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写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。
007tt
2019-07-27T10:38:33+09:00
ja-jp
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木曽冠者義高之塚についてNO80(西23)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
(木曽)義高は、義仲の長男である。義仲は、かって頼朝に怨まれて兵を向けられ、あやうく戦いなるほどに切迫したことがあった。このと...
日記
007tt
2019-07-27T10:35:14+09:00
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玉縄城跡についてNO79(西22)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
城は永正9年(1512年)に北条早雲が築き、その一族が居城として来た。天文年中(1532年~1555年)には北条綱成がこの城の主となった。綱...
日記
007tt
2019-07-20T08:51:58+09:00
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須崎古戦場についてNO78(西21)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
此の辺はむかしの須崎郷の中にはいるところである。
元弘三年(1333年)5月新田義貞が鎌倉攻めの折、新田方の武将堀口三郎貞満、大島...
日記
007tt
2019-07-13T12:08:01+09:00
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義経宿陣之跡についてNO77(西20)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
文治元年(1185年)5月源義経は平家を亡ぼして、平家の総大将前内府平宗盛を捕慮として引きつれ、鎌倉に凱旋して来たのであるが、兄の頼...
日記
007tt
2019-07-09T07:12:44+09:00
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日蓮上人祈雨旧蹟についてNO76(西19)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
古くから金洗沢とよばれていたのは、此の辺である。
文永八年(1271年)6月、ひどい旱魃で雨が少しも降らなかったとき、幕府は、良観...
日記
007tt
2019-06-29T08:41:18+09:00
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聖福寺についてNO75(西18)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
聖福寺は、建長六年(1254年)4月、北条氏が長く栄えること、また北条時頼の子時輔(幼名聖寿丸)と時宗(幼名福寿丸)の無事長命とをねが...
日記
007tt
2019-06-23T10:44:50+09:00
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稲村崎についてNO74(西17)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
今を去る五百八十四年昔(昭和57年から649年の昔)、元弘三年(1333年)5月21日、新田義貞が、此の岬を廻って鎌倉に攻め入ろうとし、黄金...
日記
007tt
2019-06-15T08:56:03+09:00
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十一人塚についてNO73(西16)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
元弘三年(1333)5月19日、新田勢は大舘又次郎宗氏を大将として、極楽寺口から鎌倉に攻め入ろうとしたが、北条勢の中の本間山城左衛門...
日記
007tt
2019-06-08T12:24:31+09:00
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阿仏邸旧蹟についてNO72(西15)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
阿仏は、藤原定家の子為家の妻であって、和歌の師範家である冷泉家の祖となった為相の母である。
為相の異母兄である為氏が、為相...
日記
007tt
2019-06-01T12:51:30+09:00
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針磨橋についてNO71(西14)
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「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉十橋の一つであって、そのむかし此の近くに針磨{はりすり}をなりわいとしている者が住んでいたので、此の名がつけられたという。...
日記
007tt
2019-05-25T10:17:05+09:00