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化粧坂切通しについて

2017-06-03 08:47:38 | 日記
 化粧坂切通しについて、「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 秀吉は、1585年(天正13)7月関白に就任。北条攻めは秀吉の全国制覇の仕上げのひとつとして残されていました。事実、秀吉にとっては、これが国内の最後のいくさになりました。すでに、関西以西の諸豪族がすべて恭順を示しているというのに、関東で五代にわたる覇権を築いてきた北条だけが、大国の漢について、それはわが国よりも大きいのかと問うて漢の使者をあきれさせた事故に似ています。
 事実、小田原城内では、太閤秀吉何ものぞの声が高まっていました。その昔、富士川のいくさで、平家の軍勢十万余騎が水鳥の羽音に驚いて遁走したこと、近年にも関東に覇を唱える上杉謙信が十万の兵をもって小田原を囲んだものの、何ら得るところなく陣を解いたこと、などが主戦論の根拠でした。撃って出るか籠城するか、長い評定のあげく籠城が採用されました。
 懲らしめるに如かず、と秀吉は決断します。自らの権威を天下に示す絶好の機会でもありました。秀吉がこのいくさに全国から招集した軍勢は41万におよんでいます。秀吉の威令に服さないのは北条と、中央からはほど遠い陸奥会津の面々だけでした。秀吉はこのいくさを会津以北の豪族たちへの一大デモンストレーションととらえていた。
 1590年(天正18)4月9日、小田原城の包囲が完了します。籠城する小田原軍は五万七千、包囲の西軍十万八千です。秀吉はゆっくりと手足をもぎ取るように、関東一円の北条方の支城すべてを落とす作戦にでます。忍城除いて、松井田城、岩槻城、鉢形城、八王子城などが次々と秀吉軍の手に落ちた。
 鎌倉の押さえとして不落を誇った玉縄城は、城主氏勝が徳川家康の説得に応じて早々と明け渡しました。無血開城です。小田原はすっかり孤立しました。
 7月6日籠城三カ月におよび、小田原城主氏直はついにわが身を犠牲にして士卒の命迄いを申し出ます。ここに北条氏の命脈は尽きました。父の氏政は切腹、氏直は死を許され、高野山に追放されます。なお、玉縄城主だった氏勝だけは本領安堵され、家康の配下となりました。
 秀吉が小田原城に入ったのは7月13日です。秀吉の戦後処置は矢継ぎ早でした。徳川家康から三河、駿河など五か国を取り上げ、新たに北条から奪った関東の相模、武蔵など八か国を与えました。この結果、鎌倉は家康の領地となりました。
 秀吉が鎌倉訪問を思いつくのはこのときでした。「ここまで来たら、ついでに鎌倉を見てやろう。」と、いうのです。時に、秀吉五十五歳でした。
 「藤沢より駕をまげられ」と「古戦録」にあります。
 「広辞苑」によれば、「駕をまげる」とは貴人がわざわざ来訪することです。藤沢から鶴岡八幡宮への道は、どのルートだったのでしょうか。
 北上する軍団と別れて八幡宮に向かうには三つの選択肢がありました。極楽寺切通しを抜けるか、大仏坂を越えるか、あるいは化粧坂を下るかです。このときの陽気な天下人の言動は様々な軍記が伝えていますが、いずれも道筋のことは明らかではありません。ここは、行間を読んでふくらませるしかないでしょう。
 第一の道。前方に江の島を見ながら南下し、腰越から海岸つたいに東に行くと、七里ケ浜を経て稲村ケ崎に至ります。そこから北へ谷筋の道に入れば極楽寺切通しです。ここを上がり下がりすると由比ケ浜から若宮大路の三本の鳥居を次々とくぐって行けば、鶴岡八幡宮に突きあたります。
 このルートですと、道の真ん中には段葛がしつらえてあります。秀吉が何らかの感想をもらしてもおかしくはありません。それとも秀吉のやってきた築堤土木の規模から見れば、段葛程度の土木工事などは児戯に等しいということなのでしょうか。あるいは、長年にわたる戦乱で段葛自体が崩壊いちじるしく、見る影もなかったのでしょうか。
 第二の道。大仏坂から鎌倉入りしたのでは、という説も成り立たないではありません。幕末から明治大正にかけて、藤沢からの出入り口としてもよく利用されていたのが、このルートでした。しかし、先に述べたように、この時代に大仏切通しがつかわれていたという確証はありません。しかも、万事にかけて好奇心の強い秀吉のことです。大仏の近くを通れば、見たいと言いだすでしょうし、見ていれば何らかの感想が残されるはず。(何だ。奈良の大仏と比べて、鎌倉のは随分と小さいではないか)あるいは、(露座では風雨に晒され痛ましいではないか。奈良のようにせよ)と新領主の家康に大仏殿の建設を命じていたかもしれないのです。
 第三の道は化粧坂切通しです。藤沢から東へ、玉縄城の南の境川を渡って梶原から真直ぐに南下すると大仏坂ですが、東に向かえば葛原ケ岡、その先が化粧坂です。この坂を下ると、そこは鎌倉の奥座敷、扇ケ谷です。扇ケ谷からさらに東へ足を伸ばせば鶴岡八幡宮の西に出ます。
 こうしてみると、秀吉の鎌倉入りは化粧坂切通しから、というのがもっとも可能性が高くなってきます。何れのルートにしても、天下の秀吉が馬上ゆうゆうとこれらの切通し道を越えたとは、もとより考えられません。「駕」と言うからには、やはり籠か興に乗って移動したのでしょうか。「関八州古戦録」以外の古文書にも、それらの記述は一切ありません。秀吉はただひたすら、頼朝が建てた鶴岡八幡宮を目指して鎌倉入りしたらしいのです。
 八幡宮では、住職らの説明に黙って聞き、頼朝の木像が残っていると聞くや、見たいといいだし、扉を開かせ、木像の前にどっかと座り、暫く像を眺めて、その後、秀吉が発した言葉いかにも秀吉らしい、として後世に伝えられています。
(日本広しと言えども、微賤より起こって天下を統一したものは、おぬしとこの秀吉しかいないだろう。しかし、おぬしは、清和源氏の流れを汲む多田満仲の後胤で、王族の出だ。その上、少し前の先祖は源頼義、義家親子といずれも関東の守護だったから、国侍の馴染みも多く、家来筋にも恵まれている。だから、流人の身とはいえ、蛭が小島で兵を挙げるや、旧知のよしみで東国の武士たちが続々と従い、たちまちにして天下がとれたのだ)
(俺の方といえば、氏素性も系図もない匹夫から身を起こし、このように天下を取ったから、創業の功としては、この俺の方が偉いのは明らかだ)
(しかし、いずれにしても、おぬしと俺とは天下友達には違いがない)などと言う記述もありましたので、投稿致します。

(鎌倉切り通し7つの見取図 「赤枠で記しています」)

(化粧坂切り通しの指標)

(化粧坂切り通し入口)

(入口から少し入ったところ)

(昼間付近)

(厳しい所)

(源氏公園側出口の見取り図)

(化粧坂切り通しの史跡)

(源氏山公園の碑)

(頼朝の像)
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