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梶原和義のブログです。

2011-06-08 08:58:26 | 日記
地球にあるすばらしい未来

現在の人間の額には、自我意識がしっかり刻印されています。自我意識は悪魔の名です。悪魔の名が、がっちり額に刻印されていますから、自我意識で考えざるを得ないようになっているのです。これを追い出すのです。そのかわりに神の名が額に刻印されることが、聖書を学ぶことの最高の目的です。
これができない人は神に人生を渡すことができないのです。神に人生を渡すと、自分が損したような気持ちになるのです。誰が損をする気持ちになるかと言いますと、悪魔が損をすると思うのです。自分が損をすると思うので、なかなか人生を渡そうとしないのです。
パウロは「たえず祈れ、常に喜べ、すべてのことを感謝せよ」(テサロニケ人への第一の手紙5・16~18)と言っています。常に喜べとは、喜ぶことがあったら喜ぶのとは違います。うれしくなくても喜びなさいと言っているのです。常に喜べというのは命令であって、嬉しかろうが嬉しくなかろうが、喜びなさいと言うのです。それをしないからいけないのです。自我で生きている人は、それができません。あほらしくてできないと思うのです。嬉しくないのに喜べるかと言いたいのです。
常に喜べ、すべてのことを感謝せよ。何でも感謝するのです。おいしいと思ったことを素朴に喜べば、神の愛がすぐに分かる。生きていると、事々物々を通して、神の愛が分かるようにできているのです。
自分の事情境遇を考えると、もっといいもの、もっとおいしいものと考えます。これは人間が贅沢を言っているだけのことで、五官はそんなことを言いません。五官は生まれながらの素朴な感覚をそのまま持っているのです。これがそのまま情緒です。
情緒を求めれば、情緒が安定します。情緒が安定すれば不安がなくなるのです。幼児のようになればいいのです。
食べること、見ることを、赤ん坊のような気持ちでしたらいいのです。損も得も考えずに、ただ生きることを考えればいいのです。そうすると、生きることのありがたみが分かってくるのです。まずのんびりすることです。徹底的にのんびりするのです。
無責任になるのです。一切の責任を持たないのです。そうすると強迫観念みたいなものがなくなるのです。
奥さんはご主人にこづかれ、世間の人にこづかれ、近所の人にこづかれて、戦々恐々としているのです。そこで、まず、のんびりするのです。のんびりする気持ちが、心を豊かにするのです。そうすると、強迫観念、被害妄想がなくなるのです。
生かしているのは神です。神が皆様を生かしていることに気がつけば、神の中に入ることを考えればいいのです。
どうしたら神の中へ入れるかと言いますと、お茶を飲む時に、お茶の味をしみじみと感じるのです。実はお茶の味が神なのです。お茶の味が神ですから、お茶の味の中に入ったらいいのです。心はお茶の味の中に入ることができますから、その中に入ったらいいのです。心はどこでも入ることができるのです。
お茶の味がとこしえの命です。御飯の中にとこしえの命があるのです。御飯の味がとこしえの命なのです。
事情境遇、人生が、人の霊です。これは本来神のものであるのに、自分のものとして勝手に横領している。だから死ぬのです。それを神に返すのです。そうすれば死ななくなるのです。
皆様が神にしたことは、必ず神が報いて下さるのです。神自らが報いとなって下さるのです。だから自分の事情境遇を神に渡すのです。
事情境遇を自分のものとしている考えは、悪魔の考えです。人間の自我意識と、事情境遇についての考えは、悪魔の考えです。これを忘れるのです。そうすると、皆様が生かされている存在になるのです。
存在は神の名(実体)です。皆様が生かされていることの実体は、そのままイエスの御名(実体)なのです。自分が生かされていることをまっすぐに見ると、生かされていることが、そのまま神の中にあることが、勝手に分かってくるのです。
神をそのまま受け取るのです。神とは何かと言いますと、今こうして生きていること、又、生かされていること、これがそのまま神なのです。
地球上に森羅万象があることが、そのまま神の言葉なのです。ヨハネは次のように書いています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいます方があった。その座にいます方は、碧玉(へきぎょく)や赤めのうのように見え、また、御座の回りには、緑玉のように見える虹が現れていた」(ヨハネの黙示録4・2、3)。
天に位が設けられている。天の位はいつも人を見ているのです。男が男であること、女が女であることが御座です。森羅万象が森羅万象であること、地球が地球であること、太陽が太陽であることが、御座です。
一番分かりやすいのは、大空を見れば分かります。真っ青な大空は、そのまま御座を現しており、これが人の喜びの中心になっています。御座を恐れ畏むようになると、心に平和が訪れるのです。
天の御座に座するものは、人間の格好をしていません。碧玉や赤めのうのようなものが座している。御座の回りには緑玉の虹が現れている。碧玉はブルーです。ブルーは天の色です。緑玉はグリーンです。グリーンは地の色を示しているのです。
なぜ聖書にたくさんの宝石が出てくるのか。例えば赤めのうは命の血の色です。血液の色を示しているのです。生きている血の色です。すべての宝石は命の色を現しているのです。神の位、神の信仰に関係のあるものは、全部宝石で現しています。これが宗教観念と違うところです。宗教観念は死んだものですが、生きた信仰には命があるのです。
宝石は命を現している。人間が宝石を尊ぶのは、命を尊ぶ気持ちの現れです。碧玉は何かと言いますと、純粋な素直さと信仰と希望を現しています。信仰と希望は未来を望んでいるのです。望んでいる事柄を確信するのが希望で、見ていない事実を確認することが信仰です。これが碧玉に現れているのです。赤めのうは愛を示しています。
信仰と望みと愛が、御座に座しているのです。これが人の心にいつでも映っている。生きている時間を通して、信仰と望みと愛を感じている。だから死ぬのがいやなのです。
碧玉のようなものと、赤めのうのようなものが、生きている状態で、自然に感じられるようになっている。そこで死にたくないと思うのです。
魂は直感的にそれを知っていますが、それをひん曲げているのが自我意識です。ひん曲げて、疑わせているのが人間の自我意識です。ひん曲げて、神の愛を疑わせるのです。御座に座しているお方は、赤めのうのようなお方かも知れない。しかし私を愛していないだろうと考えるのです。自分自身が神を愛していないから、そう思うのです。
自分が生きていることを通して、信仰と望みと愛を感じているのだというように心を決めるのです。そうすると、皆様の生活の営みの一つ一つが、信仰と望みと愛であることが分かります。
人間の暮らしで、信仰と望みと愛でないものは、一つもありません。衣食住でも、人間関係でも、散歩をしても、座っても、本を読んでも、テレビを見ても、すべて信仰、望みと愛がついてまわるのです。生きている喜びが、自然に感じられるようになっているのです。
生きている喜びとは、信仰と望みと愛によって生じる感覚です。これが緑色の虹になって感じられるのです。
御座に座する方が碧玉と赤めのうで、御座の回りには、緑玉のように見える虹が現れている。御座に座しているお方が、信仰と望みと愛ですから、自然に、信仰と望み、愛によって御座の回りに希望の虹が現れている。これが緑の玉です。
グリーンは地の色です。地球の色です。地球は神の御座から出る虹です。地球が滅びた後の新天新地をはるかに指差しています。新天新地への道案内みたいなもので、地球存在そのものが緑玉の虹になっているのです。
地球があることが、御座の回りになっている。人間は地球があることが、何となく頼りになるのです。なぜ頼りになるのか。緑玉の虹だからです。
地球は希望の色をたたえた虹です。虹はある部分からある部分までしか見えません。赤外線、紫外線の部分は見えないのです。赤外線と紫外線の間だけは見えるのです。赤外線、紫外線の外の世界は無限にありますが、人間の目には全く見えないのです。
女性の目や口や耳、舌は、赤外線の外が見えるようです。女性は赤外線の外を現しているのです。色気は虹の中のものではなくて、外の物です。私たちの目で見ているのは虹ですが、感じているのは虹以外のものです。これを霊と言います。
御座の回りには緑玉の虹がある。人間の現象意識で見ているのは、虹だけです。五官は現象はもちろん見ますが、現象を貫いて、非現象の霊をいつでも感じているのです。これが人間の五官の本性です。
愛とは何か。非現象です。これは超音波みたいなものです。超音波でも使い方によって、心臓に作用しますと、死んでしまうのです。音波で人を殺すことができるのです。音波とか光波とか、目に見えないもの、耳に聞こえないものでも、人間の霊魂にビリビリと感じるのです。これが色気です。目には見えないが、霊魂にははっきり感じられるのです。神の愛を感じるようになる。神の超音波を感じるようになってください。これが命の本物です。
ノアの洪水以後は、虹の部分しか見えなくなったが、洪水までのエノクやアベルは、虹の外が見えたのです。虹の中だけしか見えなくなったのは、洪水の後です。洪水以前に、エノクは三百六十五日神と共に歩んだ。エノクは超音波の世界を見ていたのです。私たちにはそれが見えない。ただ聖霊によってわずかに感じられるのです。
神の愛は霊なるものです。皆様の舌の味は霊なるものです。手で触っているのは、初めからあった命の言葉です。これは霊なるものです。着物のデザインも霊です。着こなしも霊です。私たちは肉体を通して、霊の味を味わっているのです。祖父(ぢぢ)臭いとか、照れ臭いというのも霊です。これは安物の霊です。安物の霊と上等の霊とがあるのです。目に見える現象世界以外のものを、いつも味わっているのです。
このように、人間は知らず知らずの間に、霊を経験しているのです。神の七つの霊がどういうものかが分かるのです(ヨハネの黙示録4・5)。
人間は肉体的にこの世に出てきました。魂としてこの世に生まれたことを見ていきますと、天に御座が設けられていることが分かるようになっているのです。又、地球が青いとはどういうことか。六十五億の人間が地球の存在に非常に大きい希望を持っているが、これは何を意味するのか。世界平和と言っているが、これは何を意味するかです。人間は知らず知らずのうちに、千年王国が来ることを知っている。そして、新天新地を待ち望んでいる。神の国を望んでいるのです。
地球の存在は緑玉の虹です。虹は希望を表しているのです。虹は地球が存在する大目的、神の約束というすばらしい世界を示しているのです。