永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(205)

2017年07月15日 | Weblog
205蜻蛉日記 下巻 (205) 2017.7.15

「かくて神無月になりぬ。廿日あまりのほどに忌違ふとて渡りたるところにて聞けば、かの忌のところに子うみたなり、と人いふ。なほあらんよりは、あな憎とも聞き思ふべけれど、つれなうてある宵のほど、火ともし、台などものしたるほどに、せうととおぼしき人近うはひ寄りて、ふところより陸奥紙にてひき結びたる文の、枯れたる薄にさしたるを取り出でたり。」

◆◆こうして神無月(十月)になってしまいました。その二十日すぎに忌を違うためいに行った先で聞いたところによると、あの鬼門にあたるところ(近江の女)では、子供を産んだそうだ、などと人たちが話しています。おとなしくしているよりは、ああ、憎らしいと思うのが当たり前なのだけれど、私は知らん顔をして過ごしていた宵の時分に、燈火をともし、食事などをしているときに、兄弟にあたる人が近寄ってきて、ふところより陸奥紙に書いて結び文にした手紙で、枯れた薄にさしてあるのを取り出しました。◆◆




「『あやし、誰がぞ』と言へば、『なほ御覧ぜよ』と言ふ。開けて灯影に見れば、心づきなき人の手の筋にいとよう似たり。書いたることは、『かの〈いかなるこまか〉とありけむはいかが。
〈霜枯れの草のゆかりぞあはれなるこまがへりてもなつけてしがな〉
あな心ぐるし』とぞある。」

◆◆私が「おや、どなたの」と聞くと、「まあ、ご覧ください」という。開いて燈火の光で見てみると、癪に障るあの人(兼家)の筆跡によく似て(兄弟なので)います。書いてあることは、「あの『いかなる駒か』とあったのはどんな具合ですか。
(兼通の歌)「兼家が通わなくなったあなたに、兄弟として同情します。わたしが若返って仲良くしたいものだ」ああ、やるせない。と書いてあります。◆◆



「わが人に言ひやりてくやしと思ひしことの七文字なれば、いとあやし。『こは誰がぞ』と、『堀川殿の御ことにや』と問へば、『太政大臣の御文なり。御隋身にあるそれがしなん、殿にもて来たりけるを、〈おはせず〉と言ひけれど〈なほたしかに〉とてなんおきてける』と言ふ。いかにして聞き給ひけることにかあらんと、思へども思へどもいとあやし。
また人ごとに言ひあはせなどすれば、ふるめかしき人聞きつけて『いとかたじけなし。はや御かへりして、かの持て来たりけん御隋身に取らすべきものなり』とかしこまれば、書く。おろかには思はざりけめど、いとなほざりになりや。」

◆◆私が兼家に送った歌で、右馬頭に知られて後悔した七文字「いかなるこまか」なので、ほんとに不思議で、「これはどういうこと?」そしてまた、「堀川の大殿のお手紙ではありませんか」と問うと、「太政大臣さまのお手紙です。御隋身をしている某(なにがし)がお邸(作者邸)に持参しましたので、『ご不在です』と言いましたが『やはり、しかとお渡しください』と言って置いて行ったのです」と言う。どうしてあの歌の事をお耳にされたのであろうかと、どう考えても不思議でならない。
また、いろいろな人に相談などしていると、古風な父が聞きつけて、「まことに恐れおおいこと!早速お返事を書いて、その持参した御隋身に渡さなければいけない」と恐れ入って言います。そこで、そのお手紙を粗略に思っていたわけではありませんでしたが、いい加減にお返事したのでした。◆◆



「〈笹分けばあれこそまさめ草枯れの駒なつくべき森の下かは〉
とぞきこえける。ある人のいふやう、『〈これが返し、いまひとたびせん〉とて、半らまではあそばしたなるを、〈末なんまだしき〉とのたまふなる』と利きて、久しうなりぬるなんをかしかりける。」

◆◆(道綱母の歌)「笹を踏み分け近寄れば草は荒れ、馬(あなた)が言い寄られると私はますます離れていくでしょう。今はもうあなたも愛想をつかす森の下草(私)です。私には人を惹きつける魅力など残っておりません。」と申し上げました。そばにいた侍女が言うには、「この歌の返歌を、いま一度しようということで、半分まではお詠みあそばしたそうでございますが、『下の句がまだできない』とおっしゃっているそうでございます」と聞いてから、随分時がたったのに、そのままになってしまったのは、可笑しかった。◆◆


■忌のところに子をうみたなり=私が忌み嫌っているところ、近江のところで子供が生まれた。女子だった。この子は兼家の女(むすめ)綏子(やすこ)で、後、三条天皇が東宮のとき御息所(みやすどころ)となった。綏子の母は藤原国章女(むすめ)なので、近江は藤原国章の女(むすめ)ということになる。

■陸奥紙(みちのくがみ)=壇(まゆみ)の皮から作った白くて、表面にこまかいしぼのある厚手の紙で、包装、文書等に使われ、檀紙ともいう。陸奥から多く産するので陸奥紙という。

■堀川殿=兼家の同母の4歳上の兄、兼通。堀川に屋敷があった。伊尹の没後、太政大臣。兄弟仲悪く、このころ陰に陽に兼家を圧迫していた。


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