食品であったことがうかがい知れます。その後、粕漬は奈良に訪れる旅人に食され庶民に広く親しまれるようになり、『奈良漬』して一般的に呼ばれるようになりました。
 特に江戸時代には、将軍徳川家康は奈良漬を大変好み、江戸屋敷まで奈良の糸屋宗仙(漢方医で奈良漬を造る名人)を呼び寄せ奈良漬の製造御用商人として召し抱え、四季を問わず食膳に香の物として食していたと言われております。一説には『奈良漬』という名になったのは、糸屋宗仙が慶長年間(1596~1615)に名付けたと言う説もあります。

 取手の奈良漬がもう一つの名産地である由縁は、関東平野を流れる利根川水系と夏野菜を育む豊かな土壌にあります。特に茨城県南部は奈良漬の原料である瓜や胡瓜などを栽培するのに適した地域となっており、良質な新鮮な夏野菜が確保しやすい立地にあります。また銘醸地としても知られている石岡や水戸は、関東地方のなかでも屈指の酒どころで、これらの県産酒から産出される副産物の酒粕が芳醇な奈良漬を生み出す元となっております。

新六本店
・将軍家継の代に、取手に新六住むとある。寛政の頃には酒造業を営み、文政にいたって利根川に廻船問屋に精を出す。粕漬の元になる酒造り、材料を集めるための船運の仕事が、その後の奈良漬造りのために大いに役立つとは・・・
・先々代田中新六、試しに造った奈良漬が意外においしいので、親戚、知人に分けたところ大いにほめられる。気をよくした新六、明治元年にいたって遂に発売しようと決心。屋号もその名の通り「新六」。取手の新六としてたいへん親しまれる。
・その後も日夜、製法を研究練磨しているところ、新六のうわさは村々から近隣の国にまで拡がる。明治33年明治天皇笠間行幸の際、茨城県知事を経て宮内大臣田中光顕閣下より奉献の栄を賜わる。 さらに昭和4年、水戸陸軍特別大演習に、昭和陛下行幸の天覧を賜わり、宮内省より御買上の光栄に浴した。
・大利根の流れが育くむ関東平野。そこにとれる新鮮な野菜を素材に、酒粕やミリン粕のほかは、合成添加物を一切加えず今も木の樽に漬け、土蔵の中に自然にねかせて造る。人手と時間をたっぷりかけた新六の奈良漬の評価は高まるばかり、季節を問わず食膳に欠かせないものとして喜ばれている。

 元来の奈良漬の素材は白瓜。それが中国から仏教とともに日本に渡来し、酒の名産・奈良で中国帰りのお坊さんが漬けたのが発祥とされます。つまり奈良漬は、原料の白瓜がよく育ち、良質の酒粕に恵まれた土地の特産物。その点、ここ利根川水系一帯もよい野菜とよい酒の産地。奈良漬の生まれ育つ風土的条件にはぴったりです。
 奈良漬は、パリパリでもさくさくでもいけません。あくまでもシャリッと、みずみずしい歯ざわりでなければ。肉質がやわらかく、しかも歯切れがよく…。これが奈良漬の真髄です。
 「私が味わって満足できないものは、店に出しません。店に出している製品の味は、すべて私の責任です。生まれたときから奈良漬と一緒に育った私です。いい奈良漬の味を、この舌が知っています。私の第一の務めは、その舌を狂わせないこと。そのためには、何を犠牲にしてもいいと思っています。」


(以上、HPより)

 お店の中はけっこう賑わっています。少し変わっていますが、「生姜」と「山牛蒡」の「奈良漬け」を購入。家で食すると、酒粕の香りと素材のしゃきしゃき感が絶妙で気に入りました。
 茨城県内はもちろんですが、都内では唯一、銀座ので扱っているとのことです。 

(14:55)お隣は明暦元年(1655)創業の「田中酒造」。 

㈱田中酒造店歴史
 江戸前期、陸前浜街道の要衝として発展してきた取手宿。その面影を残すのは取手市内には、参勤交代で使用された本陣と様々な寺社仏閣、そして君萬代醸造元田中酒造店があります。
 常総大地の東のはずれ、利根川の砂礫層を通ってくる豊富な伏流水と後背地に相馬、谷和原の穀倉地帯を控える地の利から創業(明暦元年1655年)以来日本酒を醸造してまいりました。
 明治17年(1884年)、現在の牛久市域で陸軍近衛砲兵の射撃演習が行われた際、明治天皇が行幸し、牛久の旧家が行在所となりました。天皇が利根川を渡り行在所に向かう途中喉の渇きを訴え、造り酒屋の水なら大丈夫、という事で差し出されたのがここの井戸水でした。天皇が大変満足されお気に召した為、天皇の行在所滞在中、水を運ぶこととなり、その功により明治 天皇より下賜されたのが「君萬代」の銘柄であると伝えられています。
           

「君萬代蔵開き 2016年12月4日」。

「本陣通り」。

左手に「染野本陣」。

 (14:58)休館日のため見学できず。奥にある「本陣門」と「案内板」。
    

旧取手宿本陣染野家住宅 茨城県指定建造物(主屋と土蔵は平成8年1月25日、表門は平成26年1月27日に指定)
                         取手市指定史跡(昭和62年1月1日)
 江戸時代、水戸街道は、現在の足立区千住と水戸を結んでいました。大名が宿泊や休息した家を本陣と呼びました。染野家は、代々取手宿の名主を勤めており、水戸徳川家から本陣に指定されました。水戸徳川家の藩主だけでなく、水戸街道を行き来する他の大名や高位の武士も染野家を本陣に利用しました。
江戸時代、取手の宿場はたびたび火災にあい、現在の旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政6年(1794年)の火災の翌年に、表門は文化2年(1805年)に再建されました。現在の敷地はほぼ当時のままで、主屋(しゅおく)・土蔵・表門(おもてもん)・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の歌碑が残っており、当時の様子がうかがえます。
「旧取手宿本陣染野家住宅」。

(以上、HPより)

取手宿
 水戸街道千住宿から5つ目の宿場町。

                          

 現在の茨城県取手市取手・東のあたり。宿場町は東西に1キロ弱の範囲で広がっている。水戸街道は利根川を南北方向に渡っているが、その水戸側・北岸で向きを変えて東南東に向い、取手宿に入る。対岸の江戸側・南岸にも、正規のものではないが、青山宿という小規模な宿場町があった。
 取手宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)であり、それ以前は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流するという流れであった。そのため、取手宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他宿場町より、多少遅れている。
 取手は、宿場町であるだけではなく、利根川水運の拠点地・物資集積地でもあったことから、二百軒程度の家並みが並ぶ大規模な集落を形成していた。旧道筋には2005年現在も、多少の古建築を見出すことができる。
 
 取手宿と藤代宿との間には小貝川水系の低湿地があり、小貝川は暴れ川であったことから、この区間は東から西へ「本通り」「中通り」「椚木廻り」「大廻り」とルートがわかれ、増水時の迂回路が用意されていた。

                                                   (以上、「Wikipedia」参照。)

 (15:05)次の宿まで行こうと思いましたが、来客があるというので、今回はここまで。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする