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筋替橋(すじかえばし)

2017-11-04 09:03:41 | 日記
「鎌倉趣味の史蹟めぐり」著者 長峰五幸 によりますと、次のような記述がありましたので投稿いたします。
 宝戒寺門より北へ100メートル。元国大学芸学部前バス停のところに筋替橋はある。川は西御門から流れ来て滑川に注ぐ小川で、何という名前か地元の人でもよくわからない…・。橋と言っても、今は暗渠になって道路の下を流れているので、橋らしい様子は見られない。富士見菓子店の前には黄色く塗った不粋なコンクリートのダンプ除けの防壁があるが、その辺が橋のあったところと思われる。この付近、今では横町となってしまったが、鎌倉時代は材木座とともに鎌倉の商業センターとして活気を呈していたそうだ。
 「筋違い角」というと将棋の戦法の一種である。紙数がないのでその詳細は略し、本筋にもどってこの橋のたもとの争いに焦点を合わせよう。
 ちょうど「く」の字に道が曲がるところに橋があったから筋替橋(筋違橋)と言った。東鑑など古い資料には、須知賀江橋というあて字が使われている。
鎌倉町青年団の史跡指導標の説明は下記のようである。
筋 替 橋
鎌倉十橋ノ壱ナリ。宝治元年(1247年)6月、三浦泰村一族ノ坂乱ニ際シ北条時頼ノ外祖タル安達景盛ハ其ノ一族ト共ニ、兵ヲ率ヰ此ノ橋ノ北辺ヨリ泰村ノ邸ヲ攻メシコト「東鑑」ニ見エタリ。又文永二年(1265年)3月、鎌倉ニ於ケル商家ノ営業地域ヲ数ケ所ニ限定セル触書中ニ「一所須地賀江橋」トアルハ即チ此付近ノ事ナリ。
昭和14年3月建
この橋の付近は宝治元年(1247年)三浦泰村(みうらやすむら 1184~1247)の反乱に際して合戦場となったところである。
この橋の付近は宝治元年(1247年)三浦泰(やす)村(むら)(1184~1247年)の反乱に際して合戦場となったところである。
泰村は有名な三浦一族であり、鎌倉幕府の御家人として重きをなしていた。駿河次郎と呼ばれ、成人の表芸の弓術にすぐれ、人物も大きく指導力もあって、一族の領袖としては申し分のない侍大将であった。
承久の乱のとき、若冠18歳の泰村は父義村とともに幕軍に加わり、のち掃部権助、式部丞を経て若狭守に任じ、正五位下に叙せられた。妻には北条泰時の息女をむかえ、彼は旭日昇天の勢いで出世街道をダンプカーのごとく驀進し、暦仁元年(1238年)にはとうとう幕府評定衆の大任についた。親の威光や閨閥といったものがものを言ったのだろうか。えらい出世であり、北条方にとってはあなどり難い権勢に成長していて、一波瀾ありそうな雲行きを孕んでいたのである。
執権時頼の寛元4年(1246年)には宮騒動というのが起こり、泰村の弟三浦光村がこの陰謀に参画していたことから、北条氏と三浦氏とは次第に仲が悪くなっていった。
宝治元年(1247年)4月4日高野山から時頼の外祖父・安達景盛が鎌倉へ乗り込んでくるとともに、三浦氏討滅の計画は具体化し、時間の問題となった。
三浦方では兵具をととのえ、所領の安房・上総から船で武具を運び込み、くるなら来い、いつでも相手になってやる。といった様子に見える。
時頼は使者を遣わして、御家人たちが泰村の邸内により集まっているのは物騒だから解散するように、と勧告た。泰村自身は本心から争いを望んではなかったので、和平の使者がくればいつでも兵を引く構えであったが、瀬戸際政策というのはいつの世にも険のんなもので、どちらかがちょっかいを出すと戦争に直行する。
6月5日。いよいよ和平が成立し、それまで緊張しきってピアノ線のように張りつめていた三浦,北条両軍がほっとしたのもつかの間……。北条方の黒幕,安達景勢は和平の動きに不平たらたらの最右翼、北条方の大曽禰󠄀左衛門長泰、武藤左衛門尉景頼らをそそのかして突如筋替橋の北から西御門の泰村の邸に向い300余騎でトキの声をあげさせた。
ミサイルならぬ、カブラ矢が唸りを立てて一筋打ちこまれます。これ即ち戦闘開始、第一ランドのゴングです。
これを見た泰村はびっくり仰天。「こはそも只今、和平の事成りて、心を緩す所に、出し抜かれる口惜しさよ」とて物具ひしひしと差堅めて、家の子郎党を指揮して防戦の構えを示す。打ち合い攻め戦う有様、しまいには,泰村の南小屋に攻め入り,小屋に火をつければ、折節風荒く吹き廻り、焔は四方に飛散して、邸内に類焼し、どっと黒煙が上がり、火焔はうづ巻き、火の子はあめよりしげく降り注ぐ……。
火攻めにあってはたまりません。一族生き残り276人と郎従家子220余人は一ぺんに腹をきり、刺し交えてその場に相果てました。
無益な争いで滅亡した一族の最後の有様はこのようなものであり、筋替橋はその戦端がひらかれた地点として記念すべき名所なのであります。というような記述がありました。


(筋替橋(すじかえばし)表示標)

(標示標と横浜八景方面)

(筋替橋石柱標示)

(元の川があった模様)

(横浜八景方面)


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