私の本棚

気軽なブックレビュー。児童書やYAが好物です。

吉野ヶ里遺跡「謎のエリア」の石棺、掘り下げ作業終了

2023年06月16日 | 日記

吉野ヶ里遺跡「謎のエリア」から見つかった石棺の掘り下げ、作業終了とのこと。

「謎のエリア」とは、遺跡中心部の近くにあって、最近まで日吉神社があったため調査されてこなかったエリア。
このたび、神社が移転したため、発掘できるようになったのだと。
「北墳丘墓」という、過去に有力者の墓が見つかっているエリアから、西側100メートルほどの場所にあるそう。

●佐賀県文化財保護・活用室の公式ツイッター(吉野ヶ里遺跡の発掘調査@ナゾホルよしのがり@yoshinogari_fun)によると、

 【6月14日 調査状況】
 石棺内部を床面まで掘り下げましたが、副葬品や人骨などは確認されませんでした。
 床面にも赤色顔料が確認できましたので、石棺内部は赤く塗られていたと考えられます。

とのこと。

ニュース映像を見るに、土が大量に流入していた様子。
人骨などは土に還ってしまったのかな。
土ってすごいな…。
さすがに1800年くらい土にさらされたら、有機物なんてなくなるか…。

●佐賀新聞(6月14日)の記事

 長年、調査を担当してきた七田忠昭佐賀城本丸歴史館館長は「現段階では(被葬者は)宗教的な有力者と考えられる。石棺墓周辺を調べれば、他者から隔絶する溝など階層を考えるヒントが出てくるかも。まだ4割は掘られていない」。
 9月に再開する未発掘エリア調査への期待を口にする。

まだまだ調査は続いていくのですね。

 

石棺内部や床面に塗られていた赤色顔料。
石棺の蓋石の裏側に刻まれていた線刻。
一体何なんだろう。気になるし知りたい。
特に線刻の意味合いは気になる。まじない的なものとも言われるが、文字的な用途のものかもしれない。

今回発掘したエリアは見晴らしのいい丘だそう。きっと当時の大切なリーダーなりご親族なりを埋葬したんだろうかと想像。

以前、子どもの夏休みの自由研究で近隣の古墳をいくつか探索したけれど、やはり見晴らしのよさそうな小高いところにあった。
実際に墳丘を歩いてみて、そこからの景色も眺めてみると、埋葬した側の被葬者への思いを感じたものだった。
安らかに眠ってほしいという鎮魂、見守っていてほしいという思慕、大きくいえば優しさのようなものを。

過去のお墓を暴く、覗くなんて、一見ぎょっとするような行為。
でも、暴かせてもらう過程で、当時の人々の死者への思いの痕跡が見られ、心打たれる。

それにしても、九州北部の地名には古の呼び名の痕跡が残っているんですね。ロマンがあるなあ。
 糸島 松浦 壱岐
 伊都国 末盧国 一支国
 
邪馬台国がどこにあったか、九州か近畿か! という妙な煽りより、
遥か遠い昔、そこには何があったのか正しくわかりたい。
というシンプルな気持ちで発掘調査のニュースが気にかかります。


吉野ケ里遺跡の石棺発掘

2023年06月08日 | レビュー

吉野ケ里遺跡の石棺発掘、いったい何が出てくるんだろう。

楽しみ!

 

カズオ・イシグロの「忘れられた巨人(The Buried Giant」を思い起こします。

後世の私たちには、真実はもうburied(bury:埋める)で、忘れられたものでしかなく、何かの痕跡として残っているにすぎない。

勝者は敗者を上から蓋をして鎮め、偽りの記憶で上塗りしていく。

それはそれで平和な統治のためだけど。

でもいつか誰かが埋められたものを光にあてる。


杉本苑子さん

2023年02月17日 | レビュー

最近、杉本苑子さんの歴史小説にはまっています。

・『孤愁の岸』:薩摩藩士たちの宝暦治水を描く。幕府からの難題は自分たちの力を削ぐためとわかっていながらもやらざるを得ない。大きな難儀に立ち向かうリーダーの立場の重さに、現代にも通じるものを感じた。リーダーである平田靱負だけでなく、濃尾の土地の人々、平田の部下などそれぞれがこの工事をどう受け止め、背負っているかも書かれている。

・『埋み火』 :武士の身分を捨てて劇作家となった近松門左衛門の生涯を描く。歌舞伎や文楽に今も残る数々の名作。その創作の源泉が障害を抱える息子にあるとされていて、その視点が興味深かった。

・『風の群像』:足利幕府創設の面々を中心に、鎌倉幕府滅亡~建武の新政~足利幕府創設~尊氏の死までを描く。尊氏の弟・直義の英邁さに魅かれた。足利家の家宰・高師直の現代的で合理的な考え方、赤松則村一家の野心ぶりも面白く読んだ。

 

続いて、『華の碑文』を読んでいます。こちらは、室町時代の能楽師・世阿弥の生涯を描いたもの。時の将軍に足利義満が出てきて『風の群像』から続けて読むにはよいです。

ほかにも、『散華』(紫式部の生涯)を読もうと計画中。

杉本苑子さんは作品を数多く残されているので、この沼にはまったからには抜けることはできないかも…。


風の描写が好き

2022年02月21日 | レビュー
年を重ねるにつれて、風が好きになってきている。

今はもう子どもは幼児ではなくなったけれど、世話をしていて何かと疲れる折々、室内でも屋外でもふと風に吹かれると心が鎮まる感じがした。
春先の柔らかい風、冬場の肌を突き刺してくる風、台風の名残りの強風、どれも好きだ。
本を読んでいて、風の描写にも心が惹かれるようになってきた。

ここしばらく読んでいた「潤一郎訳 源氏物語」。
巻一から巻五まであります。
ゆっくり堪能しました。

源氏物語というと、まあ登場人物が多く、彼らが織りなす複雑な人間関係を頭の中で必死に追いかけていくのが精いっぱいな私ですが、自然の描写の美しさに本当に心打たれました。
瑞々しい四季折々の植物、前栽(せんざい)、天候の変化。

特に風の美しさに気づかされます。
  「風が吹いて瓶の桜が少しちらほらと散り紛います」
  「風が竹の葉に鳴っています折から、花やかな月が空に昇って、しめやかなうちにも趣に富んだ夜」
紅葉の濃いのや薄いのが夕風に散り敷いたり、三月の夕に桜が雪のように降りかかったり、高い木の上から咲きかかる藤の花が風に揺られたり…。うっとりします。
風の場面を拾い読みしているだけで幸せになれる。

「あわれ」な場面では風が印象的に吹いている。
物語の進行上、何事かが起きる(不安、事件、転換)ときにも風は吹く。
光君が夕顔と赴いた「某の院」では夜半に風があらあらしく吹き出す。
都から追いやられた須磨でもとにかく吹き荒れる風。雷鳴、稲妻、肘傘雨。
「さてはあの、美しいものをえらく欲しがるという海の中の龍王が、自分を魅入ったのであろう」と光君が思うほどに天気が荒れ、須磨から明石へと導かれていく流れ。

風と薫りの組み合わせも素敵。
  「風がはげしく吹雪を起こして、御簾の内の空薫(そらだき)の匂いが、しっとりとした黒方の香にしみて、名香の煙もほのかに立ちのぼっています。大将の御衣の匂いさえ薫り合うて、極楽のさまも思いやられる結構な夜の風情なのです」(賢木)

何を読むにも、風の描かれ方が気になるこの頃です。

『トムは真夜中の庭で』を読む

2018年12月12日 | レビュー
■『トムは真夜中の庭で』("Tom's Midnight Garden")
■フィリパ・ピアス(philippa Pearce)、高杉一郎訳、岩波書店
 (読了:2017年2月16日)


とても素敵な物語だった。
胸打たれ、最後には涙ぐんだ。


●夏休み、トムは成長する。
ただの「おばあさん」、バーソロミュー夫人を、過去を持つ一人の人として捉えることができるようになった。
彼女と子ども時代を共に過ごすことで実感したのだ。
「おばあさん」の中に、生き生きと庭園で遊ぶ女の子、両親を失って一人さみしさを抱える女の子、川でスケートを楽しむ若い女性、大戦で二人の息子を亡くしたお母さん、それらがみな包まれているんだと。
最後、トムがハティを抱擁する様は胸を打たれる。
長い人生を辿ってきたバーソロミュー夫人へのトムの敬意と愛情がこもっているから。

「もちろん、あのバーソロミュー夫人は、トムより心もち大きいか大きくないかっていうぐらいに小さくちぢんでしまったおばあさんですけどね… トムは、相手がまるで小さな女の子みたいに、両腕をおばあさんの背なかにまわして抱きしめていたのよ」


●最後の金曜の夜、庭園へ出るドアをあけたときのトムの絶望感。
トムはドアをあける前からわかっていたようでもある。
イーリーまでスケートをした帰り、バーティ二世と話がはずむハティ。ハティの目にトムはうつらない。
このころからトムはハティとの別れが近いことを信じたくはないがわかっていた。
それ以前にハティが庭園の池でいすを押しながらスケートをしているときのことや、もっと以前、木から落ちて横木のある寝室で寝ているハティの様子などから、ハティがだんだん子どもから大人になっていくと知ったときに、この庭園で二人でいつまでも共に過ごせない、「永遠」はないんだとトムは悟っただろう。
いつまでも子どもではいられない悲しみ。子どもから大人になる予感。
そこには不安や惜別もあれば、待ち望むような気持もあるはず。庭園の中から、外へ。


●巻末の著者による解説を読むと、この物語の要がよくわかる。
人はかつて子どもであったということ、そしてそれは今と地続きであるということ。
「庭園」や「川」がメタファーとして使われている。
 【解説より引用】↓
  「子どもたちは、かれらがやがて大人になるとか、大人もかつては子どもだったなどときくと、声をあげて笑う。この理解の困難なことを、私はトム・ロングとハティ・メルバンの物語のなかで探求し解決しようと試みた。物語のおわりのところで、トムはおばあさんのバーソロミュー夫人を抱きしめるが、あれはおばあさんが、トムがいつもいっしょに遊ぶのを楽しみにしていた少女だとわかったからである」
  「塀で囲まれた庭園-古い『閉ざされた庭』hortus conclusus-は、幼年時代の、保護されている安全を意味する。しかし、トムは庭園の高い煉瓦塀にのぼって、遠くの方にひろがっている、子どもの心を誘うような風景のことをハティにおしえてやる。そして、あとになると、こんどはハティが庭園をはなれ、川にそってイーリーの町までくだってゆく。川というのは人生の象徴であって、たえず流れ、変化し、人間をはこびさってゆく」


●主人公は、トムのようでいてハティかもしれないと思った。
作品全体から、過ぎ去った時を愛し慈しむまなざしを感じられた。








「よろしくお願いします」と「正直」

2017年12月01日 | 日記
テレビを見ていてストレスを感じるのは誰にでもあること。
私にもいろいろあります、ささいなことばかりで恐縮ですが。

++++

以前から気になっていて、最近、すごくイライラしてしまうのが、
トーク番組やスポーツ中継、歌番組などで、出演者が紹介された瞬間に言う
「よろしくお願いします」。

別にそれは言わなくても構わないのではなかろうか。
誰に、何を、「お願い」しているのか?

その場の出演者同士、「今日は番組中お互いがんばりましょうね、迷惑かけたらごめんなさいね」というあいさつならば、
番組が始まる前に楽屋ででも済ませておいたらどうなのか。

なぜ、番組が始まってから視聴者に聞かせるように言う必要があるのだろう…。
いきなり本題に入ってくれれば視聴者は嬉しいです。

先日、目にした光景はなかなか壮観でした。
何組もの歌手が出演する歌番組(NHK)で、番組開始早々、司会者が一組ずつ紹介を始めると…。

すべての出演者が一人ずつ「よろしくお願いします」を唱え始めた!

5人組くらいの男性グループも、わざわざ一人ずつ。
とどめに、演歌歌手風の女性がゆっくりと丁寧に「よ ろ し く お ね が い い た し ま す」。

取り立てて意味のない言葉をくり返し聞かなくてはいけないのは、ちょっとつらい。

出演者同士が言いたくなる気持ちはわかるので、まあ仕方ない、と思えるけれど、
アナウンサーは淡々と司会進行してほしい。
「よろしくお願いします」合戦に参加しないでほしい。

++++

そして、「正直」という言葉。

 「正直、そのやり方はまずいと思います」
 「正直、私はその仕事をやり切る自信がないです」
のように使われるのをよく聞きます。
別にそれは構いません。

でも、ごくくだけた表現だと私には感じられます。
きちんと言うなら、
 「正直なことを言うと」「正直なところ」
と言葉を補う形でしょうか。
「正直」と単独で使うのには違和感があります。
割とオフィシャルな場面で「正直、」「正直、」が聞こえてくると、イライラしてしまう。

以前、NHKの21時のニュースで女性キャスターが、真剣な面持ちで政治的なニュースに私見を述べていました。
表情がクローズアップされていて、何かを批判するトーンでした。
そのとき、
 「正直、私にとってもこの問題は…」
という言い方をされていて。

NHKの21時のニュースは、一日の締めくくりに多くの人が見る、注目度の高い番組だと思うのです。
くだけた言い方をすることが悪いわけではないけれど、多くの人が注目する番組で、真剣な場面で、きっとそのキャスターにとっても重要な発言だったろうに、
「正直」はなんだか興ざめだった。
せっかく良いことを言っていても、軽く聞こえてしまうから。




This Is Us―36歳、これから

2017年11月16日 | レビュー
アメリカのドラマ、「This Is Us―36歳、これから」がすごく面白い。
毎週日曜、夜11時、NHK総合。

オンタイムではなかなか見られなくて、録画して見ているのだけど、録画を何度も見返してしまう。
丁寧に作られていて、セリフはもちろんのこと、登場人物それぞれのちょっとした表情、動作や、情景描写を見逃したくなくて。
部屋のインテリアや食器なんかもしげしげと見直したりしている。

主人公は36歳の3きょうだい(ケヴィン、ケイト、ランダル)。
でも、彼らの両親(ジャック、レベッカ)も主人公だ。
きょうだいが36歳である「現在」と、両親が子育て真っただ中の「過去」を行きつ戻りつしながらドラマは進んでいく。

私自身が今、38歳で、子育て中で、父親を何年か前に亡くしていて。
だからこのドラマで扱っている内容にしみじみ引き込まれるのだろう。
まだ5話までしか見ていないけれど、泣いたり笑ったりして感情がいろんな方向に揺れるのが心地いい。

いきなり3つ子の育児が始まって大混乱のジャックとレベッカ。
乳児の世話は切れ目なく続く。
やっと3つ子が静かになった一瞬、二人とも部屋にへたり込んでしまう。
「………すぐに大学生になるよ」
「………ははは」
文字に起こすと何ということもないけど、これはしみじみ共感する。
育児疲れからすぐにでも大学生になってほしいと思う気持ちも、後から振り返れば実際すぐに大人になってしまうのだろうという感慨も、何を言うんだまだまだこの子育て地獄は始まったばっかりじゃんというあきれみたいな気持ちも、全部つくづく味わったものだから。

子どもを欲しがっていなかったころのレベッカは「子どもなんか産んだら人生終わり」的なことを言っていた。
それもある意味わかる。
ランダルの妻、べスも、3人目の子どもを妊娠したかもしれないとわかったとき、「ようやく子ども2人が大きくなってきた今、仕事を再開して、自分を取り戻そうとしてるのに、またおむつを取り替える日々が始まる…」と心が揺れていた。
子を持つことは大きな幸せ・喜びであることは確かだけど、育てていく労力は甚大。
思いがけない予想外の妊娠・出産をすることになると、自分の人生設計は大きく変えなければいけない。
子どもが一人生まれれば、数年はそのしもべみたいな生活を送ることになる。
心に温めていた理想の人生は犠牲にしなければいけないかも。

それでも。
後ろから追われるようにあたふたと過ぎていく毎日でも。

私たちは親から生まれて、子どもを産んで、一人一人が鮮やかな点のような存在で、
点の上に点が重なって、それがどんどん広がって混ざり合う、始まりも終わりもない一枚の大きな絵。
大切な人を亡くしたとしても、その人は同じ絵の中にい続ける。

そうだったんですね。

『マッティは今日も憂鬱』(Finnish Nightmares)

2017年10月11日 | レビュー
先日、府中市美術館の「フィンランド・デザイン展」に行ってから、フィンランドという国に興味を抱き、
歴史や文化をもっと知りたいと思うようになった。何かよい本はないかしら。

「フィンランド」で検索してみると、旅行記や雑貨を紹介したものが多く引っかかる。
それも読んでみたい、でも、もっとフィンランドという国の歴史、文化が系統立ってまとまっているものはないかしら。

ぼんやり検索を続けていると、 

 『マッティは今日も憂鬱』(Finnish Nightmares)、カロリーナ・コルホネン著、柳澤はるか訳、方丈社

という、かわいらしい絵で綴られた一コママンガ集を発見。
フィンランド人にとって Nightmare(悪夢) だと思われるシーンを集めた「フィンランド人あるある本」とでもいうか。

※画像は方丈社HPより

早速、購入してわくわくしながら読んでみることに。

主人公マッティは、典型的なフィンランド人。
マッティにとって、

 見知らぬ人と、エレベーターで2人きりになることも、
 映画館で、列の真ん中に座るはめになることも、
 出かけたいときに、ドアの外に住人がいることも、 

 ……悪夢。

「平穏と静けさと個人的領域(パーソナルスペース)をとても大事にしています」
というマッティ。

ずっと読んでいくと、フィンランド人って私にそっくりではないかという気持ちになる。
たぶん多くの人がマッティに共感するのでは。
他人とのかかわり方にとても敏感で、人にどう見られるかを気にかけている感じ。

私の中にあるフィンランドの知識はとても少ないけれど、
 (かわいらしく爽やかなデザインの数々、ムーミン、サンタクロース、たくさんいるF1ドライバー、かもめ食堂…)
どんどんフィンランドに惹かれていっている。
フィンランドが国として独立してまだ100年である、ということも驚きだった。

もっといろいろ知るために、引き続き、フィンランドという国の歴史、文化が学べる本を探索中です。

****

キミ・ライコネンというフィンランド人F1ドライバーは、いつも感情を表に出さない雰囲気で、表彰台でもクールだけど、
その理由が少しわかったような気がした。
「笑うのは、ほんとうのときだけ。」

カズオ・イシグロの書くテーマは「記憶」

2017年10月06日 | レビュー
「カズオ・イシグロ氏、ノーベル賞受賞」のニュースでにぎわった昨晩。
報道を見ていると、当然ながら代表的な作品が紹介される。
文庫本の表紙裏に書かれている「あらすじ」をさらに短くしたような紹介が。

 『日の名残り』なら、
 ~イギリスの執事の半生を通して、伝統的なイギリスの文化を描く~

 『わたしを離さないで』なら、
 ~臓器提供のために作られたクローンの若者たちが、悩み苦しみながら生きる~

のような。

でも、「あらすじ」で見える範囲のことは、イシグロ作品においては単なる舞台設定にすぎない。
イシグロ氏は、執事と英国文化を書きたいわけでも、臓器提供やクローン技術のあり方に一石を投じたいわけでもないはず。

イシグロ氏が一貫してテーマとしているのは、「記憶」。
人間が「記憶」を持ちながら生きているということ。

『日の名残り』の執事も、『わたしを離さないで』のキャシーHも、自分の半生を読者に語っている。
物語は主人公の一人語りで進む。
これは、彼らの「記憶」を聞くということ。

執事は語りながら、自分の半生が自分の思っているような「品格あるすばらしいもの」でなかったことに気づいてしまう。
大切な恋のチャンスも知らないうちに逃して、崇高な(と信じ切っていた)執事の仕事に打ち込んでいたけれど、それは周りから見ればたいしたものではなかった。
(仕えていたダーリントン卿に自分の夢ものっけて、何かを成し遂げている気分になっていた上、戦後になってみれば、ダーリントン卿は戦中にドイツ側に肩入れした人物ということで、悪人のような評価さえ受けるようになった)
自分の人生の取るに足らなさに、人生の夕暮れ時に至って気づいてしまった一人の人間。

キャシーHのほうは、自分自身が臓器提供をするために作られた存在であることを受け止め、友人や恋人の臓器提供に立ち会う介護もこなす。
短く限られた人生の中で、常に大切に胸に抱いているのはヘールシャムでの学園生活の記憶。
そこでは「先生」たちは、生徒たちのために、「普通の子どもたち」が体験するようなことを用意してあげていた。
どうせ命を短く終えるなら、そういった体験は不要ではないか? という疑問もあるなか、ヘールシャムの子どもたちだけは特別だった。
「親」はいなくても、年長の大人に「守られ」、教育を受ける生活。
そういった記憶を持ちながら、死に赴いていくということ。
大人になった時に、ノスタルジーを感じる場所を記憶として持てていることのすばらしさ。

どちらの作品でも、大切に丁寧につむがれているのは、人間の「記憶」についてだと思う。
どんな人生であっても、その人は自分なりの記憶を大切に抱いて生きる。
その記憶がどんなものであっても、周囲から見たときにいびつなものであっても、それでよい。

そういった人間というもののことを、イシグロ氏は、冷たく皮肉ったりせず、基本的には肯定的に、優しさをもって書いていると思う。
自分自身を赦しながら、折り合いをつけて生きて行かざるを得ない人間のことを。

だから、イシグロ氏の作品を紹介されるときの、
 「伝統的なイギリスの文化」や「臓器提供を題材にしたSF」
という表面上のキーワードだけで捉えて、さらっと読み過ごしてしまうのはもったいないと感じる。

映画やドラマにもなってしまっており、映像作品だけを見る人には、なおさら「あらすじ」だけで捉えられやすい。

作品の表面に現れた「設定」だけを楽しむのではなく、作家が暗喩しているテーマを掴まないともったいない。

※イシグロ氏は、込めた暗喩に気づかないくらい物語に夢中になって(設定のみを楽しんで)くれるくらいが、作者として暗喩がうまく働いたことになるから嬉しい、という意味のことを語っているけれど。




フィンランド・デザイン展(府中市美術館)

2017年09月21日 | レビュー
府中市美術館で10月22日まで行われている、フィンランド・デザイン展に行ってきました。


土曜日に行ったせいもありますが、大盛況。
やはり人気がある、フィンランド。北欧デザイン。

フィンランドでは、芸術、アートというと、
絵画などの平面的な創作物よりも、
陶芸、家具、オブジェなど、立体物のほうがメインなのだそうです。

アルヴァ・アアルトの椅子の前では、多くの人が立ち止まって見入っていました。
木をあんなふうに滑らかにたわめて…。
木を自由に扱うとでもいうのか、木が身近にある国ならではなのでしょうか。

私が特に心惹かれたのは、フィンランドの陶磁器メーカー「アラビア」社から生まれ出た数々の美品。

シンプルな曲線と色なのに、硬質な存在感があって、食卓に革命を起こしたという「ティーマ」シリーズも素敵だし、
大ぶりの花がカラーでプリントされたお皿も優雅だった。

アラビアからは、食器だけでなく、オブジェも多く展示されていました。

オイバ・トイッカによるガラス細工の鳥たち。
形自体はシンプルだけど、なだらかな柔らかさ。
そこにいくつもの色が複雑に入っていて、光って。しばらく見とれました。
※この鳥のオブジェはミュージアムショップにもいくつか売られていたのですが、お値段は4万円~ほど。

ヘイニ・リータフフタの花のレリーフも美麗。
手のひらサイズの六角形のタイルをモザイク状に並べた作品ですが、一つ一つのタイルの模様や色合いがうっとりするほど美しい。
決して鮮やかな色合いではなく、優しく繊細。でも華やか。
一つを見てもきれい、全体としてまとまったものを見てもきれい。
どこから見てもきれい。

石本藤雄さんの花のレリーフも魅せられました。
単純化したコロンとした形の、かわいらしい花々。
色合いは渋め。釉薬がかかっていて表面はつやつや。
そばでよく見ると、ひび模様が出ていて、それがとてもきれい。
こちらもまた、いつまでも見ていたいと思わせられました。
石本さんは、アラビアの芸術部門でアーティストとして所属されているのだそう。

ミュージアムショップでは『フィンランドのアラビア手帖」という書籍を購入しました。

アラビア社の大まかな歴史や、デザインの変遷などがまとめてある本です。
アラビア社には、芸術部門(アートデパートメント)があって、
そこに所属するアーティストたちには、「直接、会社に利益をもたらす義務などは一切ない」のだそう。
会社に通って創作活動に打ち込めるのですね。
中には50年以上所属している方もいるそう。
そして、「結果的には、作家やデザイナーによる技術や素材の発展が、製品開発への貢献」につながっていくのだそうです。
才能ある人に花開く場所を用意する心意気はすばらしいです。

ほかにも、マリメッコの生地や、ムーミンのマグカップなど、フィンランドの代名詞と言えるものも多く展示されていました。

ミュージアムショップにもかわいいグッズがたくさん。
厳選に厳選して、aarikka(アーリッカ)のブレスレットを買ってしまいました。汗。