永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(9の2)(10)

2015年04月05日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (9の2)(10) 2015.4.5

「見るべき人見よとなめりとさへ思ふに、いみじうかなしうて、ありつるやうに置きて、とばかりあるほどにものしためり。」
――私の夫であるあの人に見てもらいたいとの思いで書かれた物と思うと、切なくて、置いてあったところにおいておきましたところ、しばらくしてあの人が訪れてきたようでした。――


「目もあはせず思ひ入りてあれば、『などか。世の常のことにこそあれ。いとかうしもあるは、我をたのまぬなめり』などもあへしらひ、硯なる文を見つけて、『あはれ』といひて、門出のところに、
<我をのみたのむといへば行く末の松のちぎりも来てこそは見め>
となん。」
――私が顔も上げず沈み込んでいますと、あの人が「どうしてなのか。父とのしばしの別れなど世間によくあることではないか。私を頼りにしていないのだろう」と言葉をかけ慰めて、「不憫なこと」と言って、父の門出の所に、
(兼家歌)「私だけが頼りだとおっしゃるなら、末長く変わらぬ二人の仲をお見せしましょう。」としたためてありました。


「かくて日のふるままに旅の空をおもひやるここち、いとあはれなるに、人の心もいとたのもしげには見えずなんありける」
――こうして日が経つままに、父の道中を思いやって心細く寂しくおりますのに、あの人の心も頼もしげには見えないのでした。――


蜻蛉日記  上巻 (10)

「師走になりぬ。横川にものすることありて登りぬる人、『雪に降り籠められて、いとあはれに恋しきことおほくなん』とあるにつけて、
<氷るらん横川の水にふる雪もわがこと消えてものはおもはじ>
など言ひて、その年はかなく暮れぬ。」
――師走になりました。横川に用事があって登った人(兼家)が、「生憎雪に降り籠められて、しみじみと恋しく思っている」という文に、
(道綱母の歌)「凍っているはずの横川の氷に降る雪は、(消えぬゆえ)私のように消え入るほどの物思いはしていないでしょう」
などとのやり取りをして、その年ははかなく暮れたのでした。――

■あへしらふ=ほどよく取り扱う。とりなす。
■門出のところ=旅立ちに際し、吉日吉方を選んで、一旦自邸から他へ移ったところ。その場所。

■横川(よかわ)=比叡山延暦寺境内北部の奥地。兼家の父、もろ師輔が法華三昧院を寄進した地。

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