このほど、「越後瞽女(ごぜ)唄」なるものを、初めて生で聴く機会があった。
瞽女というのは、世に知られているように、三味線をひいて、唄をうたい、銭や米などを乞い歩いた、盲
目の旅芸人のことである。昭和52年を境に、いまは、その姿を見ることはなくなった。
彼女たちは、かつて「乞食さん」「遍路さん」と呼ばれていた。
いつも、仲間同士で、同じ形の荷を背負い、同じ形の丸笠をかぶり、白布をまいたあご紐をかけ結んで
手を前を行く人の背に支えて、三人四人と縦に列になって歩く・・・。
そして、阿弥陀堂と言われる、村はずれの、葬式のときにしか使われることのない、破れた古堂に泊ま
って、一夜明けるのを待ち、それから、いつもの家々の「門付(かどづけ)」に向かうのであった。
「越後瞽女(ごぜ)唄」は、瞽女たちが、主として、新潟地方の村々を訪れ、戸口や軒先に立ち、いわゆ
る「門付」をして廻るときに唄われたものである。
この「門付唄(かどづけうた」には、「瞽女松坂」とか「巡礼おつる」「瞽女万歳」などもあって、中には30
分から3時間近くうたい続ける長い唄もある。
今回、これらを熱唱する室橋光枝さんら、「越後瞽女唄」を伝承する会の、彼女たちの不思議と澄んだ
唄声は、ときに哀調を帯びてかなしく、ときに朗々として会場いっぱいに響き渡った。
瞽女(ごぜ)唄は、当時の一種のはやり唄であり、ときにはわらべ唄のように、またときには読経や御
詠歌のようにも聞こえた。
今回の公演は、神奈川県では初めてだそうで、満席に近い会場は、途中で席を立つ人もなく、終演の
拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
それに、瞽女研究家の高橋実氏の話も手伝って、珍しく時間を20分もオーバーしてしまった。
瞽女(ごぜ)は、遠くは室町時代からいたと言われ、家族、親戚からも離反され、自分たちだけで、過
酷な人生を生きてゆかなければならなかった。
同じ境遇の、仲間同士が相寄り集まって・・・。
そして、それは集団となって、小さいが幾つもの組織を作っていったのだと聞いた。
瞽女は、幼い6,7歳から修行に入った。そこには、徒弟制度まであったのだ。
瞽女としての「修行」の第一歩は、見えない眼で、針に糸を通す作業だという。
さらに、彼女たちは、男性と情を通じてはならない、もちろん結婚も許されないという厳しい掟を守りな
がら、、「修行」を続け、二十年三十年と生涯を生き抜かなければならなかった。
「修行」には、瞽女としての躾け、礼儀作法もあったという。
掟を破った瞽女は、「はなれ瞽女」として、瞽女仲間からはずされる。
集団から離れては、生きてはいけない。
彼女たちにとって、たった一人で、あまりにも過酷な人生を生きてゆくことなど、死に等しかったのだ。
同じ生を受けながら、何の罪もないのに、盲(めしい)という宿命を負わざるをえなかった瞽女たちは、
それこそ、「怖ろしい先祖の崇りじゃ」と誰からも疎まれて、冥府苦界の道をさすらうこととなった・・・。
それでも、彼女たちは、わが身の悲哀や苦悩を封印してまで、人々には歓びや祝い唄まで献上した。
自分たちが、いかに不幸な運命にあろうとも、人々には、希望と幸福をと、おのれに背反する葛藤の生
涯なのであった。
そう、「乞食さん」と呼ばれ、物乞い人の身を借りて・・・。
この時代、越後高田、長岡、寺泊、柏崎は言うに及ばず、津軽、丹波、若狭など、全国各地に、かなり
多くの瞽女がいたと言われる。
痛ましいのは、親子親族との別離、離反、虐待である・・・。
越後瞽女の、最後の瞽女と言われる、中静みさおさんが亡くなったとき、葬式はもちろん、その墓前に
家族や親族が姿を見せることはついになかったのだ。
瞽女唄の背景には、まさに、言葉では到底語りつくせぬ、暗い、痛哭(つうこく)の歴史がにじむ・・・。
そして、過ぎ去った一時代のこととはいえ、その哀しさ、切なさが、多くの人の憐憫をさそってやまない
のである。
・・・ともすれば、瞽女の話は、目を背けたくなるような哀話である。
今の世に、瞽女は、いない。
人は逝き、唄だけが残った・・・。
「越後瞽女唄」と「瞽女」の話は、越後(新潟)の山村に、いま、このひめやかな歴史を静かに伝承する
人たちの手で、唄によって語り継がれている。
聴く人の心に、惻惻として迫ってくる「瞽女唄」・・・。
生きて、決して、こころ癒されることのなかったであろう女たちの、はかない吐息のように・・・。
「越後瞽女唄」を聴いて、その時代の苦界を生きた女性たちのありし日が偲ばれて、熱いものがこみ上
げてくるのを禁じえなかった・・・。
水上勉の小説「はなれ瞽女おりん」を想いだして、もう一度読み返してみようと思った。
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文中の、瞽女研究家の高橋さんのお話のすべてを、もっとご紹介したかったのですが、語ればさらに長くなりますので・・・。
幕末の頃、越後高田や長岡の藩主は、盲目の女たちに「瞽女屋敷」をつくらせたという記録も、文書に残っているといいます。
「美しい日本」など、果てなく遠く思われていた暗い時代(といっても、まだそう遠くはない昭和の時代)の歴史から見れば、ほんの小さなフィルムのひとこまかもしれませんね・・・。
瞽女唄に触れ楽しかったようですね。
もう瞽女さんもいませんが伝統芸能は後世につなげていきたいものです。
年末に世田谷で瞽女唄公演を企画してます。もしよろしければお越しください。(^^♪
http://blog-eda.net/gozeuta/
楽しめると思います。
貴重なお話(ホームページ)、大変参考になりました。
お時間をつくりぜひお越し下さい。
http://blog-eda.net/gozeuta/
なかなかお伺いすることができませんが、今後もお元気でご活躍をお祈りいたします。