自分のことを「かわいそう」などと思って自己憐憫をしていても、それは、ほかの人には別に関係のないことです。多少はかわいそうに思ってくれることがあるとしても、やはり、長くは相手にしてくれないのは、まず間違いありません。延々と長く引きずっている人のことを相手にはしてくれないのです。
しかし、そういう人は、自分が人から愛を奪っているとは思っていません。そうではなく、悲劇のシンデレラのような感じで、自分のことをかわいそうだと思っているのです。
ところが、自分のことを一生懸命に慰めてばかりいるような人というのは、基本的にほかの人のことを考えていないところがあります。そのため、非常に自己中心的に見える面があるのです。しかも、その自己中心的に見えるところを本人が分かっていないことが問題なのです。
そして、「他人が自分を傷つけた」「他人が自分のことを悪いと言った」というようなことばかりが気になるようになります。そのようなところは、やはり、できるだけ早く切り替えなければいけませんが、思想においてこれを乗り越えることは可能なのです。
例えとして、「板に打ち込んである釘を一生懸命に抜こうとしても、なかなか抜けないけれども、その釘の上に次の釘を打ち込むと、先に打ち込まれていた釘が板の下に抜けていく」という話があります。
これは、「一人の人間のなかで、二つの別の感情を同時に持つことはできない」ということをたとえたものです。「暗い心」と「明るい心」を同時には持てないのです。
暗いジメジメした考えを持つのと同時に明るい気持ちで生きるということは、なかなかできることではありません。今述べた釘のたとえのように、「板の釘の上から次の釘を打てば、先に打たれていた釘が抜ける」という関係にあるのです。
したがって、もし、暗い気持ちや沈んだ気持ちになっているのであれば、いかに早くその反対のものに変えてしまうかが大事です。
そういう暗い気持ちが続いている間は、自分自身も惨めでしょうが、その惨めな自分と接する、家族や会社の同僚、あるいは、その他の関係のある人々から、さまざまな愛を奪って生きているわけでもあるのです。
しかし、そのことに本人は気がついていません。いくら慰めても慰めても、よけいに悲劇の主人公のようになり、愛をもっと吸うタイプになっていきます。これはまだ、人に迷惑をかけていると思っていないのです。そうではなく、「自分が純粋だから傷つくのだ」と思っているところがあります。
人生において、失敗は数多くあります。うまくいかないこともあります。自分の常識と世間の常識が違うこともあります。あるいは、会社の伝統と合わないこともあります。いずれにせよ、「“失敗の釘”を打ち込んでしまった」と思ったならば、その釘の頭に、“光明思想の入った釘”を新たに打ち込んで抜いてしまわなければいけません。
要するに、「マイナスに対してはプラスでもって対応する」ということです。例えば、落ち込むことがあれば、今度は、もう一歩、違うところから攻めてみるのです。こういう考え方をすれば、ずいぶん楽になるのではないでしょうか。
---owari---