京都空襲の実態をより明確にした人物が吉田守男桐蔭女子短期大学教授であった。
吉田は、前回紹介した1972(昭和47)年7月2日に立本寺で行われた「京都空襲犠牲者追悼市民集会」(主催:京
都宗教者平和協議会)を契機としてつくられた「京都空襲を記録する会」のメンバーの一人であった。
京都での空襲に関する調査を行う一方、アメリカに渡り原爆関連の報告書や資料などを調査した。
それらの調査でわかったことを発表したのが「京都小空襲論」(「日本史研究」№251 1983年7月号)であった。
この論文の中で吉田は、京都空襲が小空襲であった理由は、アメリカが原爆投下の第一候補地として京都を
選定していたことが理由であることを実証したのであった。
更に、日本の「古都」と呼ばれる京都・奈良・鎌倉などに戦時中空襲がなかったのは、日本文化を研究していた
ウォーナー博士が文化財を守るためにアメリカ政府に対し提言したからである、という「ウォーナー伝説」の解明
にもつとめ、京都空襲研究とあわせて『京都に原爆を投下せよ-ウォーナー伝説の真実-』(角川書店 1995年
7月30日)という著書を書き上げた。
以上の研究によれば、アメリカの原爆投下目標選定委員会の議事録に、どのような都市に原爆を投下すべき
かという討論がされており、京都はあらゆる条件からみて理想的な都市として取り上げられている(1945年5月1
0.11日)
「(1)京都-この目標は、人口一〇〇万を有する都市工業地域である。それは、日本のかつての首都であり、他
の地域が破壊されていくにつれて、現在では多くの人びとや産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言え
ば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器(原爆)の意義を正しく認
識する可能性が比較的大きいという利点がある。(AA級目標)」(吉田守男『京都に原爆を投下せよ-ウォーナー
伝説の真実-』 角川書店 1995年7月30日 (75-76頁)
そして、原爆投下の専門部隊である「第五〇九混成群団」による原爆投下都市の基準として
「(1)破壊攻撃か焼夷弾攻撃でまだ損害をこうむっていない重要都市が次の二つの理由で、最初の原爆の目標
として望ましかった。
a 通常爆撃による被害と区別する必要性(引用者の要約)
b 原爆を効率よく使用する必要性(同右)」(吉田前掲 83頁)
とある。
この原爆というものが、いかに無差別殺人兵器であり、文化財の保護などを全く考えていなかったということが
原爆投下目標選定委員会の議事録から読み取れる。
それは5月28日におこなわれた議事録に次のようにあるからだ。
「1 照準点を特定しないこと。これは気象条件が変わった時点で基地における決定にまかせること。
2 精密照準目標としては工業地域の位置を無視する。即ちこれらの目標については、工業地域が狭く、市街
地の周辺部に散在しているためである。
3 最初の原爆を都市の中心に投下するよう努めること。即ち、完全に破壊するために、さらに一個ないし二個
の原爆が必要ないようにするためである。」(吉田前掲 86-87頁)
明らかに人口密集都市の中心に原爆を投下することを考えているのがわかる。
原爆投下目標選定委員会の議事録や様々な資料を分析した結果、吉田はアメリカが考えていた原爆投下の
「理想地」としての京都を次のようにまとめた
「①百万の人口をもつ大都市。
②戦時下で罹災工業がこの都市に流れ込んできており、軍事目標をもつ。
③市街地の広さが東西二.五マイル、南北四マイルあり、人口密集地が広い。
④日本人にとって宗教的意義をもった重要都市であり、この破壊が日本人に最大の心理的ショックを与えるこ
とができ、その抗戦意欲を挫折させるのに役立つ。
⑤三方を山に囲まれた盆地であり、爆風が最大の効果を発揮しうる地形をもっている。
⑥知識人が多く、原爆のなんたるかを認識した彼らが政府に早期降伏を働きかける期待がもてる。
⑦まだ爆撃による被害をこうむっていない。」(吉田前掲 85頁)
つまり空襲との関連でいえば、アメリカとしては新型兵器である原爆の威力を知りたい。なるべく正確なデータ
をとりたい。そのためには、あらかじめ空襲によって破壊された都市に原爆を落とすのではなく、空襲被害を受け
ていない都市、あるいは空襲被害が小規模である都市に落とそうとしていたのである。空襲被害が大きい都市に
落としても、どこまでが空襲によるものか、どこまでが原爆によるものか区別がつかず、正確なデータをとる際に
困るからである。
しかし結果的には京都は原爆投下候補地から外される。理由は文化財の保護というものではなく、第二次世
界大戦後の世界でアメリカのライバルとなるのはソ連であり、対ソ戦略のため京都に原爆を投下するべきでない
と判断したからである。京都を原爆で破壊したことにより、戦後日本が反アメリカの立場をとることを懸念したから
である。万が一、共産主義革命でも起こってソ連陣営につくこととなれば大問題である。アメリカの戦後の極東
戦略のためには日本は重要な位置にあったから京都は原爆投下候補地から外されただけなのである。

原爆投下目標選定委員会の議事録のなかにあった京都の航空写真。原爆投下予定地が「梅小路駅」(現在の梅小路機関車庫)であったことがわかる(吉田前掲 89頁)

京都が原爆投下候補地に選定されている間は空襲がなかったことがわかる(吉田前掲 104頁)
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