会社・自分に追い込まれる前に

人に言えない悩みについて、頭の中を整理

飛行機の中

2006-11-24 10:59:23 | Weblog
出張の途中。
飛行機の上でまたもインターネットアクセスがfreeという便利な状態。
…どうも年末でこのサービス(機上インターネット自体が)は終了とのことだけど、、、

前にも書いたけど、便利だねえ、でも仕事できちゃうね・・・苦笑
米国はThanksgivingで4連休なんだけど日本は稼働日なんだよなあ。

稼働日といえば、日本の稼働日と米国の稼働日の差をチェックしたことあるんだよね。
果たして私のお世話になっている会社では米国のほうが年間9日も多いんだよ。
いや、これには驚いた。
でも、やはり米国のほうが休みは多い。
年に2回くらい1週間単位で休みが取れるからね。いわゆる”有給休暇”というやつだ。
どうだろう?平均ひとり年間15日-20日ぐらいは休みとっているんじゃないかな。
それを考えるとあまり日本と米国では差がないんだよね。
でも、なんか知らないけど、われわれのような出向者は悪い慣習かなあ・・
年間休みを10日以上はとったことないね。だいたい6-7日(夏に1週間・・・稼動で5日、
そのほか1-2日)。

稼動日が9日も多い上に休みあまり取れない・・・最近日本は働きすぎ・・・ということで有給
休暇消化についても寛大らしいけど、米国までその活動の影響は及ばない・・・苦笑

日曜日も夕方からメールチェックしだすし、平日も夕方から夜はゴールデンタイムだし、実際寝
る直前までメールチェックしてるし、、、やはり稼働時間では圧倒的にこっちのほうが多いなあ
ま、中身が違うから一概に比較できないし、日本にいても同じ状況だよね、きっと。

さて、もうひと踏ん張りかな。
帰りはボケボケして帰りたいな。




儒教の中の生き方

2006-11-21 13:12:26 | Weblog
儒教の中での”生き方”を考えるに重要なものとして、仁=人の道がある。
仁は儒教の基本”五つの徳”のなかでも重要な徳とされる。

子曰く、仁遠からんや。我仁欲すれば、即ち仁至る。
仁(人の道)は難しい徳であろうか?(そのようなことはない)己がそうでありたいと志せば、
ただちにその境地に達するものだ。

と言う論語のなかに出てくる”徳”これは儒教の重要なベースらしんだけど、
儒教の中で徳というと、仁・義・礼・知・信の五徳
…これは孔子が直接述べたものではないようですが。

儒教の教えは端的にいうとこの五徳の実践という。
仁:人を思いやる心
義:正義を貫く心
礼:礼を尽くす心
知:知徳を磨く心
信:人を信じる心
そして、この五つの徳が並列にあるわけではなく、
仁(人の道・人を思いやる心)あっての儀
仁あっての礼、仁あっての知、仁あっての信
たとえば仁がなく、義だけを追求すると”正義のためには手段を選ばす”になってしまう。
また仁がなくて、礼のみが独り歩きすると”虚礼”になる。
仁なしの知は自分だけよければよいという”利己知”・・・

要は、、仁という土台の上に、義・礼・知・信という柱があり、徳を
構成しているということ。
”生き方”を身に着けるということは、仁をベースとした徳をみにつけるということ
=この五徳を実践すること、、、のようだ・

、、、のようだ、としか書けない私がここにいるが、
ま、なかなか心地よいよ。

また、宗教が少しわかったような気がする。

生き方

2006-11-20 10:21:55 | Weblog
昨日、心地よかった、落ち着いた・・・のはなんでだろう?と思う。

○心の豊かさは”生き方”が作る
○生き方が定まると覚悟ができる。
○覚悟ができると心が落ち着く
○心が落ち着くと人生を静かに生きることができる。
 この”心の静けさ”=”心の豊かさ”であるという。

要は”生き方を定める”→”覚悟ができる”→”心が落ち着く”というロジックだな。
プレッシャー感じたり、限界感じたり、先が読めなくなって不安感じたりして
追い詰められた気分になっても、”覚悟を決めておく”ことができると結構すっきりするものだ。
儒教・孔子の説く”生き方”はもちろんの自分の”生き方”とは全く次元が違うし、レベルも違う
けど、それなりに自分のなかで、人生、そしてその中の仕事に対しての取り組み方について
は、いろいろ考えるものがあるつもりだ。

 宗教というのは、いかに”生き方”を確立するか・・・なんだよな。きっと。
儒教のいう”生き方”をもう少し勉強してみようと思う。




心地よい心境・・・これは大事だな

2006-11-19 09:47:19 | Weblog
無理して?といわけではないけど、、、Positive Thinkingを実践していたんだけど、
今日読んだ論語(&その解説)にとても救われた?というかなんていうか、
心が落ち着いた。

解説の要約は・・・
○人間は幸せを求める
 …まあ、そうだろうな、、、と納得
○幸せは”物の豊かさ”と”心の豊かさ”が必要
 …これも納得。精神論だけでは生きられない。でも、いろいろ人はどんなに豊かになっても
  いろいろ悩む=”心の豊かさ”も重要

でも、こころの豊かさとは???これは難しい。

○心の豊かさは”生き方”が作る
○生き方が定まると覚悟ができる。
○覚悟ができると心が落ち着く
○心が落ち着くと人生を静かに生きることができる。
 この”心の静けさ”=”心の豊かさ”であるという。
…ふーーーーーむ。
 と深く考え込んだ。非常に抽象的なんだけど、とても自分に響くロジックだと思った。

そしてその出発点・KeyPointが”生き方”。
その”生き方”に徹すること、それを孔子は個人の幸福の原点として語り続けた、という。
これが儒教のようだ。

自分はその”生き方”というものをしっかり身に着けているか?と聞かれると、
NOと答えるしかないけど、次の論語がとても自分にとって励ましになる。

子曰く、仁遠からんや。我仁欲すれば、即ち仁至る。

仁(人の道)は難しい徳であろうか?(そのようなことはない)己がそうでありたいと志せば、
ただちにその境地に達するものだ。

とっても精神論だけど(宗教なんてそもそもそうだよね)、とてもなんか心地よくなった。
これ(この状態)、結構大事だよ。






Positive Thinking

2006-11-18 12:00:49 | Weblog
いやあ、疲れるというかなんていうか。
イベント、Top報告(本社副社長・専務・・・)などの事務作業。
来年への改革布石作り。重要プロジェクトの内容理解と指示(人事が絡む抜本対策)。翌年度予算調整(また、悪者だ・・・)。
ここまでくると、心地よい!とはいかないけど、開き直れるなあ。

でも、PositiveThinkingって結構効果があるかも。
会社にくるとき、車の中で、オフィスについて、でかい声出して、
”よっしゃ!やるか!!!PositiveThinkingだ!!!”
とただ気合を入れるだけで、状況は全くかわらないのに、なんとなく
前向きになれるから不思議なもんだ。
…もともと体育会系でもあるので、昔を思い出すな。
 気合を入れて、フィールドに出て行くときの緊張感・・・
 残念ながら現在のはそんなに純粋なもんじゃないけどね。

”気合い”ってそれだけだと、はっきりいってなんの足しにもならない
精神論で人に迷惑をかけるだけだけど、”気合”はやっぱり必要だ。
これも人の能力のひとつかも。

頭痛はこれじゃあなおらないけどね、さすがに(苦笑)
・・・これ、あと2週間(11月のやま)を過ぎても直らなかったら
病院いこうかな。

人事

2006-11-11 12:24:33 | Weblog
人事がらみの意思決定、、、これは結構つらい。
…これが、悩みの種なのかな。
更迭人事のときはなおさら。
でも、OUTPUTを最優先に考えると致し方なし。
ふうーーーっ・・・

こう考えるとたまにドラマでみかけるけど、リストラを決める(今回は違うけど)、
それを伝えるってかなりきつい仕事だよね。

得意じゃないなあ。

ほんとにちょっとまずいかも・・・

2006-11-09 14:32:53 | Weblog
ちと、しんどい。論語も効果なし。

頭が重い。家に帰ってきて家族の声を聞くのがしんどい。
子供の無邪気な声は特に。
”やめてくれ・・・静かにしてくれ!”
と声を出したいのをこらえる。
こんなことは今まであまりなかったのになあ。
確かに睡眠時間も少し不足気味。
精神的なものなのか、身体的なものなのか、Physicalが原因だったら困るな・・・


”孝”ということ、死に対してどう向き合うか。

2006-11-04 20:27:54 | Weblog
論語を読んでいて、興味深い考え方を見つけた。
論語にはしばしば”孝”ということばがでてくる。
前回の孔子の言葉に
”子曰く、弟子入りては規ち孝、出でては規ち悌たれ。謹みて信、汎く衆を愛して仁に親づけ。
 行いて余力有らば、規ち以て文を学べ”
というものがあったが、ここにも”孝”と言う言葉が出てきた。
一般的に”孝”は親孝行と言う意味、すなわち”子の親に対する愛情の示し方”と理解している
が、儒教では親に限らないそうだ。つまり、親孝行=現在だけではなく、過去、未来まで含めて
考えている、、、という。
過去とは先祖であり、未来は子孫。先祖を敬う(英語でいえばrespectになるのだろうか)ため
に先祖の供養を行う。人間は死を必ず迎えるのだけれども、死後、誰かが自分を思い出してく
れれば心が落ち着く。
儒教文化圏(中国、朝鮮半島、日本、ベトナムなど)では先祖供養が根付いている。
 また、儒教では自分の身体は父母の残した遺体であるとし、遺伝子がつぎの時代へ受け次
がれていく。遠い祖先から生命が連続して現在の自分に至っている、という考え(これはある
意味、考えというより、事実なんだろうな)があるという。
 
 つまり、祖先を慰霊すること=過去、親を愛すること=現在、子孫一族が続いていくこと
=未来、この3つをあわせて”孝”としているそうだ。

 生命の連続を自覚して、これを通じて、死にたいする”精神の安定”・”肉体(遺伝子)
の安定”を得られるといている。
 これはとても興味深い。
と、いうのも、自分の考えと非常に良く似ているから・・・。
 前にこのBlogの中にも書いたっけかな(もうずいぶん前のことは忘れたなあ)、
”自分の人生はなんのためにあるか”
をたまに考えるんだけど、自分が死んだあとに家族に”自分を思い出してもらいたい”・”
子供たちに私を思い出してもらいたい”という願望があるんだよな。
 死んだら自分の身体はなくなるんだけど、子供たちの心の中に残っていたい、儒教でいえ
ば、それにより精神の安定を求める、これに非常に良く似ている。
 自分も自分の父親(すでに他界)に対して、100点の父親ではなかったけども、父親の
おかげで今の自分がここにある(父親の非常に厳格な教育、教育のみならず遺伝子=生んで
くれたこと)と思える。これは父親への”孝”がいまでも続いているということであり、ど
こかでこのように考えている私を喜んでいてくれるのでは?と思う。
 避けられない”死”というものにどう向き合うか・・・宗教の非常に重要な部分だよね。
 これがあるから宗教は根付くのかな・・・

なんか、本当に宗教だなあ、、、ま、こんなことを考えるこういう自分も私は好きだ。