第八芸術鑑賞日記

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無法松の一生(1958)[旧作映画]

2009-06-27 14:44:17 | 旧作映画
 08/7/4、神保町シアターにて鑑賞。6.5点。
 稲垣浩自身によるリメイクで、43年の「阪妻版」に対し「三船版」ということになる。基本的には前作を丁寧になぞったリメイクとなっており、ファーストショットのカメラワークからして同じだ。しかし、オリジナルでは戦中の検閲でカットされてしまったシーンがしっかり盛り込まれており、完全な形での「無法松の一生」を作ろうとした本作は、明確な意義を有している。ヴェネチアで金獅子賞を受賞。
 短いスパンでオリジナルと続けて観たのだが、比べてみて感じるのは、検閲でカットされていた「ポスター」絡みのシークエンスはやはり絶対に必要なものだろう、ということだ。このくらいの描写を挿入しておかないと、「俺は汚い」という後の松五郎の台詞にも重みが出ないだろう(実際43年版を観た時はしっくりこなかった)。とはいえ、そのような脚本の組み立てでは「理に落ちすぎる」印象もあるし、説明のないオリジナルの方により惹かれるというファンが多いのも納得はできる(「言わぬが花」を是とする日本人的な心性からすれば、映像言語として事実上「言って」しまっている本作はやや無粋なのだ)。ともあれ、このような回復されたシーンの確認のためにも、本作を見る価値は大いにある。
 もう一つの見所はもちろん、三船敏郎が演じる無法松ということになる。すでに有名俳優によって確立されてしまったキャラクターを演じ直すわけだから、これはかなりの難事であるはずだが、しかし想像以上に健闘していた。ファンは必見だろう。と評価した上で、どちらを取るかと問われればやはり素直に阪妻に軍配を上げたい。キャラクターとしては阪妻の方が「作っている」にもかかわらず、三船の方が「くどさ」を感じてしまう面があり(もっともこれは三船につきもののことだが)、阪妻=無法松の人物造形は稀有なものであったと思わされる。
 他のキャストに目を向けると、これは少々評価が難しい。ごく個人的には、阪妻版における見慣れていない俳優陣と比べ、笠智衆や田中春男まで出てくる本作には少々「演技」を観ているという印象を拭えなかったのだが、これは致し方ないところだろう(ましてオリジナルより後に観てしまったわけだし)。しかしそれにしても、未亡人に高峰秀子というのはバタくさすぎやしないか。
 オリジナルとともに押さえておきたい一本。
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無法松の一生(1943)[旧作映画]

2009-06-25 02:11:15 | 旧作映画
 08/7/2、神保町シアターにて鑑賞。6.0点。
 戦時下にあって、稲垣浩(監督)と阪東妻三郎(主演)が生み出した庶民派人間ドラマの名作。戦中の検閲でいくつかのシーンがカットされてしまったものの、(だからこそ?)伝説的な名声を得ている一本である。ちなみに二、三年前にタイトルを初めて聞いたときは痛快時代劇かと思い込んだ覚えがあるが、これは明治を舞台にした人力車夫と未亡人のドラマだ。
 阪妻によって体現された主人公の木訥な人間像はもちろん感動的なのだが、(それを支えるものとして)最も特筆すべきは、宮川一夫の作り上げたあまりにも美しい映像世界だ。まずはファーストショット、二階の室内から窓に寄り、路地を見下ろし……と思いきやクレーン(?)でそのまま地上へ降りてきてしまう、というアグレッシブなカメラに驚かされる。宮川というと個人的にはシネスコ画面での構図や俯瞰のアングルなどばかりが印象に残っていて、こんなに動くとは知らなかった。しかし、本作においてオープニングからラストまで様々に見られる撮影上の手法ないし効果は、単なる技法上の遊びとして物語から遊離してしまうことなく、むしろ本作の美しさや叙情性を高めている。極めつけはラスト前、無法松が死ぬとき(タイトルに「一生」とあるくらいだからこの表現はネタバレにはなるまいと思う)のモンタージュ(とその演出)で、とんでもなく美しい。また、全編を通じて挿入される「回る車輪」の映像によって時間経過を示すのも(ベタといえばベタだが)洒落ているし、子供時代の出来事を回想するシークエンスでの、林の中を幽鬼が漂っているような映像加工も面白い。とにかく、この時代の日本映画でこれほど映像に惹きつけられるものは珍しい。
 しかし伊丹万作による脚本はいまいち完成度が低いように感じられてしまったのだがどうだろう(検閲の影響もあるのかもしれないが)。たとえば、松五郎の「無法」っぷりを示すエピソードとして撃剣の先生に「やられる」という逸話がなぜ用意されているのかよくわからなかったり、その先生とどこかで再会するのだろうと思いきや出てこなかったり、結城親分も重要人物のように登場した割にはすぐ遠景に退いてしまうし……と、プロット全体の中で果たしている役割が不明瞭な場面が多く、もっとすっきり整理してしまってもいいんじゃないかと思われる。
 他に不満点を探せば、クライマックスの太鼓のシーンで、(おそらく映像と音がずれていたせいだと思うのだが)阪妻が本当に太鼓を叩いているようには見えず、これはあまりにも(単に技術的な問題であるだけに一層)残念。
 キャストは文句なしに素晴らしい。阪東妻三郎は評判に違わぬ熱演で、松五郎そのもの。貞淑な未亡人を演じてはまり役と感じさせる園井恵子もいい。彼女は本作から二年後の8月6日に広島で被爆し間もなく死去してしまったため、本作が唯一の代表作となったのだが、これ一本で日本映画史に名を残している。
 日本映画史にその名を欠かせない名作。
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牡牛座 レーニンの肖像(2/2公開)

2009-06-22 01:41:46 | 08年2月公開作品
 08/7/2、新文芸座にて鑑賞。6.0点。
 日本での公開順は前後したが、歴史上の権力者達を描き出す四部作の一本として、ヒトラーを描いた『モレク神』('99)と昭和天皇を描いた『太陽』('05)の間(2001年)に撮られた第二弾である。邦題の副題にあるように、今回の対象はレーニンだ。
 しかしソクーロフといったら、やはり題材より何より映像の人である。その事実自体は微塵も揺るがない。ただ、一口に「映像」と言ってもその要素は無数にある。これまで俺は、ソクーロフは「第一に光、第二に構図」だと思っていたのだが、本作を観てこの点については少し認識を改めた。「第一に色、第二に光」である(しかしもちろん色と光とは明瞭に区別できるものではない)。
 これでソクーロフを観るのは四本目だが、『太陽』の茶、『日陽はしづかに発酵し…』('88)の黄、『モレク神』の青……に引き続き、本作において惜しげもなくふりまかれる緑色を目の当たりにするに及び、ソクーロフ作品では徹底的に色が主役だ、とこう断ぜざるをえなくなった。彼の個々の作品を思い出そうとすると、何よりも浮かんでくるのは、各々の作品において支配的な「色」なのである。というわけで今回も、隠棲中のレーニンについての(脚本などあって無きが如きような)話なんて全然追わずに、ひたすら緑の洪水の中に漂いつつ過ごした一時間半であった。
 また逆に、それだけ緑に支配されているからこそ、時おりそれを外してみせるアクセントも効いてくる。たとえば、本作の場面は巻頭からかなり長くの時間を屋内で展開し、30分ほどのところでようやく屋外へ移るのだが、そこで建物の外観が初めて映し出されたときの真っ白い柱の存在感に、異様なほどハッとさせられる。こうした演出の極みはラストカットの蒼空で、こんなに嘘くさいのにこんなに感動的でいいんだろうか、と唖然としてしまった。
 また、「色」のみならず(それと不可分な)「光」の演出も健在で、相変わらず素晴らしい。この人による瞬間的な光の美しさの表現はやはり一級品で、特に滲み方が最高に綺麗だ。
 ……しかし、このように述べてきて最後にこんなことを言うのはどうかとも思うが、この映像の美しさを見るためだけに本作を観る価値があるのかと問われたらはなはだ怪しい。もちろん、この四部作で試みられているような人物像の描写に意味がないとは言わない。しかし、その表現に90分強という時間が本当に必要なのか、と考えてしまうと、(誰にも有限な時間の中での)あまりに贅沢な買い物ではないかと思えてしまってならないのだ。それはもちろん完全に好みの問題でしかないが、しかしソクーロフの他の作品と比べて特に変わった面があるわけでもないため、彼のフィルモグラフィーを欠かさず追いたいという熱心なファンでない限り、やはり必見とは言い難いように思う。
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イースタン・プロミス(6/14公開)

2009-06-14 02:45:17 | 08年6月公開作品
 08/7/1、シネ・リーブル池袋にて鑑賞。8.0点。
 ノワール風犯罪ドラマの力作……どころではない。傑作である。必見なのである。デヴィッド・クローネンバーグは、「変わった」と言われる前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』('05)からしか観ていないのだが、彼のフィルモグラフィーにおける位置づけだとかはこの際さておいても、本作は映画史上最高の犯罪映画の一つとして記憶されるべき一本になっている。
 しかしこれが、ややもすれば「意外と普通」とか「印象が地味」とか言われてしまいかねない程にオーソドックスな作りになっており、実際そんなことを言われているのを見ると歯がゆくてならないのだが、本作の成功がその堅実さによるところ大であるのもまた確かだと思う。ロシアン・マフィアの世界を描いて「ヤクザ映画」と呼ばれたりもしているが、確かにジャンル映画的でエンターテイメントなプロットである。さらに、前作にはまだ見られた細部での遊び(「チアガール」など監督の趣味嗜好を詰め込んだ箇所)がほとんど見られず、あらゆる部分が全体に奉仕する完成度の高いシナリオだ。
 このようなシナリオによって安定性を担保した上で、個々のシーンにおいてはクローネンバーグ渾身の演出が炸裂する。いきなり観客の眼を見開かせるオープニング。レストラン内部の深みのある色彩(赤色が鮮やか)。死体処理の手際。墓での出来事。そして最大の見せ場となるサウナでの全裸格闘シーン。[ナイフを掴んで相手の眼球に突き刺す]というアクションをカットを割らずに見せるあたりは凄まじいとしか言いようがない。
 たとえば[理髪店での殺人]というシチュエーションからは自然に[『スウィーニートッド フリート街の悪魔の理髪師』('07)](こちらはネタバレではない)が思い出されたりするが、そちらの方が見せ方の「切れ味」という点では上かもしれない。本作の方が一般に個々のショットが長く、だから編集のテンポがもたついて見える可能性は否定できない。しかし件のシーンにおいて、[ぐりぐりと喉をえぐる]ショットをしっかり入れているように、もちろん狙い自体が全く違うところに置かれている(死体処理の丁寧な描き方などについても同様である)。あくまでも美学優先でありながら、しかし生々しいリアリズムからも離れない、というこのクローネンバーグの演出は、尋常でない強度を有している。個人的には、本作に見られる暴力シーンは、もうこれ以上を望むべくもない程に完璧と思わせられた。
 それをフィルムの上に顕現させたキャストたちも皆素晴らしい。サウナでの全裸アクションはもちろん、単なる立ち姿でもダンディズムを表現してしまうヴィゴ・モーテンセン。危うさを感じさせて秀逸なナオミ・ワッツ(歳取ったなぁ)。情けないほどの弱さが人物造形として上手すぎるヴァンサン・カッセル。とにかくこの三人が圧倒的に素晴らしいのだが、イエジー・スコリモフスキーなども脇で存在感を見せて見事。逆に、彼らが良すぎたために、「王様」たるアーミン・ミューラー=スタールがやや弱くなってしまったのは思わぬ誤算か、それでいいと思ったのか。
 ラストで拍子抜けしたという声も多そうだが、上述したように、ストーリーに関しては割り切ったかのようにベタにしたことが、本作を成功に導いたのだと思う。[ヴィゴが警察の潜入捜査官だった]というのは、[マフィアの人間がなぜかナオミの叔父や赤ん坊を助けた]という展開を説明する上で、最も後腐れのないシンプルなものだろう。洗練された本作の作劇は、複雑なプロットを追う必要もなく、ただ凝視するべき個々の場面に集中させてくれる。R-18でこれだけバイオレンスなのに、最高にスマートな作品である。
 傑作。
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アカルイミライ(2002)[旧作映画]

2009-06-12 03:14:08 | 旧作映画
 08/6/29、ポレポレ東中野にて鑑賞。6.5点。
 作品とは関係ないのだが、本作は「松山ケンイチ」特集の一環として上映されていた機会に観た。しかし本作での松山の役柄は脇役もいいところで、これがラインナップに入っているというのは不思議だ。一応「映画デビュー作」という触れ込みだからなのだろうが……
 黒沢清の作品の中で、一般的な感覚で見ても「面白い」部類に入ることは間違いないと思う。最近の『LOFT』('05)や『叫』('06)のような、ジャンル映画のフォーマットを用いつつ独自の色を出してゆくやり口と比べると、冒頭いきなりの「唐揚げ」から始まって、かなり「突飛な」光景が次々に映し出されるので、誰でも飽きることなくスクリーンを見つめていられるだろう。
 視覚的モチーフとしての「クラゲ」も繰り返し画面に登場し、もう少し抑えた方がいいのではと思うほどサービス精神豊かだ。このクラゲはいかにもメタファーメタファーしているけれども、作品を一種のファンタジー化する役割も果たしているので、驚くほど嫌みは薄い。
 ストーリーに目を向けると、他者とのコミュニケーションが不安定で、虚無的で、ときに衝動を爆発させる……という主人公の人物像は、(21世紀の作品としては)もはや類型的との誹りを免れない気がする。しかし、後半での物語の紡ぎ方からは、黒沢清という映像作家が物語を無下には扱っていないのだということが感じられ、個人的には好印象だった(とはいえ、今後物語作家としても成功しうるのかと言えば、それは怪しいとも思う)。
 キャストではやはり、オダギリジョーと浅野忠信(というミニシアター系日本映画を象徴する二人)の共演が見所か。彼ら二人と笹野高史との三人で作り上げる序盤の空気は絶妙にうまい。後半の藤竜也は及第点くらい。
 ……と、総じて悪くない作品なのだが、ただどこか中途半端な印象を受けたのも事実である。他の黒沢作品と比べたときに、思い出されるイメージがやや弱い。それは、映像の強度をクラゲという被写体に頼っているからかもしれないし、構築された物語を追うことに意識が傾いてしまうからかもしれない。いずれにせよ、これが黒沢清の真骨頂だと言えるものにはなっていないと思われる。もちろん、そうは言っても彼のフィルモグラフィーの中で重要な位置を占めることは確かだ。
 ところで本作、フィルムでなくDVで撮られているのだが、生気のない暗い色味は作風に合致しているからいいとして、時おり解像度が低すぎて観るに堪えないショットが出てくるのは受け入れがたかった。あれは敢えてやっているのだろうか。 
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煙突の見える場所(1953)[旧作映画]

2009-06-10 04:42:23 | 旧作映画
 08/6/27、神保町シアターにて鑑賞。6.5点。
 椎名麟三の原作(未読)を小国英雄脚本、五所平之助監督で撮ったいかにも古き良き人情劇といった趣の良作……と言ってしまえばそれに尽きるのだが、日本映画黄金期にあってキネ旬4位という同時代評からも伺えるように、時代を象徴する作品でもあり、歴史的な興味を持って見ればそれなり以上に楽しめる。
 タイトルにもなっている「煙突」とは、かつて東京の千住にあった通称「おばけ煙突」のことで、見る角度によって煙突の本数が一本から四本まで変化したという。本作では、実際に煙突の本数が次々に変わって見える様を映像として提示してくれる(電車で走りながら眺めていると……という場面設定)。この話は知らなかったので単純に面白かった。しかし原作つきだから本作に文句をつけても仕方ないが、このおばけ煙突の(今風に言えば)いかにも「メタファーです」と言わんばかりの使い方は(作劇としては)あざとすぎるようにも思う。
 ストーリーは、ある夫婦(上原謙と田中絹代)の危機と再生の物語が中心になっており、そのきっかけとなる事件として、捨て子の赤ん坊をめぐる騒動が(悲喜こもごもに)描かれる。それと並行して、この夫婦の家に間借りしている二人の男女(芥川比呂志と高峰秀子)の恋物語が展開する。つまり、結婚後数年を経た夫婦と、これから恋が始まろうかという男女と、二組四人を描いた群像劇になっているわけだ。もちろん、原則として主役扱いになるのは上原と田中の夫婦であるわけだが、中盤では芥川比呂志が単身行動を起こすし、すでに40過ぎの田中絹代に対して高峰秀子(まだ20代に留まっている)がヒロインらしさを誇っているので、四人を対等に扱った脚本と見なすことも不可能ではない。この群像劇的な側面は予想外の収穫だった。
 また、先に「時代を象徴する作品」と述べたが、本作の全編を覆っている気分は、日本の現代史と切り離せないだろう。コメディタッチの作品であると同時に、戦争や貧しさがくっきりと影を落としており、しかしまたそこからの飛翔を求めている……というこの作風は、戦後の貧しさからどうにか抜け出してゆこうとする時代の気分を象徴したものと(少なくとも後世に生きる者の目には)映る。
 日本映画史(というよりも日本現代史)に興味があれば押さえておきたい一本。
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盲獣(1969)[旧作映画]

2009-06-08 11:16:16 | 旧作映画
 08/6/23、ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞。6.0点。
 増村保造の代表作として扱われることも多く、また江戸川乱歩の原作というのも格好の題材であるように思えるのだが、これはやや期待はずれだった。
 「触覚の芸術」を目指す盲目の男が、母親の助けを借りて女を誘拐し……という(いかにも乱歩らしい)怪奇的で変態的な設定だが、そのプロットに映像の力が追いついていない。ナレーションで説明される理屈に、映像によってそれ以上の説得力を与えることができていないのだ。そもそも、「触覚の芸術」を「視覚の芸術」たる映画で表現するには、本作での画面作りはあまりにもおとなしすぎるのではないか。たとえばR-18でもいいから、身体各部のアップばかりからなる息苦しくなるような撮影を駆使するなどして、映像としての強度で勝負しなければ、プロットに負けてしまうのは避けられないはずだ。
 ところが本作は、人物のフルショットを主体にした演劇的な作りで勝負してしまっている。役者を三人しか用いない密室劇として作り、しかもセットに力が入っているので、アングラ演劇でも見ているような印象である。このセットがまた評価の難しいところで、それ自体としては見事な出来栄えなのだが(本作の評価は美術班の頑張りでプラス0.5点している)、作中世界の論理からすれば間違っているだろうと言わざるをえない。たとえば「巨大な女体」がでんと置かれているわけだが、それは視覚で楽しむ人間にとってこそ面白いものであって、触覚で楽しむ人間にはあんな大きいオブジェの価値はないはず。あとこれは後で気づいたのだが、壁の高い位置にまでオブジェを作っているのとかも、本当に「触れて楽しむ」人の発想ならありえないはずだろう。こういったディテールの甘さが、本作の価値を大いに損なっているように思う。
 緑魔子、船越英二、千石規子という役者三人はいずれも名演。しかし(前段落で述べたこととも関連するが)緑魔子のようなスレンダーな身体の女というのは、この主人公みたいな人間にとって「理想」なのだろうか。はなはだ怪しい気がする。
 あと個人的にはモノクロで撮るべきだったのではないかと思う。この題材でリアリズムを貫こうとしたらどこかで無理が生じるのは自明なのだから、(そこでアングラ演劇に向かうよりは)様式美に活路を見出してほしかった
 しかしまぁ増村の代表作として押さえておかねばならないだろう。
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ぐるりのこと。(6/7公開)

2009-06-07 00:41:38 | 08年6月公開作品
 08/6/22、シネマライズにて鑑賞。7.0点。
 『ハッシュ!』('01)から(公開日で数えて)実に六年ぶりとなる橋口亮輔の新作である。相変わらず非常に丁寧な仕事で、ずっとフィルモグラフィーを追い続けていきたいと思わされる。
 特殊な設定を用いていた前作に対し、ある夫婦の十年間の歩みを描いた本作は、ごく正統派のドラマとして構成されている……ように見えるが、実はこれもまたかなり特殊な作劇をしていると思う。注目すべきは、一見すると社会派的な要素に思える法廷シーンだ。本作では、主人公(夫)の職業が法廷画家として設定されており、90年代に現実で起きた事件をモデルとした法廷シーンが繰り返し挿入される。ここでポイントとなるのは、そこで描かれる「宮崎勤」も「地下鉄サリン」も「池田小」も、みな各々の事件の特異性が際立たされることなく描かれている点だろう。つまり、社会の中で起こる陰惨な悲劇たちを執拗に描くのは、その個々のドラマのためではないのだ。
 個々の事件の特殊性が捨象され、似たような法廷シーンとしてただ反復される。その結果示されるのは、この世界には着実に時間が流れているということであり、そして主人公の夫婦もまた多くの時間を越えてきたのだということである。さらにまたそれは、「夫婦」という二人で完結した関係と、その外にある「社会」ないし「世界」とが地続きであることをも示している。
 そのような世界をいかに見つめればいいのか、いかに自分を定位したらいいのか、それが根本の問いであり、それゆえに主人公の二人はともに画家なのである。だから、はじめは「見たくないっすよ!」と感情を高ぶらせていたリリー・フランキーが、後半に向かうにしたがって穏やかになっていくのも必然である。下手なドラマであれば、この台詞は、後半で正義を振りかざすヒーローとなるべき主人公のための伏線となるだろうが、本作はその真逆をゆく。怒りを捨てて穏やかになってゆく。世界の中で起きた事実を(独断的にではなく)ひたすら受け止めてゆく。同じように、序盤から言い合いの絶えなかった二人は、最後、ただ横になって手を繋ぎ、天井を見つめる。
 主演の二人はリリー・フランキーと木村多江で、共に申し分ない仕事。特に木村多江は、自分の個性に頼ったりするタイプの役者でもないのに、一人の人物像を体現しきっていてお見事。そんな二人から長回しによって演技を引き出す橋口の演出の上手さは依然超一級で、序盤のセックスについてのトークから全開である。クライマックスでの[鼻水]の演出などは巧すぎてもう逆に演出としてはあざとく嫌みなくらいだ。
 期待に違わぬ秀作。
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黒猫・白猫(1998)[旧作映画]

2009-06-06 23:34:10 | 旧作映画
 08/6/18、早稲田松竹にて鑑賞。8.5点。
 最大級の賛辞を送りたいと思う。
 エミール・クストリッツァが主催する映画史上空前の祝祭。『ライフ・イズ・ミラクル』('04)を観たときも「祝祭」という表現を使ったが、こちらは文字通りの祝祭である。もう食べられませんというところまで観客を満腹にさせるハッピーエンドの物語だ。
 『ライフ〜』のときには苦し紛れに「ラテンアメリカ文学のような……」などと書いたが、この人が撮る映画に対して、言葉で何かを述べることなど意味があるのだろうか、と思ってしまう。どんな言葉も、咲き誇る満開のヒマワリ畑に呑み込まれてしまうだろう。批評に対して最も苛烈に敗北宣言を迫る者、それがクストリッツァに他ならない。
 これからしばらく映画が観られない、という状況に置かれたら、最後に観る一本として選択したい。大傑作。
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猫と庄造と二人のをんな(1956)[旧作映画]

2009-05-31 01:24:06 | 旧作映画
 08/6/16、新文芸座にて鑑賞。6.0点。
 喜劇において最も重要な要素の一つはテンポだと思うのだが、そういう観点からすると本作の136分という尺はいかにも長すぎる。森繁久彌、山田五十鈴、香川京子、あと浪花千栄子も含めて、四人の芸達者な役者たちの力で何とか成り立っていると言えるだろう。実際、彼らの奔放な舌戦を見ているだけで二時間強を楽しめてしまうのだ。しかし逆に言えば、彼らの力をもってしても、全編を覆うゆったりしたペースの遅さはひしひしと感じられてしまい、どうしてもだれてくる。
 しかしある意味では、このゆったりと弛緩した空気を表現することこそが本作の主眼だとも言えるかもしれず、そうとすればやはり味わい深い秀作だと評価せねばなるまい。猫ばかり可愛がっている怠け者の男と、子供ができないからと彼の母親に追い出されてしまった嫁、そして奔放な後妻が織りなすこの喜劇は、スラップスティックでも小ネタの連発でも落語でもなく、そこに流れる空気を味わうためのものである。その空気を醸成するのが猫と戯れる庄造(=森繁)であり、そんな空気の中にあってこそ、女たち(=山田、香川、浪花)が劇中いく度か見せる鬼気迫る演技が映えてくるとも言える(終盤に進むにつれて意外な程に盛り上がる展開は予想外の収穫だった)。
 タイトルに入っている「猫」だが、この使い方では便利な小道具にしかなっていないので、もう少し効果的に使っても良かったかもしれない。ちなみに原作は谷崎潤一郎らしいのだが、一体どんな小説になっているのだろう。少々気になるところだ。
 キャスト。森繁は彼のポテンシャルからすればまぁ及第点程度。香川は最も難しいアバズレ女の役柄を奮闘してみせる。何が難しいかといえば役を作りこむ加減で、ややオーバーアクト気味にしなければコメデェエンヌとして物足りないし、といってやりすぎては浮いてしまう。このタイプの喜劇でこのタイプの役を完璧なバランス感覚で演じられた女優というのは古今東西を見渡してもいるのか怪しいくらいだから、まぁ十分以上の出来だと言っていいだろう。山田、浪花はまるで素であるかのような自然体で女の情念を演じきってお見事。流石としか言いようがない。
 個人的にはやはり尺の長さを許容しがたい気もするが、キャストや監督(豊田四郎)のファンなら楽しめるだろう。
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雁の寺(1962)[旧作映画]

2009-05-30 02:02:48 | 旧作映画
 08/6/16、東京芸術センターにて鑑賞。6.5点。
 早すぎる死の前年、43歳の川島雄三が若尾文子と組んで撮った代表作である。もともと多作な監督とはいえ、一年の間に『青べか物語』『しとやかな獣』などと共にこの代表作を放った彼に、この「先」があったなら……と想像してしまってもよもや責められまい。特にこの人の場合、『しとやかな獣』に典型的なように、どうも理念(こんな手法で撮ってみたい、という意図)が先行している感を拭えず、より歳を重ねてからの方が傑作を撮れたのではないかと思ってしまうのである。というわけで本作、名作には違いないのだが、図式を脱しきれなかった印象を受けた。
 原作は水上勉の直木賞受賞作。舞台は寺。厳格さを装った外面とは裏腹に肉欲に溺れきった住職、愛人のように暮らす女、しつけられながら働く青年僧、そして起こる事件……無駄なものを削ぎ落とした97分であり、文芸的な格調といい、スリリングな緊張感を保ち続ける展開といい、実に優れた出来栄えの名作である。しかし、描くべきものを正しく描いているはずの本作から、伝わってくるべき情念が伝わってこなかったのは俺だけだろうか。一番簡単に言ってしまえば、要するに若尾文子が生きていないのだ。ここのところ増村の過剰な演出で描かれる若尾ばかり観ていたせいか、川島の描く若尾は随分と観念的な存在に見えてしまう。そんなことはない、本作の若尾が持っている官能性は凄い……という感想も多いようだが、個人的には頷けなかった。
 観念的だという不満と表裏一体のものかもしれないが、構図に凝った画面作りは文句なしに素晴らしい(撮影は村井博)。才気走っている、とはこういうことを言うのだと主張でもするかのように、冴えたショットが連発される。特に、終盤で穴の中から見上げたショットなど、相当ハッとさせられる。
 さらに川島雄三の「らしさ」を見せるのは、ラストの大胆な仕掛けだろう。このメタフィクショナルなシークエンスによって、作品全体が客観化され、しかしにもかかわらず(何かが解決されたといった印象には転じず)異様さがかえって強調される。しかし賛否は割れているようで、確かに本作を文芸ドラマとして堪能していた観客にとっては余計なものと映るだろう。だが個人的には、もともと(上述したように)観念性を強く感じていたので、川島らしさを打ち出したこのラストは悪くないと思う。
 川島雄三のフィルモグラフィーには欠かせない一本であり、また彼のファンでなくとも一見の価値ある秀作。ただ、この溢れんばかりの才気に、強い情念をも込められる演出力が加わっていたら……と夢想してしまうのだ。
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ライフ・イズ・ミラクル(2004)[旧作映画]

2009-05-29 02:16:49 | 旧作映画
 08/6/15、早稲田松竹にて鑑賞。8.0点。
 個人的にはこれがエミール・クストリッツァ初体験だったが、もう完全に打ちのめされた。ストーリーがどうとかいう気には全くならない。154分間の祝祭の中に放り込まれ、ただただ熱狂の渦に翻弄される他ない。建設中の線路を人力トロッコで移動する村人、クマに襲われた一軒屋の男、失恋に絶望して死にたがるロバ、猥雑すぎる演奏隊、狙撃手、壮絶な乱闘騒ぎに発展するサッカー、そして小さな村にも訪れるボスニア内戦の波紋……個々のショットにとてつもない熱量がこめられていて、ひたすら圧倒される。
 この感覚は何なのだろう、とこれまでに触れたものを可能なだけ思い返してみて、ラテンアメリカのマジックリアリズム小説(といってもガルシア・マルケスくらいしか知らないが)を読んでいるときの感じが一番近いかもしれないと思い至った。現実と非現実とを混在させる手法……と言ってしまえば簡単だが、遠く異国で読む人間にとっては、ラテンの「現実」も非現実めいて感じられる。あらゆるシーンがこの日常を乗り越えていってしまい、現実にありえるシーンまでもが非現実めいた色彩を帯びてくる。そんな感覚である。
 「ボスニア内戦の中、躁鬱の妻は男と逃げだし、一人息子は軍に招集され、預かった敵の捕虜たる若い女と恋に落ちる中年男」の物語は、プロットだけ聞けばいかにもフィクションらしい劇的な展開を見せるが、しかし実際にはこの映画は実話にインスパイアされて作られたものだし、観客としてもストーリーにあれこれ思いめぐらしている暇はない。ひたすら密度の濃いショットの数々に呑み込まれているうちに感覚は麻痺し、もはや何が劇的で何が現実的かなどわからなくなってくる。それでいて、ラスト近く、橋の上での別れと再会の場面など、瞬間ごとの感情の機微は滑稽なくらい見事に描かれていて秀逸。脱帽である。
 音楽(ノースモーキング・オーケストラによる)がまたエキゾティックな趣を最大限まで掻き立てて素晴らしい。いつもなら難癖をつけたくなる154分の長尺も、"Life is a miracle"というタイトルを表現しきってくれた熱量の前には納得するしかない。傑作。
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ランボー 最後の戦場(5/24公開)

2009-05-28 02:32:29 | 08年5月公開作品
 08/6/14、渋東シネタワーにて鑑賞。6.0点。
 個人的には(ベトナム帰還兵の苦しみを描いた)一作目しか観ていなくて、その後批判されまくった二、三作目は未見なのだが、主人公の名前をそのままタイトルとした原題"John Rambo"からもわかるように、原点回帰が図られた新作(にして最終作?)。昨年は『ロッキー』シリーズを締めくくったシルヴェスター・スタローンだが、ここにきて自身のキャリアの総決算をしようとしているのだろうか。初めて自身で監督も務めた二十年ぶりの続編である。
 軍事政権によって民族虐殺が続くミャンマーを舞台に、90分の尺で一気に駆け抜ける戦場アクション。炸裂するクライマックスがカタルシスとならず、むしろ痛々しさを伴って迫ってくるという作劇は、確かに一作目と同じ精神を感じさせるもので秀逸だ。しかも本作は、主人公が戦うことになるミャンマーの政府軍を徹底した極悪非道の集団として(絶対悪として)描いており、つまり「相手にも言い分がある」とか「相手もまた同じ人間なのだ」とか考える余地を残していないのだが、にもかかわらずこの作劇を完全に成功させてしまうのである。これはまさにランボーならではだろう。
 今回大きな話題を呼んだのは、人体がバラバラに飛び散る凄惨な暴力描写である。実際相当なものなのだが、しかし正直に言えば「ああこんなもんか」と思ってしまった自分もいて、感覚が麻痺しているのかもしれないと不安になった。しかしやはり自分の感覚を信じて言うなら、クライマックスの大殺戮シーンは現行の倍の時間をかけてほしかったと思う。疲れてウンザリしてゲンナリしてもう観たくないと思わせるくらいまでやるべきであって、普通のアクション映画におけるドラマとアクションの尺のバランスと同じでは甘いと思うのだ。そうなっていたらプラス1点はしていたはず。
 もう一つ無視できないのが、ヒロインの扱いのゆるさだ。せっかく暴力描写で妥協していないということをウリにしているのに、ヒロインがこれだけ好待遇されてしまっては台無しだろう。はっきり言えば、[彼女がレイプされまくってボロボロになり、最後は彼女かリーダーのいずれかが片手ないし片足を失う]くらいの結末でなければ「甘い」と言われても仕方ないのではないか(念のため断っておくが、これは、そういう映画が観たい、という俺の願望ではない。そうでなければならないのではないか、という指摘だ)。要するに、中途半端にエンターテイメントの枠にとどまっているのが歯がゆいのである。これをクリアして完全に娯楽映画を飛び越えてしまっていたら、さらにもう1点追加したはず。
 しかしともあれ、自らメガホンを取って二十年ぶりに「ランボー」を復活させる、という企画に見合うだけのスタローンの本気は見せてもらったし、それには敬意を表したいと思う。ただ、二十年のブランクからか、戦い方が飛び道具(銃器)偏重になってしまったのは残念だった。
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ザ・マジックアワー(6/7公開)

2009-05-27 13:24:06 | 08年6月公開作品
 08/6/14、渋東シネタワーにて鑑賞。7.0点。
 自身最大のヒット作となった『The 有頂天ホテル』('05)以来となる三谷幸喜の新作。一定以上の水準は保証されているようなもので(というのは個人的に割と好感を持って見ているからだが)、実際過度の期待をしなければ楽しめる。前作では『グランド・ホテル』('32)にオマージュを捧げ、多数の役者を自在に動かしながら群像劇としてコメディをまとめあげる手腕を見せてくれたが、今回はワンアイデアを膨らませて作ったビリー・ワイルダー直系のシチュエーションコメディである。そういう意味では前作よりもコストの安いプロット(というと語弊があるが)で、完成度においては一歩譲るかもしれない。
 しかし今回、映画が「作りもの」であることを徹底的に強調し、夢の装置としての映画を極めた作風は、いつにない抜群の心地よさだ。オールセット撮影で敢えて箱庭的世界を作り上げることで、作品全体を感じのいい雰囲気で包み、安っぽい画面や演出を許容させてしまう。箱庭を作るという作風自体に関しては、それこそティム・バートンとかウェス・アンダーソンとかの大物も含め、現代にも同じタイプの作家は多いが、21世紀の今日にあって、CGなどのVFX技術ではなく、セットを使った手作りのチープ感を売りにした本作には、やはり大きな魅力がある。
 そして、そんな箱庭世界の中で「フィクションの力」を信じた物語が展開されるのだから、これを嫌いになれるはずがない。もっとも、あえて「映画」ということにこだわるのであれば、三谷幸喜が本作で語っているのはあくまでも「映画愛」ではなく「物語愛」であって、にもかかわらず映画愛を謳っているかのように見せていることは、やや違和感として残るかもしれない。しかし、ストーリー上で明確に語られていることは「物語愛」であっても、後半の試写室の場面が示しているのは、「フィルムに焼きつけられ再生される」という「映画」のあり方への愛に他ならないと思う。
 もちろん難点を探そうと思えばいくらでもあって、序盤の入りがもたつくこととか、佐藤浩市が事実を知ってから急速に作品全体のテンションが下がることとか、いくらでも指摘できる。ただそれはもう、これを満員の劇場で観て素直に爆笑していた人たちと比べて圧倒的に負け組だ。そもそも、箱庭的世界で展開される喜劇を観る以上は、楽しもうと思って観なければ絶対に楽しめない。どこまでも楽しんだもの勝ちの世界である。とはいえ一点だけどうしても見過ごせないのは、このシンプルなプロットで136分は長すぎるということで、後半の間延びする印象はあまりにももったいない。
 キャストは皆素晴らしいが(特にベテランの中年男たちは安定感があってお見事。若手の妻夫木、深津、綾瀬も悪くないが、まだ安心して観ていられるところには達していない)、何といっても佐藤浩市の天才に尽きる。売れない俳優として登場し、騙されて本物のギャングの前でギャング役になりきる……という彼の置かれたシチュエーションが本作の軸になるわけだが、西田敏行とのかけ合いをはじめとして、彼の名演なくしてこの映画は成立しなかっただろう。最高の仕事。
 三谷ファンなら当然押さえておきたい一本だが、彼の映画監督としての仕事にこれまで不満だった人も今回はもしかしたらいけるかもしれない。ただ先にも述べたように、コメディとして完璧な作品では決してないので、期待しすぎは禁物だ。
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清作の妻(1965)[旧作映画]

2009-05-26 06:40:09 | 旧作映画
 08/6/6、神保町シアターにて鑑賞。7.5点。
 増村保造(監督)と若尾文子(主演)双方にとっての最高傑作かもしれない。明治末、金持ちの妾だった女が故郷の村に戻り、ほとんどの村人たちからは疎遠にされながらも、それまで模範青年として生きていた男と愛を育むようになるのだが、時代は日露戦争を目前に控えており……
 戦争の時代を背景にした強烈なドラマだが、しかし「戦争」そのものは主題ではない。これは「愛」の映画である。しかし一口に愛とは言うが、たとえば一方に博愛という言葉があり、他方には嫉妬や独占欲と切り離せないものとして理解される愛がある。同じ言葉で表現されるこれらは真逆のものであるとすら言える。ことほどさように愛の意味は不明瞭であるわけだが、本作におけるそれは徹底したエゴイズムとして描かれる。そして、そこに否定的な意味合いは一切ない。見出されるのは、エゴイズムを突き動かす情念の激しさであり、その激しさへの賛歌である。その意味で、本作は「愛」の映画ではなく「情念」の映画であるとも言える。だが、本作においてその両者は究極的には合致してしまう。ここでのエゴイズムとしての愛は、他者へと向かう盲目的な情念によって初めて成り立つのであって、もはや愛とエゴイズムとの二分法は捨て去られているのである。この二分法が崩壊する地点を示すことは、おそらくあらゆる愛の物語にとっての究極的な命題であり、それを果たしえた稀有な作品こそが本作に他ならない。
 増村のひたすら過剰に攻める演出は、ときとして失笑を誘うような「やりすぎ」に陥る危険を秘めている。だが、シンプルなプロットとシリアスな題材を持った本作においては、彼の良さが最大限に発揮されていると言っていいだろう。狂気すれすれの観念的なプロットを持つ本作に説得力を与ええたという奇跡は、彼の力強い演出なくして考えられない(田村高廣を若尾にとられた村の娘が「悔しい〜」と泣き叫ぶシーンは流石に苦笑したが)。キャストのクレジットが出終わるまでに10分超をかけるオープニングや、弦楽の低い響きを強調した音楽など、浮ついた印象を一切与えない格調高さ(増村にはあまり似合わない形容だが)も素晴らしい。
 しかし、その増村の力を霞ませるほどの圧倒的勝因は、若尾文子という女優の存在である。冒頭からの気だるげな雰囲気といい、孤独を選ぶ強さ(村に何とか溶け込もうとする母と対照的)といい、硬い表情を崩さない前半に惚れ惚れする。しかし次には、弱さを見せる。脆さを見せる。この中盤以降の危なっかしく不安定な心情もまた見事に演じきる。そして狂気と紙一重の情念を見せる圧巻の終盤。あらゆる場面において完璧だ。また、日露戦争前という(歴史劇的な色合いを帯びた)時代設定により、衣装が着物であることも重要だろう。外面からはわからない強烈な情念を心の底に持った女は、やはり和服に包まれていなければならないのだ。
 増村、若尾コンビの代表作であり、日本映画史に輝く傑作。必見。
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