徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「私の叔父さん」―繊細な心情で綴られる封印された愛の真実―

2012-05-22 12:00:00 | 映画


 どこまでが本物で、どこからが偽りなのか。
 本当の愛とは何だろうか。
 連城三紀彦は、男と女の心の襞や綾を描く作家としては、仕掛けの名手である。
 連城三紀彦の短編の名作を、細野辰興監督が映画化した。
 原作も素晴らしいのだが、細野監督はセピア色の輝きをそのままに、まことに魅力ある映像世界を作り上げた。
 よくできた、作品だ。

 叔父と姪という二人の、19年にわたる、禁忌ゆえに一層切ない本物の愛とは・・・。
 ドラマも骨太だし、繊細な純愛映画の趣きだが、どこか息が詰まるような切なさも感じさせる。
 









田原構治(高橋克典)は、四十代の売れっ子カメラマンだ。

大学受験のために上京し、自分のマンションに寝泊まりさせていた夕美子(松本望)の発言に言葉を失った。
夕美子の母親で、18年前に夕美子を生んで間もなく亡くなった夕季子(寺島咲)は、構治の姉の郁代(松原千恵子)の一人娘で、構治とは叔父と姪にあたる関係であった。
18歳になった夕美子は、なぜこのような疑問を持ったのか。
18年前に、構治と有季子との間に何があったのか・・・。

夕美子が、福岡へ帰った後である。
構治の姉郁代から連絡があって、夕美子は妊娠していて、しかもお腹の子の父親は構治だと言い張るのだった。
福岡の実家で、構治を交え、郁代、、そして夕美子の父布美雄(鶴見辰吾)に対して、夕美子は母夕季子と構治が愛しあっていたと言い張り、その証拠として、構治の撮った、赤ん坊の自分を抱いた母夕季子の5枚の写真を見せるのだった。

夕美子の執拗な追及に、構治の想いは18年前に遡っていく。
・・・構治と夕季子は、兄妹のように育った6つ違いの叔父と姪だ。
ある日、東京でカメラマン修行をしている構治のもとに、見違えるように綺麗になった夕季子が上京し、7年ぶりで再会を果たした。
その一か月後、再度上京した夕季子は、一カ月何処へも行かずに、献身的に構治の世話を始める。
お互いがお互いの気持ちを察しながら、二人の恋愛模様が微かに回り始めるのだった・・・。

細野辰興監督のこの映画「私の叔父さんは、原作に忠実に、上質なミステリーのような緊迫感をはらんでいる。
心の内側をなぞるように、ドラマの世界に入ると、作品の各場面、登場人物のセリフひとつとっても、精緻な組み立てで、物語が進行する。
18年前の偽らざる過去と、そして現在とを巧みに交錯させている。
ひとつの死で終わったはずの愛と、ひとりの男の再生のドラマだ。
原作とていささか古風でも、人の愛とか心情はいつに時代も変わるものではない。

主演の高橋克は、テレビドラマでも売れっ子の好漢で、この作品では、26歳と45歳という年齢差のある二役を演じている。
年齢差にはかなり無理(!)があるかと思うが、共演の寺島咲とともに、よく頑張っている方だ。
むしろ、主人公に気合が入りすぎていることのほうが気になる。

ドラマの中、叔父と姪という、男と女の間に揺れる心に抗いながら、もう帰れというのに夕季子は帰りたくないといい、「兄ちゃん」のそばで暮らしたいという。
構治が、飲み屋の女をわざと自室に連れ込むと、夕季子は「私が、毎晩下着洗ってるの、何故だと思ってたのよ」と、泣き出す始末だ。
姪は福岡へ帰り、結婚して娘を産み、交通事故で死ぬ。

19年後、その娘夕美子が構治のところへ遊びに来て、帰る。
そして、お金を貸してほしいといって、構治を訪ねたとき、構治が東京駅で撮った赤ん坊を抱いている5枚の写真・・・。
母さんの顔を見てよと、それを見ると、声には出さないが、唇の形が、あ、い、し、て、る、と言っている。
ここのところは、原作も映画も、思わずどきっとさせられる場面である。
構治は思ったに違いない。
19年前、自分も夕季子も、本当の気持ちを嘘にしたのなら、いまこの嘘を真実に・・・と。
何ともミステリアスな、あざやかで哀しみの滲む終章である。
ただ、文芸作品なので、ちょっと現実離れのした、無理造りの(?!)話ではある。
でも、それをくどくど言っちゃあ、映画なんて観てられないということになる。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

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映画「ファミリー・ツリー」―人間の懐の深さと人生の豊かさを謳い上げるハートフルな物語―

2012-05-19 19:00:00 | 映画


 アカデミー賞脚色賞
受賞した、アレクサンダー・ペイン監督(脚本・製作共)アメリカ映画だ。
 大地に根を張って、受け継がれる家族の系譜、それが「ファミリー・ツリー」だ。

 洒脱な役柄から、シリアスな演技まで、自由自在に役を生きる俳優ジョージ・クルーニーが、この作品で初めて等身大の父親役に挑戦した。
 それは、欠点を抱えながらも、人生のほろ苦さや驚くような出来事を経験し、何とか自分なりの生き方を見つけようとする男だ。
 生意気な娘たちからは信用されず、妻には浮気をされ、文無しの従兄弟たちからは、金のなる木とみなされている。
 主人公を演じるジョージ・クルーニーは、ダークな可笑しみと人間的な味わいのある役が多かったが、そうしたこれまで演じてきた役柄とは一味違うキャラクターが描かれる。
 その男を中心に綴られるこの物語は、その家族の系譜と深遠なテーマを、上質なユーモアと軽やかな語り口で描いている。

     
ハワイ・オアフ島に生まれ育った、弁護士のマット・キング(ジョージ・クルーニー)は、美しい妻エリザベス(パトリシア・ヘイスティ)と、二人の娘、長女のアレックス(シャイリーン・ウッドリー)と次女スコッティ(アマラ・ミラー)と、何不自由なく暮らしていた。

ところが、ある日突然、エリザベスがパワーボートのレース中に事故に遭い、意識不明の昏睡状態となってしまったのだ。
マットは、予想ももしない人生の危機を迎えていた。

妻エリザベスには、さらに恋人までできていて、離婚を考えていたことも発覚し、長女までがその秘密を知っていた。
重なる事態から、10歳になるスコッティもショックで不安定となり、様々な問題を起こし始めていた。
マットは、娘たちをどう扱ってよいのか、見当もつかないでいた。
さらにマットは、カメハメハ大王からの血を引く先祖から受け継いだ、広大な土地の行方について決断を迫られていたのだ・・・。

だが、妻エリザベスは眠り続け、限りある余命はいくばくもなかった。
妻が回復したら、贅沢な生活を楽しませてやろうと思っていたが、その道は閉ざされたままだ。
エリザベスが浮気をしていたとのアレックスの告白は、心から母を愛しているからであったが、その娘の突然の告白にマットは激昂し、何と浮気相手の親友夫妻を問い詰めるのだった。
彼らは、エリザベスが本気でマットとの離婚を考えていたことを、知っていたのだ。
妻への怒りに震えながらも、マットは彼女のために、相手のブライアン・スピアー(マシュー・リラード)に会うことを決意した。
そして、マットは娘二人と家族の‘絆’を取り戻す旅に出るのだが・・・。

全く予期せぬ形で人生の転機を迎えたマットは、家族、人生、そして生命とは何かという問いを突き付けられる。
・・・マットは、やがて大きな希望に満ちた答えにたどり着くのだが、地上の楽園ハワイの澄みきった自然を背景に、温かな人間同士の絆が生まれてくる。
生きるパワーとともに、全編に流れるハワイアン・ミュージックが、優しく心地よい。

主役のジョージ・クルーニーが、微妙な心の揺らめきを絶妙に演じている。
この作品のはまり役である。
もちろん、アレクサンダー・ペインの演出の妙によるところも大きいが、何気ない場面でさえ、深く鋭い吟味、周到な演出が施されているのだ。
マットが妻の浮気を知って、我を忘れて一目散に走りだす場面や、病院で昏睡する妻に語りかける場面などは、長年連れ添った夫婦にしかわからない、そこはかとない感情を伴っているし、生垣(?)の向こうでひょっと顔を出すシーンの可笑しさなど、どれをとってもリアルでさりげなく、どこまでも誇張しない自然体が上手い。
可笑しいやら、あきれるやら、あれまあ・・・、といった感じで、一体何が起こったのかと・・・。
本来ニヒルでダンディな男が、ここではダメ男を演じている。クルーニーが、いい味を出している。

マットに感情をぶつける、二人の娘の存在も忘れてはならないだろう。
長女役のシャイリー・ウッドは、新進女優だが、怒りと悲しみを抱きながら、その心の変化を繊細に表現しているし、次女のアマラ・ミラーのちょっとふてぶてしい感じといい、面白いキャラクターが揃っている。
さすが、脚色賞である。セリフがよく練れている。

妻は植物人間になってしまって、何も語ることができなくなってしまっている。
その妻が、夫の知らない間に浮気をしていて、あげくには離婚まで考えていたことを友人から知らされるマット・・・。
当の自分は、それに気付いていなかったのだ。
青天の霹靂である。
そうして、父親として、娘と初めて向き合う姿勢になる男、クルーニーの新しい一面がのぞく。
実際はかなり重いテーマを扱っているのに、観終わってみると、それがまことに軽やかなことに気づく。
こんな壮快感には、あまりお目にかれない。

病室で、主人公がまだ眠り続ける妻に語りかけるシーンでは、妻から一言の言葉も返ってくるわけはないのだが、そんな非情なシーンでも、何とも言えない温かさが込み上げてくる。
映画のラスト、妻が亡くなって、二人の娘に挟まれて、クルーニーが三人で膝かけで半身をくるんで、みんなでアイスクリームを食べながらテレビを見るシーンが、何だかとてもいいのだ。
真剣な表情をした父親の手が、娘の手に触れている・・・。
あのシーン、ほんと、よかった。(笑)

家族の再生を描く、この作品の絶妙なラストである。
アメリカ映画アレクサンダー・ペイン監督「ファミリー・ツリー」は、控えめのユーモア、抑えた悲しみ、押しつけがましさのない、調和のとれた秀作である。
いい映画だ。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「幸せの教室」―明日を好きになれる場所はどこに―

2012-05-17 03:00:00 | 映画


 アカデミー賞に二度輝いたトム・ハンクスが、監督・脚本・製作・主演のすべてを手がけた作品だ。
 そして、これまたオスカー女優・ジュリア・ロバーツとの共演を実現した話題作なのだけれど・・・。

 人生は何が起こるかわからない。
 それは誰にでも起こりうる。
 今を生きる大人たちは、この作品をどう見るだろうか。

 アメリカの俳優たちの、社会意識の高さと心意気を感じ取ることは容易だ。
 アメリカの、正規雇用の労働者のリストラによる失業者数は、1981年から2003年にかけての23年間で、2000万人にものぼるといわれる。
 もし、自分がかりにリストラによって突然失業に追い込まれた時、どうするか。
 いろいろな生き方があるだろうが、日本人にとっても、労働者の首切りは大きな問題だ。
 この問題提起は結構だ。
 でも、教室での幸せとはいったい何なのか、どうもこの作品の描き方は物足りない。

     
学歴を理由に、勤務先の大手スーパーをリストラされたラリー・クラウン(トム・ハンクス)は、再就職のためにスキルを身につけようと、コミュニティ・カレッジ(短期大学)に入学する。

その大学で、スピーチを教えるメルセデス・テイノー(ジュリア・ロバーツ)は、結婚生活が破綻してアルコールに走り、教師としての情熱を失っていた。
ラリーは、初めてのキャンパスで、年齢も境遇も違う様々な人たち(生徒)と出会い、充実した毎日を送り始める。

カレッジの授業を糸口に、ラリーにとってはすべてが新鮮だし、そんなラリーとの交流を通して、メルセデスも改めて自分と向き合い始める。
いつも仏頂面で、自分の中に眠っている可能性に目覚めていく中年男ラリーと、酔っぱらって暴言を吐いたりするが、ほんとは愛らしいメルセデスの二人が、それぞれ幸せな未来を見出そうとするのだが・・・。
そんな幸せの予感を抱かせつつ、ドラマは淡々と、本当に淡々と展開する・・・。

こんな話は、どこにでもあるような話である。
しかし、ドラマは正直言って退屈きわまりない。
アカデミー賞二大俳優の競演で人気にはなっているが、トム・ハンクスジュリアロバーツにはこの作品はまるっきり役不足で、二人の出演が気の毒と思うほかない。
コミュニティ・カレッジでの授業や、生徒たちとの交流といっても、平凡でどこが楽しいのかわからない。
物語がひどく散漫で、プロットに新味も魅力もない。
トム・ハンクスは、監督と俳優のふたつの役をこなすことでうきうきしているが、演技と演出の切り替えが出来ているのか疑問だ。

教壇に立つ情熱を見失った教師のメルセデスにしても、突然のリストラで一学生となったラリーにしても、ともに存在感が薄く、魅力あるキャラクターとは言い難い。
場面ひとつとっても、ありきたりの次の展開は読めてしまうし、しきりに笑いを誘おうとするが、お決まりの筋書きも月並みで、退屈で、そんなところを延々と見せられて、飽き飽きする。
このハりウッド作品が、アカデミー賞俳優のハートフル・ストーリーとは・・・!。
もっと、素敵な大人のロマンティック・コメディに期待したが、ものの見事にそんな期待は裏切られる。
ドラマの中で、経済学の授業で隣り合わせたタリア(ググ・パサ=ロー)に誘われて、彼女の恋人の率いるスクーター仲間に入り、センスのいいタリアのラリー改造プロジェクトらしきものが始まり、ラリーが、さえないおやじから少しでも洗練された大人の男へと変わっていくところと、嘘くささのあまりないところは、また別としても・・・。
まあいずれにしても、このアメリカ映画「幸せの教室」は、豪華な大スターの競演という触れ込みながら、肝心の面白みが乏しい。
敢えて言わせてもらうと、駄作に近い凡作だ。

この映画で、アメリカの大学システムにおける、コミュニティ・カレッジの位置や役割については理解できる。
ドラマでは、主人公ラリーは50代という年齢で一念発起し、コミュニティ・カレッジに通い始めるが、学校の生徒の年齢構成はやはり24歳以下が6割以上で、次いで35歳から54歳までの学生も多く、中には80歳の高齢学生もいる。
職業にそのまま役立つ技術や資格を取得できる、社会人のための職業教育もあり、ダンスの授業まであるそうだから、日本の専門学校に近い感じではないだろうか。
     [JULIENの評価・・・★☆☆☆☆](★五つが最高点

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映画「孤島の王」―自由を渇望する少年たちの痛切な魂の叫び―

2012-05-15 13:00:00 | 映画


 北欧発の小品ながら、なかなか見応えのある一作だ。
 ノ ルウェー本国でもあまり知られていない、歴史の一部を切り取ったドラマだ。
 実話をもとにしているが、それほど遠い昔の話ではない。
 ほとんどの人は知る由もない、不条理な現実が描かれる。
 はっきり言って、暗く痛ましい、衝撃のドラマに胸を締めつけられる。

 ノルウェーの首都オスロの南方に浮かぶ、バストイ島が舞台だ。
 この島には、かつて11歳から18歳の少年向けの矯正施設が存在し、1915年には軍隊が鎮圧に乗り出すほどの、壮大な反乱事件が勃発した。
 マリウス・ホルスト監督は、その歴史の闇に光をあて、圧倒的なリアリティと、静謐な映像美で、想像を絶する重い真実を炙り出している。



     
1915年、ノルウェーのバストイ島にエーリング(ベンヤミン・ヘールスター)という非行少年が送還されてくる。

そこで、彼が目の当たりにしたのは、外界と隔絶した矯正施設の、あまりにも理不尽な現実だった。
島では、厳格な院長(ステラン・スカルスガルド)のもとで、大勢の少年たちが、青い作業着をまとい、過酷な自然環境での労働に従事していた。
そこでのいじめにも似た重労働の刑罰、教育者による性的な虐待は日常茶飯事であった。

偉大なる王のように君臨する院長や、冷酷な寮長ブローテン(クリストッフェル・ヨーネル)に、エーリングはことあるごとに反発を繰り返していた。
エーリングの孤独な抵抗は、施設の優等生オーラヴ(トロン・ニルセン)ら、過剰な抑圧にさらされた少年たちの心を突き動かした。
自由を渇望するエーリングとオーラヴは、ある日、監守の一瞬の隙をついて、監禁室の暗闇から脱出し、彼らの命がけの抵抗は、ついに監獄島(バストイ島)をゆるがすまでの凄まじい反乱へと発展していくのだった。

この世の果てとでもいうべき、過酷な極限状況を生き抜く、少年たちの魂の叫びが凄い。
少年たちの、自由への渇望、友情と葛藤を活写して、その心理描写は繊細でかつみずみずしい。
昼なお日の射さない荒涼とした風景、一方見渡す限り広がる雪景色、真冬の海は結氷し、危険を顧みずにその氷の上を渡って脱走を試みる若者たち・・・。

北欧に実在したドラマには、かくも凄まじい真実が隠されていたのか。
ひたすら自由を求め、希望を抱こうとする少年たちの、澄んだ眼差しや勇気ある決断が胸を打つ。
マリウス・ホルスト監督による、ノルウェー・スウェーデン・フランス・ポーランド合作「孤島の王」は、全篇ノルウェー語で描かれる、極限の孤島サバイバルと脱出のサスペンスは、もう見応え十分である。
院長役の名優ステラン・スカルスガルドは、「ドラゴン・タトゥ―の女」で知られるが、それ以外は少年たちをはじめほとんどが、無名のスタッフ&キャストによる作品だ。
それでいて、ノルウェー国内外において、数多くの映画賞に輝いたのも、この作品の並々ならぬクオリティを裏付けているようだ。

1915年5月20日に、実際に起こった少年たちの反乱をもとにしており、鎮圧のため150人の兵士が島に上陸したといわれる。
映画で使用された軍艦は、当時使用されたものと同型のものだそうだ。
未来に生きようとする、少年たちの力が反乱につながったのだが、そこにこのドラマの感動的な強さがある。
どんな人間にだって、命の尊厳がある。
観る者の期待に、十分応えうる、力強い物語である。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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<魔女狩り>暗黒の小沢裁判―税金のムダ遣いいつまで―

2012-05-13 19:30:00 | 雑感

長く不毛な小沢裁判に、東京地裁の無罪判決でようやく区切りがついたかと思っていたら、これに対して検察官役の指定弁護士が控訴した。
何とまあ、あきれた話で、もううんざりする。
いま未曾有の国難のさなかで、また政治の混乱が繰り返される。
こんな不毛な裁判を続けていて、誰が得をするというのか。
国民に、どんなメリットがあるというのだろうか。

今回の小沢裁判の控訴には、理解できないことが多い。
二度の無罪判決で、もともと裁判そのものに無理があった。
新しい証拠もなく、検察の捏造による捜査報告書に基づく裁判だった、
検察の不当捜査が、組織ぐるみで行われていたことは間違いない。
民主党の小沢元代表に対する無罪判決は、そのまま、いまや威信が地に落ちた検察に対する有罪宣告だ。
なりふり構わずに控訴を決めた指定弁護士は、事実認定に誤りがあるなどといっているが、その本当の狙いはどこにあるのか。

政治資金規正法違反というが、収支報告書には日付とか金額の間違い程度はざらにある。
報告書の修正だって、去年だけで581件もあったそうだ。
それも、単なる政治資金報告書の記載漏れに過ぎない。
小沢事務所だけが、どうやら大々的な事件にされてしまった感がある。
たかが期日のずれなどちっぽけな問題で、馬鹿馬鹿しいゴミのような話だ。
そんなことで、損をしたとか被害にあったなどという話は聞いたことがないし、国民の生活には何の関係もない。

西松建設事件や陸山会事件にしても、小沢氏関連のゼネコンまで軒並み強制捜査の対象になったが、検察の期待した犯罪は何も出てこなかった。
こんな小沢裁判を延々と継続して、いったい誰が得するのか。
無罪といっても、控訴となれば足かせ状態で、これからまた刑事被告人として生殺しの日々が続くことになる。
小沢氏がもし完全無罪となって暴れられたら、野田内閣や官僚やマスコミが困るというのか。
そんな弱腰でどうするのだ。
マスコミも、自分たちにとって都合の悪い人間はとことん貶めて、抹殺するしかないというのか。
怖ろしい話である。

小沢捜査の端緒となった西松事件にしても、ゼネコンの西松建設から、政治資金献金を受け取っていた政治家は18人もいるそうだし、そのほとんどは自民党議員だ。
それでいて、自民幹事長らまでが、やいのやいのと騒いでいる始末だ。
小沢嫌いで、松下政経塾とか出身の、俗称言い出し番長こと、あの民主政調会長は、裁判は三審制だから最高裁もあると息巻いている。
この人、自分の政治資金規正法違反を棚に上げて、よくそんな偉そうなことが言えたものだ。
ことほどさように、ザル法とまで言われる、政治資金規正法に抵触しない完璧な国会議員なんて、いまどき皆無に等しい。

小沢氏を強制起訴した検察審査会の判断は、妥当といえるのだろうか。
うがった見方をすれば、正義すらもなく(?)指定弁護士が控訴したのであれば、小沢氏が有罪となるまで徹底的に裁判で争うということか。
こんな騒ぎになってしまって、それでもまだ延々と続けるのか。
検察審査会は、そもそもが憲法違反の存在だともいわれる。この制度は、見直さなければいけないのだ。
有罪の判決が出るまで、裁判は終わらないって・・・?。
しかも、このいい加減でデタラメ、不法な裁判に、国民の税金がじゃんじゃん浪費される!
とんでもない話だ。
そして、それを追いかけるマスコミが政治を巻き込んで、また極悪犯罪のように拡大喧伝し、煽り、ただでさえ迷走している政局までが、さらにぐちゃぐちゃになってゆく。

・・・誰にだって、人権がある。
小沢氏がもし完全無罪となったら、著しく政治生命を断たれたその責任は、一体誰が負うのだろうか。
検察によってでっち上げられた、あの村木事件の冤罪と同じように、国家が賠償するのだろうか。
何もかもが、最初から有罪ありきの謀略捜査ではなかったのか。
村木事件と、同じ構図だ。
そんなことは、絶対にあってはならない。
恐怖の謀略である。

それで小沢問題は、なんだかんだと、かれこれもう3年以上も続いている。
しかも、今も、政治的謀略と人権侵害が、白昼堂々と行われている。
これは、まさしく平成の「真昼の暗黒」にほかならない。
捏造検事にお咎めはないのか。
マスコミは罰せられないのか。
司法当局に反省はないのか。
こんな狂気じみた暗黒裁判は、一日も早く終止符を打つべきだ。

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映画「ルート・アイリッシュ」―イラク戦争の裏にひそむもうひとつの闇―

2012-05-11 20:30:00 | 映画


 イギリスケン・ローチ監督は、カンヌパルムドール受賞作「麦の穂を揺らす風」(06)など、社会の矛盾や問題点を鋭く描く映像作家だ。
 今回の作品は、イラク戦争の闇に踏み込んで、男同士の友情を描いている。
 さらにサスペンスやアクション映画の要素も取り入れた、骨太のドラマだ。
 ケン・ローチ監督としては、新境地を開いた新作だ。

 イラク戦争の大きな特徴は、「戦争の民営化」だ。
 米軍基地の建設や施設の管理、物資輸送、兵士たちの給食から洗濯にいたるまで、軍隊の後方支援に関わる部分など、あらゆる業務が民間軍事会社に委託されたのだった。
 その民間労働者の人数は、20万人近いといわれる。
 この「民営化」がされていなかったら、米兵の死者数は1万人に迫っていただろうといわれる。
 推計によれば、その代わり民間人約10万人以上が犠牲になった。
 ひどい話である。

 







                  
駐留米軍の撤退した後も、テロは後を絶たない。
この作品は、米軍の視点からではなく、民衆に視点をあて、彼らの大きな傷痕を強調したドラマだ。
二人の男を通して、あらゆる側面から、戦争の持つ残虐性(戦争ビジネスなる言葉まで)が見えてくる。

ある電話へのメッセージを最後に、イラクの戦場にいたフランキー(ジョン・ビショップ)が帰らぬ人となった。

リヴァプールの町で、兄弟同然に育ったファーガス(マーク・ウォーマック)は、友の死に深く心を痛める。
フランキーには美しい妻レイチェル(アンドレア・ロウ)がいて、彼女もその突然の死に衝撃を受ける。
フランキーが命を落としたのは、〈ルート・アイリッシュ〉と呼ばれる、イラクとバクダッド空港と市内の米軍管轄区域(グリーンゾーン)を結ぶ、12キロの道路のことだ。
そこは、03年の米軍のイラン侵攻以降、テロ攻撃の第一目標とされ、世界一危険な道路として知られるエリアであった。

かつて、ファーガスはフランキーとともに、イラクでイギリスの会社のコントラクター(民間兵)の一員だった。
ファーガスは、親友の死に不信感を抱き、レイチェルの協力も得ながら、死の真相を調べ始める。
フランキーの亡くなった日、ファーガスの電話に、「大事な話がある。今夜でないとだめだ。電話がほしい」というメッセージが残されていたのだった。

そして、葬儀の時、ファーガスは知り合いの女性マリソル(ナイワ・ニムリ)から、フランキーが残した包みを受け取った。
その中には、手紙と携帯電話が入っていた。
その携帯電話には、幸せそうな家族の映像の後に続いて、ある銃声とともに二人の少年が銃殺される様子が収められていた。
銃を撃ったのは、イラクにいる兵士ネルソン(トレヴァー・ウィリアムズ)で、その場にいたフランキーは激怒した。
それは、罪のない民間人が殺害された瞬間を収めた映像だった・・・。

ファーガスはレイチェルとともに、フランキーの死の真相を追い、その時間を共有し合ううちに、二人は惹かれ合うようになる。
しかし、ファーガスは彼女を愛し始めながらも、レイチェルとの人生は選択せず、フランキーの身に起きた事件の解明につとめるのだが、調査を続けるうちに、やがて事件の怖ろしい真相が見えてくるのだった。

イギリス映画ルート・アイリッシュ」は、イラク戦争の裏に隠された真実が明らかになるにつれ、ニュースフィルムのようなリアルな戦場の映像は、とても力強い。
イラク戦争は、グロテスクなお祭りだといわれる。
そんなお祭り気分に、ケン・ローチ監督の怒りが向けられている。
ドラマのプロットはちょっと複雑で、わかり難い部分もある。
親友の死の真相を追い続けるファーガスが、やがて精神のバランスを崩し、彼自身の生活が壊れ始める・・・。
彼は、心に深い闇を抱えたまま、ずっと戦争の痛みを引きずっているわけだ。

ケン・ローチ監督は、大スターや英雄に目を向けることはなく、たとえば、サッチャーの改革によって押しつぶされた労働者の立場で、澄んだ少年のような眼差しで、普通の庶民を撮り続ける。
だからこそ、イラク戦争の最大の犠牲者は、米国人兵士ではなく、あくまでもイラク人だということを強調する。
この戦争を描いた映画が、米軍に捧げられることを良しとしないのは当然なのだ
ファーガス役のマーク・ウォーマックも、レイチェル役のアンドレア・ロウも、ともに新人ながら、演技力は確かだし、近頃のサスペンスフルな社会派の作品としても、一見の価値はある。
スリリングな、謎解きのドラマでもある。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「少年と自転車」―寄り添うことで孤独から救われる少年の愛の物語―

2012-05-09 11:00:00 | 映画


 ・・・一緒にいてくれたら、ただそれだけでいい。
 日本の女性弁護士から聞かされた話から、この物語は生まれた。
 赤ん坊の頃から施設に預けられた少年が、親が迎えに来てくれるのを屋根に上って待ち続けたという話に着想を得て、映画化された。

 親に捨てられた少年が、初めて信頼できる大人の女性と出会ったことで、心を開き成長していく。
 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の、ベルギー・フランス・イタリア合作映画だ。
 ベルギー出身のダルデンヌ兄弟は、子供や若者の問題を中心に、社会と人間のありかたを追及する作家として知られる。
 少年の心の軌跡を、丁寧に暖かく描いた作品で、フランスカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作である。





     
少年リシル(トマ・ドレ)は、もうすぐ12歳になる。

彼の願いは、自分を児童相談所へ預けた父親(ジェレミー・レニエ)を見つけ出し、再び一緒に暮らすことであった。
そんな時、シリルは美容院を経営するサマンサ(セシル・ドゥ・フランス)と出会った。
シリルは、週末を彼女の家で過ごすようになった。

シリルは、自転車で街中を駆け回って、サマンサとともにようやく父親を探し出した。
だが、父親の態度はすげなかった。
そればかりか、「おれに二度と会いに来るな」と言い放たれる始末だ。

シリルが、実の親に再び見捨てられる姿を目のあたりにして、サマンサは、付き合っていた恋人との間に軋轢を生んででしまうほど、これまで以上にシリルと真直ぐに向き合い始めるのだった。
人との接し方、夜遅く外出しないこと、悪いことをしたら誠意をもって謝ること・・・、少年シリルの心は、サマンサとの触れ合いの中で、少しずつ変化し始める。
しかし、そんな折り、シリルが起こしたある事件がきっかけで、シリルは窮地に追い込まれる・・・。

ダルデンヌ兄弟といえば、カンヌ国際映画祭で2度のパルムドール大賞(「ロゼッタ」「ある子供」)、主演男優賞(「息子のまなざし」)、脚本賞ロルナの祈り」)、そしてこの作品でグランプリを獲得した。
5作品連続で、カンヌの主要賞を総なめにするという、史上初の快挙を成し遂げ、いまや世界の名匠としての名をほしいままにしている。

少年がサマンサという女性と親しくなり、週末には彼女の美容院へ遊びにいく。
サマンサが、リシルの里親である。
このサマンサ役のセシル・ドゥ・フランスが、、爽やかで優しく、すがすがしい。
彼女は少年の面倒を見ることで忙しくなり、「おれを取るのか、この子を取るのか」と、恋人の男からなじられもする。
その時、サマンサはすかさず、「この子を取る」とはっきり言うのだ。
根性の小さな男に、吐き棄てるように投げられるこのセリフは、とってもきっぷがよい。

一方、父の行方を探し当てても、自分の息子一人育てることもできない父親の情けなさは、少年シリルにどう映っただろうか。
ドラマの中で、父親に認めてもらいたいシリルが、調理している鍋を両手でかき回そうとするシーンがいじらしい。
ここは、自分を捨てた父親に、それでも自分をいい息子だと見てもらいたかった、そのシリルの心情が吐露されていて、ぐっとくる場面だ。

シリルは、父の買ってくれた自転車を持っていたが、あるときそれが無くなっていて、盗まれたのだと思った。
実は、その自転車を売ってしまったのは父だった。
自転車を持っている人を見つけ、盗まれたと思っているシリルが追跡するシーンがある。
肉親といえども、その絆の脆さが浮かび上がる。

シリルが強盗をし、それで得た金を全部父親に渡そうとして拒否され、夜の街路を自転車で疾走する場面も、少年を取り巻く夜の闇とともに、そこに少年の痛切な孤独も浮かび上がる。
この映画のラスト、水辺をサマンサとシリルの乗った自転車が爽やかに並走するシーンは、言い知れぬ心の和やかさを感じさせて、素晴らしい。
女性の母性が、恋人よりも少年を選んだあたりも、実に爽快だ。

子供から大人への過程で、とくに男の子たちが体験する、様々な困難や環境のゆがみや軋みの中で、ゆっくりとではあるが、少年の心が快方に向かっていく。
少年シリル役の、13歳の新人トマ・ドレの気負いのない演技もさることながら、サマンサ役のセシル・ドゥ・フランスの好演も光っている。
人は誰かとつながることで、ささやかであっても希望を見出していくものだ。
この作品「少年と自転車」という小さな愛の物語は、小品ながら心憎い演出と相まって、実は純粋でとてつもない「愛の物語」だといえる。
     [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点

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映画「僕等がいた」(後篇)―出会いの前篇に続くその後の主人公たちのメロドラマ―

2012-05-07 12:00:01 | 映画


 この映画の前篇は、初恋の甘いムード全開だった。
 さて、後篇はどうか。
 三木孝浩監督は、少し大人になった若者たちをどう描いたか。

 ・・・あの日、確かにここにいた。
 何度も、失敗を繰り返した。
 それでも、永遠があると信じていた。
 出会い、失い、そして最愛を信じたという、永遠の(?)純愛物語の、未来を誓った運命の後篇が完結する。
 メロドラマの常道をたどって迎える、この物語の結末は、はたして・・・?








           
6年後、東京・・・。

大学を卒業し、出版社に勤め、多忙な日々を送る七美(吉高由里子)がいた。
その七美のそばには、矢野(生田斗真)ではなく、彼女を見守り続けてきた竹内(高岡蒼甫)の姿があった。

ある日のこと、七美の出版社の同僚で、矢野の転校先の同級生だった千見寺希子(比嘉愛未)から、矢野を目撃したと知らされる。
空白の6年間に、矢野に何が起こったのか。
何故、矢野は七美の前から姿を消したのか。

両親が離婚することになって、矢野は、母親と東京に越すことになった。
矢野は、最初のうちは恋人七美に毎日のように電話をかけていたが、母親の失職、ガン発覚、闘病が重なり、あげくの果てにその母の自死という最悪の環境の中で、七美への電話さえもままならなくなっていたのだった。

釧路で電話を待ち続ける七美は、ひたすら矢野を信じていた。
七美は東京の大学に進学し、卒業して就職したが、矢野とは一度も会えないままだった。
その間、たえず七美を慰めていたのは竹内だったが、その竹内がついに七美にプロポーズを・・・。

そんな時、七美は千見寺から、矢野を目撃したとの話を聞かされたのだ。
七美の心は、矢野への抑えがたい想いと、竹内の愛情の狭間で揺れ続けた。
そして、七美は、迷いながらも、ある決心ををするのだったが・・・。

かつて、「君の名は」(菊田一夫原作)という人気ドラマがあったが、この作品もそんなメロドラマの展開をたどる。
後篇は、やや大人になった彼らの、男と女のそれぞれの思惑が交錯し、かつてのふわふわしたどこか頼りない恋愛から、どろどろとした大人の恋愛へと変わっていく。
矢野と七美のすれ違い、竹内の裏切り、矢野と有里(本仮屋ユイカ)の秘密の暴露といろいろある中で、もちろん推敲不足と思われるような筋書きやお膳立ても目立つが、後篇は、前篇のくだくだしたドラマより数段よくなった。
これは、前作の比ではないと感じ入った。

この映画は、前篇を見ていなくても、後篇だけでも十分物語としては理解できる。
それから、あえて言えば前後篇の二部作にする必要はなく、全体で2時間のドラマ1本にまとめあげたほうがいい。
それは十分に可能だし、その方が、よりメリハリの効いた作品となったのではないか。
登場人物の年齢が、俳優たちの実年齢に近くなったことで、まあ多少違和感もなくなった。
ドラマがメロドラマなのは相変わらずで、とくにこれといった新味を感じるものではない。

多感な思春期から大人の青春期へ、時は流れ、人は変わろうとも、記憶は単なる思い出に変わってしまうのか。
このドラマの終盤には、原作とはまた違った、映画オリジナルの運命の完結編が用意された。
三木孝浩監督映画「僕等がいた」(後篇)のラストシーン、それは、北海道釧路の廃校となる、母校の屋上にひとりたたずむ七美の姿を映し出していた。
あの頃の、眩しい記憶がよみがえるなかで・・・。
それにしても、累計1200万部突破というベストセラー、小畑友紀の大人気コミックには恐れ入りました。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

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映画「KOTOKO」―病み壊れていく精神の痛苦な叫び―

2012-05-05 21:00:00 | 映画


 強烈な個性のアーティストの登場だ。
 この映画の鑑賞は、好むと好まざるとにかかわらず、衝撃の映像体験をすることになる。

 Coccoに心酔する塚本晋也監督は、ここで演技を超えた肉体表現を試みる。
 人が生きること、それがいかに苦しいことか。いかに困難なことか。
 企画、製作から、脚本、撮影、編集、出演まですべてに関与して映画を作り上げる。
 その創作スタイルは健在だ。
 彼の稀有な才能が、この作品で爆発する。
 それこそ、生きろ、生きろ、生きろだ。
 その声が、歌が、そして祈りが、叫び続ける・・・。








     
琴子(Cocco)は、ひとり幼い息子大二郎を育てている。
琴子はシングルマザーだ。

彼女には、世界が二つに見えている。
だから、うっかり油断すると、命にかかわる日々を過ごしている。
琴子は、いつも気を許せない。
彼女は、どんどん神経が過敏になってゆく。
大二郎に近づいてくるものを殴り、蹴り倒し、必死に子供を守ろうとする。
琴子の世界が“ひとつ”になるのは、歌っている時だけなのだ。

大二郎を散歩に連れて行くと、大二郎はいつも激しく泣き続ける。
琴子は、大二郎が喜ぶことなら何でもする。
外に出かけて、高台に立つ。
そこで、もし抱いているわが子の手を放したらどうなるか。
強迫観念が、琴子を追い詰める。
ついには幼児虐待を疑われ、大二郎は遠く離れた琴子の姉のところに預けられる。

琴子は、自分の体を傷つけることで確認する。
存在することの意味と、「生きる」ことの意味を・・・。
ひとりで毎日過ごす琴子に、小説家の田中(塚本晋也)が近づいてくる。
琴子が沖縄にいる大二郎を一度訪ねたとき、車内で彼女を見つめていた男だった。
田中は、バスの中で聞いた琴子の歌声に魅了されたという。
彼女は、彼を暴力で遠ざける。

琴子が遠ざけても遠ざけても、田中は、自分が傷だらけになりながらまたやってくる。
そうして、とうとう結婚指輪を携えてきた。
自分で答えを出すことができない琴子は、田中と二人で大二郎のいる沖縄を訪れる。
沖縄で、田中とともに穏やかに眠る大二郎を見て、琴子は「私は幸せになる」と心をきめる。

しかし・・・、琴子に憎悪と恐怖の遠い記憶が甦る。
一緒に暮らし始めた田中を縛り上げて、琴子はぼろぼろにする。
田中は無抵抗のままである。
制御のきかなくなった自分を忘れて、琴子が暴れる。叫ぶ。
田中は、「大丈夫です、大丈夫です」と繰り返しながら、血まみれの体で抱きしめる・・・。

まあ、こんな風なあらすじ(?)なのだが、主人公役のCoccoは、魂に共鳴する歌声、心を揺さぶるような詞、独特の世界観と他を圧倒する存在感で、登場する。
琴子には、世界が二つに見えているのだ、二つに・・・。
それでも、歌っている時だけは、世界がひとつに見える。
琴子には、誰よりも大切な幼い息子がいる。
彼を守りたいと強く思っている。
そう思えば思うほど、社会に対して過敏になり、神経のバランスが壊れていく。
琴子は、そういう女なのだ。
その琴子が、見知らぬ男から声をかけられる。
男は小説家で、ふと耳にした彼女の歌声に魅了されて・・・。
そして、やがて二人は一緒に暮らし始め、世界はひとつになったかのように見えたはずなのであった・・・。

琴子は、〈生きる〉ために自分の体を傷つける。
幼い息子を愛することで、精神の均衡を失い、病んでいく。
その彼女を狂ったように追いかける小説家は、まるでストーカーだ。
琴子は、現実と虚構の間を行ったり来たりして、彷徨い続ける。
わが子を溺愛(?!)するあまり、世界から遠ざかり、孤立していく。

こう見てくると、愛とは、子供とは、いったい何なのだろうか。
この世には、危険がいっぱいだ。
その危険から、子供を守ろうとする女の本能を、根源まで突き詰めると、子供は母親の一部となり、一体となる(?!)。
そこにまた、母親の新たな苦悩と煩悶が生まれる。
その時、女は歌うのか。

精神を病むとは、どういうことか。
映画とかドラマ性をどうこう言うより、この作品は、そうした人間の病める現代の狂気のアートだ。
大音響の効果音や、いたずらなノイズががんがん響いてくる。
観ている方は、大変な忍耐を要する場面だ。
狂気の連鎖、救いのない妄念・・・。
生を実感するため、自分の体を傷つける。
自傷行為とともに、女は壊れていく。病んでいく。
確実に、間違いなく、人間が崩壊していく。
そして狂う。狂いまくる。
人間は、こうした選択しかできないものだろうか。

塚本晋也監督映画「KOTOKO」は、母性への敬愛を描きながら、女の精神の内面を探り続ける構成で、作者が心の中で、子供が安心して未来を迎えられるようにしていくために、自分が何をしなければいけないか、深い悩みを抱える母親への警鐘は、去年の3.11大震災が引き金になっているようだ。
作品は映像そのものが衝撃的なので、その厳しさも半端なものではない。
みずからを傷つけて、血を流し、「生」を問う女性の内省的な暴力を、いったいどこまで昇華させようというのだろうか。
そして、昇華したのか、しなかったのか。わからない。
歌うことも踊ることも、祈りなのか。
・・・しかし、この作品、塚本ワールドの信奉者(?!)には大変申し訳ないが、精神の慟哭と再生の物語(?)としては、映像表現においても決して後味の良いものではなかった。
どう見ても不穏この上ないドラマで、上映中に逃げるように退場した観客が数人いたことが、この作品の本質をいささかたりとも物語っている。
     [JULIENの評価・・・★★☆☆☆](★五つが最高点

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映画「わが母の記」―離反していた心を結ぶ母と子の絆―

2012-05-03 12:00:00 | 映画


 家族だから、言えないことがある。
 家族だから、許せないことがある。
 それでも、いつかきっと想いは伝わるものだ。
 時代が変わっても、家族の絆だけは変わらない。

 「クライマーズ・ハイ」などの社会派作品で評価されている、原田眞人監督が、昭和を代表する文豪井上靖の自伝的な原作「わが母の記〜花の下・月の光・雪の面〜」を映画化した。
 撮影は、井上靖が家族と過ごした、東京世田谷の自宅でも行われた。













      


                
小説家の伊上洪作(役所広司)は、子供の頃両親と離れて育てられた。

そのことから、洪作は、母に捨てられたという想いを強く抱きながら生きてきた。
父・隼人(三國連太郎)が亡くなり、残された母・八重(樹木希林)の暮らしが心配になり、長男である洪作は、妻・美津(赤間麻里子)、琴子(宮崎あおいら三人の娘たち、そして妹たちに支えられ、これまで距離をおいてきた八重と真直ぐ向き合うことになった。

だが、年老いた母の記憶は次第に薄れてゆく。
その中で、ただひとつ消し去ることのできなかった真実があった。
それは、洪作が5歳から8歳の間伊豆の山奥で、洪作を育てた曾祖父の妾おぬいのことだった・・・。
そして、初めて母の口からこぼれ落ちる、伝えられなかった想いが、いま50年の時を超えて母と子をつないでいこうとしていた。

ここに井上靖という作家の、知られざる家庭人としての、その素顔の一面が浮き彫りにされる。
昭和の時代を生きた大家族は、お互いに悲しみ、笑い、苦楽を共にして過ごしてきたのだった。
原作には男の子たちも登場するが、映画では「リア王」みたいな三姉妹に変更され、女性たちが主役を務めきった。
映画は、母親が次第に記憶を失くしていくことに伴う周囲の反応を、ほほえましいタッチで描いている。
樹木希林は、ほどよいユーモアで時には笑わせ、全体に恬淡とした物語でありながら、ほのぼのとしたものが伝わってくる。

登場人物たちには、主人公はじめあまり強いインパクトは感じない。
原田監督は、井上靖の原作に書かれなかった母と子の心理を、まずは自分に見捨てられたと思わせておいて、それを母子の愛情物語へつないでいこうとした形跡がうかがえる。
実際の祖母は、映画の中の樹木希林よりももっと小柄で、細目で、気性の激しい人だったようだ。
東京の井上邸は、取り壊される直前に撮影を終えたことで、当時の書斎はそのまま映画のセットになった。

三世代の家族の、心の引き継ぎと絆を描いたこの作品は、ふと往年の小津映画を思わせるものがある。
そういえば、洪作の着物姿だって、小津映画の佐分利信にスタイルが似ている。
井上靖「通夜の客」を映画化した「わが愛」も、彼が主役だった。
原田眞人監督映画「わが母の記」は、母と子の物語を中心に、普遍的な家族愛を描いて、国際的にも高い評価(モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞)を得ているようだ
映画館は、満員札止めまで出たのには少々驚いた。

ただ、この作品の冒頭で、洪作の子供のころの記憶として、洪作が土砂降りの雨の中で軒下に立って、向かい側にいる不機嫌な顔をした母と幼い二人の妹が映っているシーン以外は、母と子の離反の要因となったいきさつや真相は、ほとんど語られていない。
原作では、井上靖は曾祖父のことを一生傍若無人で通した人だという記述があり、自分が‘祖母’おぬいの手で育てられた理由について、特にこれといった理由はなかったと語っている。
おぬいとの思い出に生きた洪作は、八重との間に距離を置くことにまでなったはずである。
それが今日まで、洪作の大きなトラウマだったというのだが、八重についても洪作についても、突っ込んだ実像は十分描かれていない気がする。
むしろ、ドラマははじめから、何事もなかったかのようにあまりにも穏やかに、ほのぼのと綴られていく。
長年の怒りとか苦悩や葛藤といった、複雑な想いがあるだろうが、それらは画面からは立ち上ってこないのだ。
原田監督は、あえてそれを避けたのかもしれないのだが、どうも洪作と八重の表出が甘く、弱い。
母子の溝は、実際どんな形のものだったのだろうか。溝というほどのものだったのか。
いや、そんなことはここでは
ドラマのテーマではないだろう。
母子が、離れ離れに暮らしていた期間があった、ただそれだけのことかもしれない。
洪作の記憶と、八重の薄れかけている記憶の齟齬、あるいは互いの思い違いがあるとしても・・・。


それにしても、八重に認知症の症状が出てくるあたり、樹木希林の演技は相変わらず上手い。
洪作への愛を確かめようとして、眠ってしまった記憶をたどるもどかしさも、観客をくすぐる場面だ。
映画は、故郷である伊豆湯ヶ島、軽井沢を舞台に、山のふもとに広がるわさび田、落合楼のつり橋、昭和の懐かしいボンネットバス、海から臨む富士山など、日本の原風景を存分に切り取って見せてくれている。
50歳をとうに超えた洪作が、年老いて小さくなった母の八重を背負って、渚をゆっくりと歩いていくラストがなかなか印象的だ。
やや人気が先行しているきらいがあるが、昭和の日本の家族のありようが描かれていて、日本映画の佳作に入れてもよいのではないかという気はする。
     [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点

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