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ルイ・ヴィトンのデザインは日本の「家紋」がお手本だった

2016年06月27日 | 外国

江戸の後期あたりから、日本の浮世絵は盛んにヨーロッパに持ち込まれるようになった。ヨーロッパ人の最初の浮世絵収集家は、長崎滞在経験があるオランダ人ティツィングといわれる。幕末期にはシーボルトが大量の浮世絵をヨーロッパに持ち帰り紹介している。

 

この浮世絵が、西洋絵画に大きな影響を与え、ジャポニスム運動を引き起こしたことは有名です。ジャポニスの波は音楽界にも広がり、ドビュッシーは葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を見て交響曲「海」を書いたという。浮世絵の衝撃はヨーロッパ中に響き渡った。

*ジャポニスムはフランス語で、ヨーロッパで見られた日本趣味のことを指す。

 

日本の浮世絵という物が版画であったという事もあり、海外へ大量に作品を送り出せるという側面もあったことから、それは単なる芸術家の中だけにあるものだけでなく、一般的な層(といっても裕福な層)へもこの日本趣味というものは広がっていったのです。そうしたものは1870年の段階でフランス美術界において異常なほどの影響を誇っていたため、1876年には「japonisme(ジャポニスム)」という言葉が、フランス語の辞書に登場するまでになっていました。

 

それまでは、ヨーロッパでは一般的に女性を描くとなると、聖女だったり、また有名な人物を描くことがほとんどで、ある種宮廷画家のような側面を持っている事が芸術家としては一般的な物だったのですが、庶民の女性や、街の中にいるありふれた女性をモデルにして、自由に描いても良いというそのスタイルを、決定的に明示したというところも、このジャポニズムの影響だと言われています。

 

19世紀後半からは写実主義が衰え、印象主義を経てモダニズムに至る変革が起きました。この大きな変革の段階で決定的に作用を及ぼしたのがジャポニスムであったと考えられているのです。このジャポニスムは流行にとどまらず、それより後の1世紀近く続いた世界的な芸術運動の発端となったのです。

 

またこれは当時から必ずしも芸術の分野だけに限定して影響を与えていたわけでは無く、たとえば、ルイ・ヴィトンのダミエキャンバスやモノグラム・キャンバスといったものも、市松模様や家紋の影響がかかわっているのです。

*モノグラム・・・、2つの文字や書記素を組み合わせた記号。 個人や団体の頭文字で作られ、ロゴタイプとして使われることが多い。

 

ルイ・ヴィトンのデザインを代表するといっても過言ではない、このモノグラムは、様々な文化の中でも、特に日本の「家紋」の影響を強く受けていると言われています。実は、当時ルイ・ヴィトンを悩ませていた一つの問題がありました。「模倣品」いわゆるニセモノ品の横行です。ルイ・ヴィトンの活躍を妬む同業者によるニセモノに対して、ルイは次々と新しいデザインを生み出すことで対抗したのです。

 

そして生まれたのが、日本の市松模様の影響を受けたとも言われる「トアル・ダミエ」。しかし、一向になくならないニセモノに、もっと複雑な柄を描かなければ、ということで生まれたのが、ダミエと同じく、日本文化である家紋の影響を受けたと言われるモノグラムだったのです。

 

創業者のルイ・ヴィトンのイニシャル、そして花・星を表すこのモノグラム。実際、ジャポニズムの巻き起こっていたパリではなんと日本の家紋を紹介する本がベストセラーとなっていたという事実もあるのです。

 

絵画の世界ではゴッホ、ルノアール、マネ、モネ、ロートレックといった印象派の画家たちがこぞって浮世絵に傾倒し、モチーフ、構図、色使い、平面表現など多くの点で強い影響を受けている。浮世絵なくして印象派はない、といわれる所以なのである。

 

この浮世絵が後に印象派を形成するフランスの若手画家たちに広まるのに、一つの偶然が介在している。それは1856年、版画家のブラックモンが印刷屋の片隅で日本から送られてきた陶器の箱を見つけたときのことだ。陶器を保護するクッションの目的で一冊の赤い表紙の本が使われていた。

 

それが『北斎漫画』だった。北斎のデッサンにすっかり魅せられたブラックモンは、『北斎漫画』を友人のマネやホイッスラーに見せて回ったという。このブラックモンを通じて浮世絵は、印象派の画家たちに広まったのです。

 

そのヨーロッパ、とりわけフランスで本格的なニッポンブームが起きるのは1867年のパリ万博からです。幕府のほか、独自に薩摩藩、肥前藩が参加し、そこで展示された日本の工芸・美術品は絶賛を博したのでした。

 

1880年代に入ると、印象派の画家たちは、浮世絵の影響からフランス美術界に一大ジャポニスムを展開した。なかでも浮世絵の模写を残したゴッホの日本への傾倒ぶりは特筆される。

 

たとえば、「タンギー爺さん」と題した一枚の肖像画がある。柔らかい表情をした年寄りの背景に、六枚の浮世絵の模写を配した肖像画です。日本人の目からすると奇異な取り合わせだが、この絵から日本に対する憧憬ともとれるゴッホの思いが読み取れるのです。

 

「僕は小市民として自然の中に深く投入しながら、だんだん日本の画家のような生活をしてゆくだろう。僕がかなり老齢まで生きのびられたら、タンギー爺さんみたいになるかもしれぬ」と書いたゴッホの手紙が残っている。

 

ゴッホは物静かなタンギー爺さんを日本人と重ね合わせていたというが、狂おしいほどの日本への思いがゴッホをとらえていたことは事実だ。「日本人のように生きる」「日本人になる」―-これがゴッホの創作活動の支えとなっていたのです。

 

その後、葛飾北斎や喜多川歌麿を含む日本の画家の作品が海外へと渡るようになると、ヨーロッパにて絶大な影響を与えました。

 

日本では文明開化が起こり、浮世絵等の出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受け、そんな日本美術から影響を受けた著名なアーティストは前述したように多数います。

 

実際に浮世絵が与えた影響は、単なるジャポニズムに収まりません。

そもそも浮世絵は線で構成されていて、何も無い空間と図柄のある部分に輪郭線がくっきりと分かれ、立体感はほとんど無いというもので、これらの特性はアール・ヌーボーに影響を与えています。

 

浮世絵の直線と曲線による表現方法は、その後、世界中の全ての分野の絵画、グラフィックで当たり前のように見ることができるようになりました。これらの浮世絵から取り入れられた形状と色彩構成は、現代アートにおける抽象表現の成立要素のひとつと考えられます。

 

ジャポニスムによって、その後の家具や衣料から宝石に到るまであまねく工芸品のグラフィックデザインに、日本的な要素が取り入れられるようになりました。

 

音楽に関しては、ジャコモ・プッチーニの有名な『蝶々夫人』がジャポニスムの影響を受けています。また、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによるオペレッタ『ミカド』は、ロンドンのナイツブリッジで行われた日本の展示会から着想を得たものでした。

 

江戸時代の日本文化は、西洋社会に大きな影響を与えたのです。

西洋美術に音楽にそして今、世界を席巻している「ルイヴィトン」にも影響をもたらしたのです。

私たちの先人は昔からそのような能力の高さを身につけていたのです。そのような志ある、センスの高い人々が日本に生まれていたという事実を再認識したいと思います。

 

江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿、東洲斎写楽、歌川広重、葛飾北斎などの各先生に、お礼申し上げます

 

---owari---

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