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2017-03-06 16:37:55 | 日記
1909年に退院すると、コペンハーゲンからノルウェーに戻り、クラーゲリョーの小さな町に住み始めた。1910年11月には、オスロ・フィヨルドの東岸ヴィトステーン(英語版)に土地を買って、ここも制作の拠点に加えた。1913年には、更にその南、モス(英語版)近郊の建物を借りてアトリエとした[78]。
親類から勧められて、クリスチャニア大学講堂壁画コンテストに応募するための下絵を描き始めた。正面の大壁に『太陽』、その向かい側に『人間の山』、左右の横長の壁に『歴史』と『アルマ・マーテル(母校)』を配する構想を提出し、1911年のコンテストでは第1位を得たが、大学当局に拒絶された。しかし、その後、ムンク支持の運動が起き[注釈 3]、1914年、大学学部長会がムンク案の採用を決議し、1916年除幕式が行われた[79]。

『太陽』(壁画のための習作)1910-11年。油彩、772 × 450 cm。ムンク美術館。


『歴史』1916年。現オスロ大学講堂壁画。

1912年(48歳)のムンク。
この時期、ムンクは『労働者とその子』(1907年-08年)、『左官屋と機械工』(1908年)、『木こり』(1913年)、『雪かき人夫(雪の中の労働者)』(1913年-14年)、『家路につく労働者』(1913年-15年)などの200点にのぼる「労働者シリーズ」に取り組んだ。また、『クラーゲリョーの冬』(1912年)のような風景画も制作した[80]。1912年ケルンの分離派(ゾンダーブント(英語版))展の招待作家となり、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンと並んで特別展示室を与えられた[81]。
1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリー(ノルウェー語版)に邸宅を買って定住した[82]。1920年頃からはアトリエでの人体習作に比重を置き始めたほか、風景画『星月夜』(1923年-24年)も制作している。また、フレイア(英語版)・チョコレート工場の食堂の壁画(1922年)や、1925年にクリスチャニアから改名したオスロの新庁舎大ホール正面壁画(1928年)も手がけた[83]。
1926年、ヴェネツィア、ミュンヘン、コペンハーゲン、パリ、マンハイムなどで中規模の展覧会が開かれた後、1927年、ベルリンのナショナル・ギャラリーで、油彩画223点、素描21点という史上最大の回顧展が開かれ、更に同年秋にはオスロ国立美術館に巡回した[84][85]。

『家路につく労働者』1913-15年。227 × 201 cm。ムンク美術館。


『安楽椅子のそばのモデル(英語版)』1929年。油彩、キャンバス、120 × 100 cm。ムンク美術館。

オスロにあるムンクの墓。
1930年から数年間は眼病で仕事が進まなかったが、やがて回復した。70歳となる1933年、聖オーラヴ勲章大十字章を授けられた[86]。フランス政府からはレジオンドヌール勲章を与えられた[87]。
ドイツでナチスが台頭すると、ムンクの作品は1937年、退廃芸術としてドイツ国内の美術館から一斉に外された[88]。1940年4月9日、ドイツがノルウェーに侵攻すると、ノルウェーの元陸軍大臣ヴィドクン・クヴィスリングが内応して親ドイツのクヴィスリング政権を立ち上げたが、ムンクは政権の懐柔に応じずアトリエに引きこもった[89]。この時期には、『窓側の自画像』(1940年)、『自画像/深夜2時15分』(1940年-44年)、最後の自画像『自画像/時計とベッドの間』(1940年-44年)などを制作した[90]。1943年12月12日、エーケリーで80歳の誕生日を祝ったが、その1週間後、自宅の近くでレジスタンスによる破壊工作があり、自宅の窓ガラスが爆発で吹き飛ばされた。凍える夜気に彼は気管支炎を起こし、翌1944年1月23日に亡くなった。ナチス・ドイツの降伏で戦争が終結したのは、その後の1945年5月7日であった[91]。

『自画像/時計とベッドの間』1940年-44年。油彩、キャンバス、150 × 120 cm。ムンク美術館。
時代背景と作風[編集]

ムンクの署名。
ムンクが代表作の多くを制作した1890年代は、フランスではアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアではユーゲント・シュティールと呼ばれる芸術運動が起こった時代であり、世紀末芸術と総称される[92]。
クールベの写実主義からモネらの印象派に至るヨーロッパ美術の流れは、自然をキャンバスの上に再現しようとするものであった。これに対し、ゴッホ、ゴーギャン、ルドンらポスト印象派の画家たちは、絵画の役割を、眼に見えない心の内部を表現することに大きく変えていった。その次の世代に当たる世紀末芸術の芸術家たちも、人間の心の神秘の追求に向かった。ムンク自身、芸術について、次のように述べている[92]。
芸術は自然の対立物である。芸術作品は、人間の内部からのみ生まれるものであって、それは取りも直さず、人間の神経、心臓、頭脳、眼を通して現れてきた形象にほかならない。芸術とは、結晶への人間の衝動なのである。
こうしてムンクや他の世紀末芸術の芸術家たちが追求した「内部の世界」は、印象派の明るい世界ではなく、不安に満ちた夜の闇の世界であった。病的なまでに鋭敏な感受性に恵まれたムンクは、生命の内部に潜む説明し難い不安を表現することに才能を発揮した。幼い時から家族に次々襲いかかってきた病気と死は、彼の芸術に影響を与えたと考えられる[93]。また、ムンクは、クリスチャニアで、既成道徳に対する徹底的な反抗、反俗的芸術至上主義をモットーとするボヘミアン・グループに属していた。印象派の画家たちには見られないこうした市民社会への反抗精神や、パリ留学で最新の絵画活動に触れたことも、ムンクの芸術に大きな影響を与えた[94]。ムンクは、内面の表現の可能性を探求して、ゴッホよりはるかに先まで進んだ画家の一人だと評されている[95]。
実際、1890年代の『叫び』や『思春期』といった一連の作品では、死と隣り合わせの生命、愛とその裏切り、男と女、生命の神秘など、生命の本質の問題が扱われており、その全てに、説明し難い不安が通底している[96]。
表現手法は、リアリズムよりも、平坦な画面構成、装飾性に向かっているが、これは、ナビ派や、フェルディナント・ホドラー、グスタフ・クリムトなど、同時代の他のヨーロッパの画家たちと共通する傾向である[97]。また、ムンクが好んで描いた、女性のうねるような長い髪の毛が、男性を絡めとる魔性を暗示するように、線描それ自体の中に、生の神秘が象徴的に表現されていて、見る者に訴えかける力を持っている[98]。
受容と評価[編集]
ムンクの作品は、初期から激しい非難を浴び、1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いた個展は、理事の過半数の反対表決で、1週間で打ち切りを強いられた。しかし、この事件がきっかけで、ドイツの詩人、画家、批評家の中でムンクの支持者も現れるようになった[99]。また、この「ムンク事件」は、ベルリン芸術家協会の中の対立を顕在化させ、1898年にベルリン分離派が誕生するきっかけとなった[100]。
1896年のパリのアンデパンダン展、アール・ヌーヴォー展では、好意的評価も増えてきた。ムンクは、後に、「〈生命のフリーズ〉に属するこれらの作品が最もよく理解されたのは、フランスにおいてであった。」と回想している。ようやく分離派が印象派に追いついたベルリンよりも、既に印象派とポスト印象派を経験しているフランスの方が、ムンク受容の土壌が育っていたと考えられる[101]。
20世紀初頭になると、ムンクは、ドイツで、表現主義の若い画家たちから、ゴッホやゴーギャンと並んで熱狂的に支持された。ドイツでのムンクの影響は、フランスでのセザンヌに匹敵するほど大きく、ムンクはドイツ表現主義の先駆者とみなされている[102]。
1922年にはチューリッヒなどで版画を中心とした大回顧展が開かれ、1927年にはオスロやベルリンの国立美術館で回顧展が開かれるなど、ムンクの評価は確立した[103]。1924年3月には、ベルゲン美術館でラスムス・メイエル・コレクションが一般公開された[84]。
1933年にはノルウェー政府から聖オラヴ大十字章、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されるなど、最高の栄誉を受けた。しかし、晩年は、ナチスの台頭とノルウェーでの親ドイツ政権の成立で、不遇の時を過ごした。
2001年から、1000ノルウェー・クローネの紙幣に採用され、表面は彼の若い時の肖像と背景に作品『メランコリー』、裏面は作品『太陽』が描かれている[104]。
日本[編集]
ムンクが日本に最初に紹介されたのは、1911年(明治44年)6月号の『白樺』に銅版画『コラ (Cora)』の図版が掲載された時であった[105]。その後、1912年(明治45年)4月号の『白樺』に、武者小路実篤が特集記事を書き、この号には図版も8点掲載された[106]。
主な作品[編集]

1963年、ムンク生誕100周年を記念して設立されたオスロのムンク美術館。
有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。このため代表作の多くは1963年にオープンしたオスロ市立ムンク美術館に収蔵されている[107]。オスロ市に残された作品は、油絵約1150点、版画約1万7800点、水彩画と素描約4500点、彫刻13点などであった[108]。良質な作品の7割近くがムンク美術館を中心に収蔵されているとされ、美術市場に現れる作品は少ない[109]。そのため日本にあるムンクの絵画作品は、『オースゴールストランの夏』(群馬県立近代美術館蔵、1890年代[110])、『イプセン『幽霊』からの一場面』(愛知県美術館蔵、1906年)、『マイスナー嬢の肖像』(ひろしま美術館蔵、1906-07年[111])、『犬のいる自画像』(ポーラ美術館蔵、1925-26年頃)の4点のみである。
2005年、ドイツのブレーメン美術館で、X線調査の結果、ムンクの『死と子供』のキャンバスの下に、裸婦と男たちの顔が描かれたもう1枚のキャンバスが隠れていることが分かり、新たな作品の発見となった[112]。
『叫び』[編集]
詳細は「叫び (エドヴァルド・ムンク)」を参照
『叫び』の4バージョン

パステル、厚紙(1893年)。ムンク美術館。

油彩・カゼイン・パステル、厚紙(1893年)。オスロ国立美術館。

パステル、厚紙(1895年)。サザビーズ落札品。

テンペラ、厚紙(1910年)。ムンク美術館。
『叫び』は、その遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で、最もよく知られ、ムンクの代名詞となっている。絵葉書に始まり、様々な商品に意匠として採用されており、世界中で、『モナ・リザ』と並び、美術愛好家以外にも抜群の知名度を誇る作品である[113][114]。
ムンクは、この作品の制作について、次のように、自らの経験に基づくものであると説明している。
僕は、2人の友人と散歩していた。日が沈んだ。突然空が血のように赤く染まり、僕は憂鬱な気配に襲われた。立ち止まり、欄干に寄りかかった。青黒いフィヨルドと市街の上空に、血のような、炎を吐く舌のような空が広がっていた。僕は一人不安に震えながら立ちすくんでいた。自然を貫く、ひどく大きな、終わりのない叫びを、僕はその時感じたのだ[115]。
映画『ホーム・アローン』で少年が叫ぶシーンにイメージが転用されるなど、パロディ化の影響もあって、橋の上の男が、自ら叫んでいるように誤解されることも多いが、実際には、自然から発せられる幻聴に耐えかねて、耳を押さえている様子が描かれている[116]。
『叫び』は、1893年以降、4点制作され(リトグラフ作品を除く)、ムンク美術館に2点所蔵されているほか、オスロ国立美術館所蔵と、個人所蔵のものが1点ずつある。
このうち、オスロ国立美術館蔵のものは、1994年2月12日、強盗団に盗み出される被害に遭ったが、その後容疑者が逮捕され、作品も取り戻された。2004年8月22日には、今度はムンク美術館所蔵のテンペラ画が、同じく展示されていた『マドンナ』とともに、白昼、銃を持った強盗団に盗み出される被害に遭った[117]。容疑者が逮捕され、有罪判決を受けた後、『叫び』と『マドンナ』は、2006年8月31日に警察によって発見された[118]。
個人所蔵のパステル画は、長年ノルウェーの実業家オルセン・ファミリーが所有していたが、ペッター・オルセンがニューヨークのサザビーズに出品し、2012年5月2日、オークションにかけられた。その結果、1億0700万ドル(手数料込みで1億1990万ドル[注釈 4])という史上最高額[注釈 5]で落札された。買主は公表されていない。ここまでの高額の落札になったのは、作家の評価と作品の知名度が高いことに加え、唯一の個人所蔵作品で市場における希少性があることや、来歴が確かでコンディションも良いといった条件がそろっていたことによる[119][114]。
生命のフリーズ[編集]
ウィキメディア・コモンズには、生命のフリーズに関連するメディアがあります。

フリーズ
ムンクは、主に1890年代に制作した『叫び』、『接吻』
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