『要するに自分の無能を美化して自己陶酔に浸っているだけではありませんか。
滅びの美学とやらがお望みなら貴方独りでそれを貫徹なさればいい。
我々が貴方の自己陶酔に付きあってむざむざ死なねばならぬ理由はない』
滅びの美学とやらがお望みなら貴方独りでそれを貫徹なさればいい。
我々が貴方の自己陶酔に付きあってむざむざ死なねばならぬ理由はない』
本来、「清貧な生活」というのは、個人が「自分はそうします」と宣言することであって、他者に自分の信念を押し付けるべきことではないはずなのです。
「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」と言われたところで、何が平等かを定義するのは困難だし平等の定義のしかたによっては最も立場の弱い人達が苦しむことになりかねません。
そして社会が貧しくなれば多くの人を助ける為の力は物凄い勢いで縮小します。
清らかで貧しい生活が良いと思うのならば、個人で実践すればよいだけです。「他者がそうであれ」と押し付ける必要はありません。個人で清らかで貧しい生活を楽しめばよいのです。
「戦争になったら敵に対して無抵抗で殺されるべきだ」というのも、本来は、個人が「自分はそうします」と宣言することであって、他者にそこまでの信念を押し付けるべきではない話だと思うのです。
自分の死についての問題であると共に他者の死についての問題でもあるからです。
それらの問題は、社会全体に自分の思想や信念を押し付ける行為をするのではなく、「自分はこんな生き方をする」と宣言して実行するのが筋だと思うのです。
そして、その行動に共感する人は自分で決断して似たような行動をすればよいのです。しかし、煽るだけ煽って最後に逃げ出す人もいるので注意は必要です。
そして、その行動に共感できない人がいることも許容すべきです。貧乏であるかないかとかどう生きるかとかの問題は重大な問題で深刻な問題で人それぞれに考えがあります。
「多様性を認めよ」と主張するならば、違う意見を持つ者も尊重べきです。
その上で自分の思想を実践すればよいだけだと私は思うのです。