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2017-03-06 16:36:26 | 日記
エドヴァルド・ムンク
エドヴァルド・ムンク
Edvard Munch
Edvard Munch 1933.jpg
1933年の写真
生誕 1863年12月12日
スウェーデン=ノルウェーの旗 スウェーデン=ノルウェー
ノルウェーの旗 ノルウェー ヘードマルク県 ロイテン
死没 1944年1月23日(満80歳没)
ノルウェーの旗 ノルウェー オスロ
墓地 ノルウェーの旗 ノルウェー オスロVår Frelsers gravlund
北緯59度55分16秒 東経10度44分40秒
国籍 ノルウェーの旗 ノルウェー
教育 ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)
著名な実績 油絵、版画
代表作 『叫び』、『マドンナ』
運動・動向 世紀末芸術、表現主義
この人に影響を
与えた芸術家 印象派、トゥールーズ=ロートレック、ゴッホ、ゴーギャン、ナビ派
この人に影響を
受けた芸術家 ドイツ表現主義
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk] ( 聞く), 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀-20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。
目次 [非表示]
1 概要
2 生涯
2.1 子供時代
2.2 王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン
2.3 パリ留学(1889年10月-1892年3月)
2.4 帰国、ベルリン(1892年3月-1896年2月)
2.5 パリ(1896年2月-1897年7月)
2.6 生命のフリーズの完成(1897年7月-1902年)
2.7 ドイツでの活動(1903年-1908年9月)
2.8 精神病院(1908年10月-1909年5月)
2.9 ノルウェーへの帰還、晩年(1909年5月-1944年)
3 時代背景と作風
4 受容と評価
4.1 日本
5 主な作品
5.1 『叫び』
5.2 生命のフリーズ
5.3 肖像画
5.4 版画
5.5 壁画
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
8 外部リンク
概要[編集]
ムンクは、1863年、ノルウェーのロイテンで、医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。1868年、母が病気で亡くなり、1877年には、姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている(→子供時代)。1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった(→王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン)。1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ(→パリ留学)。1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら、『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった(→帰国、ベルリン)。1896年には、パリに移り住み、版画の制作などに注力した(→パリ)。1897年からは、ノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。この頃、ムンクは、トゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった(→生命のフリーズの完成)。1903年頃からは、友人マックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりして、ドイツを中心に活動した(→ドイツでの活動)。1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時には、ノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた(→精神病院)。1909年に退院すると、ノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や、労働者シリーズを手がけた。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが、1944年、亡くなった(→ノルウェーへの帰還、晩年)。
ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは、世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、彼が鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる(→時代背景と作風)。
作品の多くはムンク美術館等の美術館に収蔵されている(→主な作品)。その中でも、『叫び』は世界的に抜群の知名度を誇り、複数バージョンのうち個人所蔵のパステル画が、2012年にオークションで手数料込み1億1990万ドル(約96億円)で落札されたことは、大きなニュースとなった(→『叫び』)。
生涯[編集]
子供時代[編集]
ノルウェーの地図
ノルウェースウェーデンフィンランドRed pog.svgオスロ(旧クリスチャニア)Red pog.svgロイテンRed pog.svgオースゴールストランRed pog.svgクラーゲリョーベルゲン
エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテン(英語版)に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年、ラウラ・カトリーネ・ビョルスタ (ノルウェー語版)と出会い、間もなく結婚した。2人の間には、エドヴァルドの前に、長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた[1]。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし、母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの、1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・ビョルスタ (ノルウェー語版)がムンク家の世話をすることになった[2]。
父は、もともと信心深い性格であったが、妻の死後、狂信的なほどキリスト教への信仰にのめり込み、子どもたちを叱るときは異常なほど厳しかった。ムンクは、父の狂信的な考えに反発して口論した日の夜、父の寝室を覗き、父がベッドの前にひざまずいて祈っているのを目撃し、衝撃を受けたことを後に回想している。ムンクは、その光景をすぐにスケッチに描くことによって、ようやく落ち着いて寝入ることができたという[3]。ムンクは、「病と狂気と死が、私の揺りかごを見守る暗黒の天使だった」と語っている[4]。
1875年、一家は、クリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越した。しかし、その後、エドヴァルドは、慢性気管支炎を患った。さらに、姉ヨハンネ・ソフィーエが、結核に感染し、1877年11月15日に15歳で亡くなった[5]。こうして身近に「死」を実感したことは、後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)、『病める子』(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている[6]。
ムンクは、通っていた学校を1879年に中退している。この頃から彼は画家になりたいという希望を持っていたが、父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかし、彼はリューマチ熱のため欠席が続き、1880年11月8日、退学した。その日、彼は日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている[7]。
それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、彼の日記によれば、1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している[8]。
王立絵画学校とクリスチャニア・ボヘミアン[編集]
ムンクは、父を説得し、同年(1880年)12月16日、ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃モデル・クラスに編入した。彼はこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年(1882年)初め頃、友人6名とともに、カール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた[9]。
同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム(英語版)野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる[10]。この年(1883年)、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展(芸術家展)に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展(官立芸術展と改称)に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品した。しかし、特に『朝』は、ノルウェー国内で酷評された[11]。

『朝』1884年。油彩、キャンバス、96.5 × 103.5 cm。ベルゲン美術館。
一方、フリッツ・タウロウは、ムンクの才能を認めており、彼にパリのサロンを見学する機会を提供したいと、同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソート(英語版)とともにパリに向かった。ムンクは、パリで、サロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ[12]。他方、サロンで尊敬を集めているアカデミズム絵画のブグローについては、「ブルジョア連中の関心を引いていたにすぎない」と切り捨てている[13]。この年の秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したが、これも酷評された[14]。
同年(1885年)4月、ムンク一家は、スカウ広場に面した建物に移った。彼
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