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2017-03-06 16:36:59 | 日記

一方、フリッツ・タウロウは、ムンクの才能を認めており、彼にパリのサロンを見学する機会を提供したいと、同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソート(英語版)とともにパリに向かった。ムンクは、パリで、サロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ[12]。他方、サロンで尊敬を集めているアカデミズム絵画のブグローについては、「ブルジョア連中の関心を引いていたにすぎない」と切り捨てている[13]。この年の秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したが、これも酷評された[14]。
同年(1885年)4月、ムンク一家は、スカウ広場に面した建物に移った。彼は、ここで『春』、『思春期』(第1作)、『病める子(英語版)』、『その翌朝』を描いた[15][注釈 1]。亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は、1年近くかけて描き上げたもので、1886年の秋季展に出展したが、これも、保守系日刊紙『モルゲンブラーデ』に、「当然必要な下塗りさえしていない」、「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなり、しまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど、激しく攻撃された[16]。ムンクは、後に、『病める子』について、新しい道を切り開いた作品だと位置付けつつ、「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と、展覧会初日の会場で、哄笑や非難の声が聞こえてきたことを振り返っている[17]。
この頃、クリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格であるアナーキスト作家ハンス・イェーゲルと知り合った[18]。伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えるイェーゲルに、当時のクリスチャニアの若者たちが熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となった[19]。ムンクにとって、ボヘミアン時代は、霊感と活気を与えてくれる時代であったが、同時に、独断主義的なボヘミアンのメンバーに対して「反吐の出そうな馬鹿者」と嫌悪感を表してもいる[20]。また、ムンクは、1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウ (Milly Thaulow) との禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをした[21]。

『病める子』1885-86年。油彩、キャンバス、119.5 × 118.5 cm。オスロ国立美術館。
1888年秋、クリスチャニア南西の海辺の村オースゴールストランを訪れ、『郵便船の到着』などの写生的な油絵を描いた[22]。1889年初頭、重病を患い、回復途中に『春』を描いた。これは、この時期の最高傑作とされる[23]。同年5月9日から、カール・ヨハン通りの学生協会の小ホールに、『ハンス・イェーゲル像』、『春』など自作110点を並べる個展を開催した。当時のノルウェーでは、個展というものが開催されること自体が、初めての試みであった[24]。

『春』1889年。油彩、キャンバス、169.5×263.5 cm。オスロ国立美術館。


『浜辺のインゲル(英語版)(夏の夜)』1889年。油彩、キャンバス、126 × 161 cm。ベルゲン美術館。
パリ留学(1889年10月-1892年3月)[編集]
フランスの地図
フランスイギリスオランダドイツベルギールクセンブルクオーストリアスイスイタリアスペインRed pog.svgパリサン=クルーRed pog.svgニースRed pog.svgRed pog.svgル・アーヴルRed pog.svgアントウェルペン地中海
同年(1889年)10月、1500クローネの政府奨学金が与えられた。それと同時に、パリで1年間デッサンを学ぶことが命じられ、彼はパリに赴いた[25]。ところが、その年の12月に、突然、父クリスティアンが亡くなったことが叔母カーレンから伝えられ、衝撃を受けた。彼は、その直後、パリ郊外のサン=クルーに移って、デンマークの詩人エマヌエル・ゴルスタイン (Emanuel Goldstein) と同居した。1890年にゴルスタインをモデルにして描いた『サン=クルーの夜』には、孤独と不安が表れている[26]。この頃、エドヴァルドは手帳に次のような走り書きを残しており、後の「生命のフリーズ」の構想の端緒となったものとして、「サン=クルー宣言」と呼ばれている[27]。
〔……〕私は、そのような作品をこれから数多く制作しなければならぬ。もうこれからは、室内画や、本を読んでいる人物、また編み物をしている女などを描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ。〔……〕[27]
1890年、2回目の政府奨学金が認められ、フランスのル・アーヴルを訪れたが、その際、リューマチ熱を発して入院した[28]。
1891年、ル・アーヴルを去ってパリやニースを訪れ、アントウェルペンに逗留した後、夏の間、オースゴールストランやクリスチャニアに戻った。3回目の奨学金が認められたため、コペンハーゲンを経由して再びパリに赴いた。12月には、ニースを再訪している。この年、国立美術館が初めてムンクの作品『ニースの夜』を購入した[28]。
ムンクは、こうしてフランスに滞在している間に、印象派の画家たち、特にクロード・モネとカミーユ・ピサロから大きな影響を受けた。それに加え、エミール・ベルナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの作品から技法を学んだ[29]。『カール・ヨハンの春の日』(1890年)、『ラファイエット街』(1891年)など、印象派の影響を受けた点描風の油絵作品も多い[30]。一方、当初デッサンを学ぶために師事したレオン・ボナとは、色彩の使い方について相容れず、対立した[31]。

『サン=クルーの夜』1890年。油彩、キャンバス、64.5 × 54 cm。オスロ国立美術館。


『カール・ヨハンの春の日』1890年。ベルゲン美術館。


『ラファイエット街』1891年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。オスロ国立美術館。


『ニースの夜』1891年。油彩、キャンバス、48 × 54 cm。オスロ国立美術館。
帰国、ベルリン(1892年3月-1896年2月)[編集]
ムンクは、1892年3月、パリ留学からノルウェーに帰国した頃から、「生命のフリーズ」という構想を固め始めた。これは、フリーズの装飾のように、自分の作品をいくつかのテーマによって結び合わせていこうというものである[32]。また、この頃から、彼の画風は大きく変わり、ナビ派のような形態の単純化・平面的色彩に加え、強いデフォルメを行うようになった[33]。『メランコリー/黄色いボート』、『幻想』、『絶望』、大作『妹インゲルの肖像』といった作品を制作していった[34]。同年(1892年)10月4日からは、カール・ヨハン通りで再び個展を開いた。このときは、それほどの悪評にはさらされなかった[35]。

『カール・ヨハン通りの夕べ』1892年。油彩、キャンバス、84.5 × 121 cm。ベルゲン美術館。


『メランコリー/黄色いボート(英語版)』1892年。油彩、キャンバス、64 × 96 cm。オスロ国立美術館。

ムンクがベルリンでストリンドベリらの芸術家と集った「黒仔豚亭」(1920年代の写真)。
同年(1892年)11月5日から、ベルリン芸術家協会(ドイツ語版)の委員であったノルウェー人画家アデルスティーン・ノーマンの招きにより、ベルリンでムンクの個展が開かれた。ムンクは、この個展に、『朝』、『接吻』、『不安』、『メランコリー』、『春』、『病める子』、『その翌朝』、『カール・ヨハンの春の日』、『雨のカール・ヨハン街』といった重要な作品を含む55点を送った。「生命のフリーズ」の最初の展示といえるものであった。しかし、これがベルリンの各新聞で激しく攻撃され、わずか1週間で打ち切りとなってしまった[36][37]。それでも、個展はその後デュッセルドルフ、ケルン、再びベルリンと巡回し、次いで1893年にはコペンハーゲン、ブレスラウ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンと開催され、賛否両論の中にも愛好者を増やしていった[38]。
1892年12月から、彼はベルリンに落ち着くことにし、カフェ「黒仔豚亭」に集まって、スウェーデン人作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリや、ポーランド人学生スタニスワフ・プシビシェフスキなど、北欧の芸術家らと親交を深めた[39][37]。彼らは、ショーペンハウエルやニーチェについて熱く論じ合った[40]、
ムンクは、ベルリン市内外の安宿を転々としながら、『吸血鬼(英語版)(愛と痛み)』、『マドンナ』シリーズ、『星月夜(英語版)』、『死んだ母親』、『病室での死』シリーズといった多くの代表作を制作していった。『叫び』や『不安(英語版)』を制作したのもこの時期である[41]。1893年3月には、デンマークの画家ヨハン・ローデ(英語版)に、次のような手紙を送っている[42]。
私は目下シリーズ画を描いております。……一度それを一堂に並べたら、より容易に理解いただけるものと信じています。シリーズは、愛と死を扱ったものとなるでしょう。
1894年頃にはエッチングやリトグラフ、木版の技法を身につけ、表現の可能性を広げることになった[43]。
1894年、スタニスワフ・プシビシェフスキが、ムンクに関する最初の本を出版した。ユリウス・マイヤー=グラーフェ、フランツ・セルヴェース(ドイツ語版)、ヴィリー・パストール(ドイツ語版)との共著である。4人の友人によるムンクの評論として、信頼性を持った資料となっている[44]。
1895年3月、ムンクは、ベルリンのウンター・デン・リンデン通りの画廊で、アクセリ・ガッレン=カッレラとの共同展覧会を開いた[45]。6月、美術評論家ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった[46]。また、同年10月、クリスチャニアのカール・ヨハン通りのブロムクヴィスト画廊(ノルウェー語版)で大規模な作品展が開催され、『マドンナ』、『手』、『灰』、『嫉妬(英語版)』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された[47]。劇作家ヘンリック・イプセンは、この展覧会を訪れている[45]。イプセンは、後輩ムンクに、「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ。」と言って激励した[48]。

『月光』1893年。油彩、キャンバス、140.5 × 135.0 cm。オスロ国立美術館。


『星月夜』1893年。油彩、キャンバス、135.6 × 140.0 cm。J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)。


『叫び』1893年。油彩、キャンバス、91.0 × 73.5 cm。オスロ国立美術館。


『少女と死』1893年。油彩、キャンバス、128 × 86 cm。ムンク美術館。


『不安』1894年。油彩、キャンバス、94 × 74 cm。ムンク美術館。


『思春期』1894-95年。油彩、キャンバス、151.5 × 110 cm。オスロ国立美術館。


『吸血鬼(愛と痛み)』1895年。油彩、キャンバス、91 × 109 cm。ムンク美術館。


『マドンナ』1895年。油彩、キャンバス、90 × 71 cm。ハンブルク美術館。


『嫉妬』1895年。油彩、キャンバス、67 × 100.5 cm。ベルゲン美術館。


『煙草を持つ自画像』1895年。油彩、キャンバス、110.5 × 85.5 cm。オスロ国立美術館。

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