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勉強って何?その147

2017-03-06 23:52:18 | 日記

学校の片すみに鎮座している二宮金次郎さんが、仮に歩けるようになって、さて、その辺の道を歩いたとすると、彼はどうなるでしょうか?

おそらく、誰かの通報による救急車のお世話になることまちがいありません。その結果、最悪においては「死亡」、軽くて「骨折事故」という痛い目に合う

ことになるでしょう。その道がいわゆる歩行者専用ならいざ知らず、自転車もOKとなれば、「バカ野郎!気負付けろ!!」と自転車に乗っているおっさん

の罵声をあびることになるにちがいありません。それじゃ、山野の散策でリフレッシュなんてしゃれ込んで、空気のきれいな山野をめぐる

どこぞのハイキングに行く、その山道で、はたしてどうなるか?その際の事故の責任はもちろん「自己責任」となりますのであしからず。

 歩きながら読むなんてことは我々人間にはできない芸当なんですよ。100メートルを全力で走っていて、あなた!算数のたし算できます?

出来ませんよ、そんなウルトラCは金輪際不可能なんです。人間様ってそういう生き物なんですから・・・・・。

 よく学びの「学ぶ=じっとして頭を働かせる動作」であり、よく遊ぶの「遊ぶ=あちこち動き回る動作」をいいます。真似るにはどうするんでしたけ?

真似る対象をよく観察するためにじっとせざるをえません。それは、頭を働かせるためであります。その真反対が「遊」です。現在でいう留学を

、その昔は、「遊学」とよびました。長崎に遊学するとは、外国に唯一開かれていた長崎に、今でいう留学することを意味しています。明治になると

西洋に遊学するということがおこなわれています。この「遊」とは、今日いう「あそび」という意味ではありません。「遊」という文字の語源とは、

「あちこちうごきまわる」様子を示すことばで、それが、なぜ、いわゆる「あそび」となったかといいますと、おそらくこういう情景からではないかと

察するのです。幼い子供たちを見てください。保育園や幼稚園をのぞきますと、子どもたちとにかく片時もじっとしていません。じっとするのはご飯を

食べているか、さもなければ具合が悪い時であります。その落ち着きのなさは人間本来の性質を示しているのです。

そのようなことですから、よく学びよく遊ぶという言葉の意味とは、「あちこちうごいて知識や経験を身に付けよう」という意味になるわけです。

ところが、今、学校で、この言葉がどのようにつかわれているかというと、

よくまなびよくあそぶ

この格言の正しい意味は次のうちどれでしょうか?

①学ぶことがいちばんに大切で、遊ぶことは二番目に大切だ。

②勉強も遊びも、両方とも大切である。

③学んだことを、遊びの中で実践すると理解が一層深まる。

  答え     ②

解説

息抜きもなしに勉強ばかりしていても、効率が悪くなり、かえって身に付かなかったりする。

遊びより勉強を重視して、よい成績ばかりを目標に子育てすると、ひ弱になったり、変わった子

担ったり、自分中心になることが多い。遊びは子供にとって大事な勉強であり、仕事である。

たくさんの遊びと共に、勉強もさせるとよい。

 

「失礼します。〇年の〇〇ですが、ボール貸してください」。子供の声が職員室の入り口から聞こえてくる。(中略)

私たちは「よく学び、よく遊べ」といいます。

学ぶ時は「学ぶ」で一生懸命学び、また、遊ぶ時は「遊ぶ」で一生懸命遊びなさいということであり、「学ぶ」と「遊び」の

けじめをしっかりつけるということでもあると思います。これはとても大事なことです。

しかし、私たちは時として「よく学び」のみに力を入れすぎてしまうことはないでしょうか。また、学校=勉強するところ、

学生=勉強する人という狭い観念にとらわれすぎているのではないでしょうか。学校は「学=学ぶ」「校=教育の場」

から成り立つ言葉ですから、この意味において確かに学校は勉強する所と言えます。(後略)

  「学校は勉強するところ」ではなくて「学・校=学習の場=学ぶ場=机に向かって椅子に腰かけてじっとする所」になりますので、

「遊ぶ=体を使ってあちらこちらうごきまわる=なんでもみてやろう・やってみよう」なんてことは禁止にするしかありません。

「『学ぶ』と『遊ぶ』のけじめ」ってなんですか!?そんなものはありません。こどもたちをみてください。ときに、じっとしていつまでも

見ている光景を、例えば、電車や昆虫などでみかけるじゃないですか。そこに「けじめ」なんて言う境界線が引けますか?どこにその

ようなものがありますか?

どうしてこのような観方をするんでしょうか? 勉強=学校との関係=学校のべんきょう=学習=学びの場=じっとする場なんですよ!

勉強=学習と看做すことに起因する「偏見」が、「けじめ」なんて言う過ちを犯すのです。 

 心技体っていうじゃないですか。心とは「頭」すなわち「頭を働かせるためにじっとする動作」をいいます。その反対が「体」です。

体とは「体」すなわち「体をつかってうごきまわる動作」をいいます。あちこち歩き回って見聞をして体験や経験を積むことです。

この「心」と「体」とは、一人の人間という生き物のなかにあって、同一体として存在します。どちらかが勝手にうごけるものではありません。

ですが、時に、心と体がバラバラに感じるときがあります。それを「思いどうりにならない」といいます。心という部分では「できるつもり」なのですけれど

体という部分では「できていない」という事実に直面して「自分のふがいなさ」でいらだつことになるわけです。ならば、それを解消するにはどうするか

というと、「どんなときでも思いどうりに出来るようになる」すなわち「身に付いている=(英語では)マスター」というレベルまで習熟度をあげるために、

自分を鍛えなければなりません。がしかし、そこに到達するのは容易ではありません。なぜかというと、人の能力の発達には段階(レベル)を踏まざる

をえないからです。それは、概ね3つのステップからなっています。1ステップは初歩段階とでもいいますか、「知っている」というレベルです。

暗記している、あるいは覚えていると言えばわかりやすいでしょう。小学生レベルとみなすことができます。といいますのは、

  ぼく知っているよ     それじゃわかるように説明して     あれ!どうしたの?説明してよ    ?!?!?

時に、そんな体験ありません? ステップ1「知っている」というレベルがこれです。

 では、次のステップ2はどういうものかといいますと、「わかっている」であります。理解しているから分別をわきまえているというレベルです。

ここで、少々古い唄ですけれど、その中に、こういう歌詞があるのをおもいだすのであります。「わかちゃいるけど、やめられねぇ (スダーラ節)」

わかっているんです、体によくないことが、健康に悪いことも,しないほうがいいことも、よ~くわかっている、つまり理解も分別もある。がしかし、

止められない・とまらない・出来ないすなわち実現されていないのです。頭では十分理解されているけれど実現・体現ができない。

そこで、次のステップ3になります。それが「いつでも、どんなときでも、おもいどうりにできる」という英語でいう「マスターしている」というレベルです。

このレベルにあってはじめて「実現する」となるわけで、これらのステップを踏むことこそ「勉強(=創造的行為)」となるのであります。

アメリカのゴルフの最高峰の試合の呼び名をご存知ですか?「マスターズ」という名です。出てくる選手たちはだれもが「ゴルフをマスターしている」

優れた人ばかりじゃないですか。だから「マスターズ」なんです。

 心(頭を使う)と体(体をつかう)は一人の人間のなかにあって切り離すことはできません。そこでこのふたつを「技(わざ)」によって昇華させる

ことを人間様は気付きます。そして、その「技」を身に付けて「術(すべ)」として持てるようにするために「技術・テクニック・仕方」という「型」を

持つようになり、いわゆる「学習」によって誰もが身に付けることができるようになりました。「学・校」であります。

  なすすべをもっていないっていうじゃないですか?この「すべ」を漢字にしますと「術」となります。「わざ」は「技」で、だから合わせて「技・術」

となります。英語では「テクニック」といいます。この「技術」ですけれど、誰もがみにつけることができます。次の世代に伝承が可能です。

文字というものなんてその代表じゃないでしょうか。学校ってその技術を授ける場ではないでしょうか。

学校で子供たちがする学習の中味とは「勉強の仕方=WORK STUDY」なのですよ。しかし、みてください。いま、こどもたちなにしているでしょう。

単なる学・習じゃないですか!受験べんきょうと称する上級の学校に入る為だけの「技術」じゃないですか!

 

 

 

 

 

 

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