狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

心の平安を得るという事は何かを諦める事だ。

2017年02月13日 12時55分21秒 | VSの日記





 遠い昔の事。
 狐と狐のお師匠様は群衆の中にいた。
 群集は何れも嬉しそうな顔をしていた。
 其処を通り抜けて花も人も見えない林の中へ來るまでは会話をする機会が無かつた。

 「お師匠様のやうに素敵な文章が書けるようになるには如何すればよいでしやうか?」と狐は突然お師匠様に訊いた。
 「修行が必要です」と答えた時のお師匠様の語気は強かつた。
 「修行ですか?」
 「例えば……。どんな主題でもよいので原稿用紙5枚分の文章を書いてみてください。書いたらその文章を原稿用紙2枚分迄圧縮してみてください。重複している言葉を削り、無くても意味が通る言葉を削り、言い換えると文字数が減る言葉を捜して言い換えて、原稿用紙5枚分の文章を原稿用紙2枚分にしてみてください」
 「そんな事が出來るのですか?」
 「出來ますよ。私達は普段は無駄な言葉を数多く使つているのです。意識して無駄な言葉を排除してみてください」
 「面倒な作業ですね」
 「意外と楽しいですよ。でも其れで終わつてはいけません」
 「まだあるのですか?」
 「原稿用紙2枚分に圧縮した文章を今度は再び原稿用紙5枚分に膨らませるのです」
 「は?」
 「普通に書いたら原稿用紙5枚分の情報量の文章を原稿用紙2枚分に圧縮したら、残り3枚に新たな情報を詰め込む事ができるでしょう? 残り3枚に新たな情報を詰め込むのです」
 「面倒な作業ですね」
 「意外と楽しいですよ。その作業を何度も何度も繰り返すのです。その文章がかちつと決まれば違う主題で同じ遣り方でまた書いてみるのです。其れを繰り返せば言葉を精練する感覚が磨かれます」
 「根気が要りますね」
 「意外と楽しいですよ。ただ、修行方法は他にも沢山有ります。他の修行方法を述べてみませうか?」
 狐は暫らく返事をしなかつた。
 するとお師匠様は初めて気が付いたやうにこう言つた。
 「悪い事を言いました。君が聞きたいのは技術についての事ではないのですね。然し其れは解つている筈です。心が動いたものを主題にするしかありません。貴方の心はとつくの昔から既に動いている筈です」
 狐は一応自分の胸の中を調べて見た。
 けれども其処は案外に空虚であった。思いあたるやうなものは何にもなかつた。
 「私の胸の中に是という目的物は一つもありません。私はお師匠様に何も隠してはいない心算です」
 「目的物が無いから動くのです。目的物があれば落ち付けるだろうと思つて動きたくなるのです」
 「今は其れほど動いてはいません」
 狐は変に悲しくなつた。分かつてない。お師匠様は全く何も分かつてない。
 「主題が見つからないのです。私の胸の中には何も無いのです。何も浮かんでこないのです。平ら胸なのです」
 お師匠様と狐は博物館の裏から街の方角に静かな歩調で歩いていつた。
 「悪い事を言いました。私は貴方に真実を話している気でいました。ところが実際は貴方を焦慮していまいた。私は悪い事をしました」
 垣の隙間から広い庭の一部に茂る熊笹が幽邃に見えた。
 「君は私が何故毎月、友人の墓へ参るのか知っていますか?」
 お師匠様の此の問いは全く突然であつた。然もお師匠様は狐が此の問いに対して答えられないという事もよく承知してゐた。
 狐は暫らく返事をしなかつた。
 するとお師匠様は始めて気が付いたようにこう言つた。
 「また悪い事を言いました。焦慮せるのが悪いと思つて説明しやうとすると其の説明がまた貴方を焦慮せるような結果になつてしまう。如何も仕方がない。この問題は是で止めましやう。兎に角書く事ですよ、よござんすか。何もないように思えても書いてみることです。或いは何もない事を書いてみるのです。内容が無いようと呟きながら其の様を文章にしてみるのです」

 狐にはお師匠様の話がますます解らなくなつた。
 しかしお師匠様は其れきり何も口にしなかった。

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