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名越の切通しについて

2017-07-15 08:43:24 | 日記

名越の切通しについて、「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のようなこがらの記述がありましたので、投稿いたします。
 法印堯(ほういんきょう)恵(え)が鎌倉を訪れたのは、道興や万里の訪問からまだ4ケ月と起たない翌年に訪れ、記録に残した旅人がいます。「北國紀行」の作者法印堯恵なのです。
 季節は大きく移り変わっていました。ひと月ほど前、堯恵は隅田川に近い湯島で、「寒村の道すがら、野梅盛んに薫ず」ときしていますから、鎌倉はもう春らんまんの陽気だったでしょう。堯恵は悠々58歳のひとり旅です。しかし、残念なことに、堯恵の旅の目的は鎌倉ではありません。三浦半島の芦名でした。堯恵にとっては、江戸から芦名に向かう通リ道にたまたま鎌倉があったにすぎません。
 芦名は、鎌倉を越えて半島を西海岸沿いに南下し、秋谷海岸からちょっと山に入ったあたりです。その東の方、直線距離にしてほぼ2キロの所が鎌倉幕府の実力者三浦一族の本拠地だった衣笠です。芦名にも三浦一族からわかれた芦名氏の屋形がありました。この芦名に住む武将の東常和に逢うことが、堯恵の旅の目的でした。
 法印堯(ほういんきょう)恵(え)については、1430年(永亨2)生まれで家柄はあまり高くなかったこと、天台宗の僧侶だったらしいこと堯孝を師として二条派の歌道を学び、二、三の紀行文を世に残したこと以外、くわしいことはあまりわかっていません。
 一方、堯恵が尋ねて行った常和は美濃の領主東常緑の二男であり、堯恵と常緑とは歌道の二条派で同門の関係にありました。二条とは、阿仏尼の章に出てくる藤原為家の嫡男為氏を家祖とする歌道の名門です。為氏の代で兄弟が二条、京極、冷泉の三家に分裂したことはすでにかきました。
 この時代、和歌や連歌の交わりを通じてのきずなは想像以上に強いものがありました。そのうえ、堯恵の場合は、二条派に伝わる古今伝授という特技を持っていました。旅に出る前の美濃でも、常和の兄常緑の嫡男頼数に古今伝授をしており、堯恵の芦名に四カ月も滞在します。
 さて、堯恵の書いた「北國紀行」に拠りますと、堯恵の鎌倉到着は、2月20日でした。江戸からの道筋はとくに記載はありませんが、前の年に聖護院道興や万里集九がたどった道と大差はないはずです。いずれも鎌倉七口のひとつで、鎌倉八幡宮の北西に出る巨福呂切通しです。
 鎌倉の第一夜は、なぜか山中の庵のような小屋でした。どうやら、鎌倉入りする前に日が暮れてしまったらしいのです。
 「都思ふ 春の夢路も うちとけず あなかまくらの 山の嵐や」
鎌倉には知人や歌仲間はいなかったことが、これでわかります。
翌日、何はともあれ八幡宮を参拝。松並木に囲まれ森閑とした社殿のたたずまいに感動します。はるか南に由比ケ浜の大鳥居が霞んで見えました。まことに妙なり、と一首。
「吹残す 春の霞も 奥つ州に 立てるや鶴が 岡の松風」
これが、堯恵の鎌倉の第一印象です。堯恵はその日のうちに鎌倉を後にして、三浦半島を南下し芦名に赴くのですが、その道筋がこれまでの訪問者とはまったく変わっています。鎌倉七口のひとつ、名越切通しを利用したようなのです。鎌倉から三浦に向かうには、東海岸に出るのが朝夷切通し、西海岸に出るのが名越切通しです。
芦名は西海岸沿いですから、堯恵は名越坂切通しを越えたことになります。
「畳々たる巌を切り、山を穿ち、旧跡の雲に連なれる所を過ぎて、三浦が崎の遠き渚をへんぺんとして行くに、蒼海のほとりもなき上に、富士ただ虚空にひとり浮かべり」
 これが、堯恵が描いた名越口とその先の逗子、葉山の景観でした。そこで一首
 「春の色の 碧に浮かぶ 富士の嶺 高天の原も 雪かとぞ見る」
 それにしても、今に残る名越切通しは「巌を切り」は分かるものの、「山を穿ち、旧跡の雲に連なれる所」


というほどの険しさありません。
現代の名越切通しは、鎌倉時代当時の面影を最も残す切通し遺構として、考古学的にも高い評価を受けています。源氏三代から武家政権を引継いだ北条が、有力武将の三浦を警戒するあまり防衛上の築工を施したため、と説明されてきました。
 ところが、最近の逗子市の遺構調査で、90センチと最も狭い道幅も上部の堆土を取り除いたところ、実際には270センチもあったことが明らかになりました。鎌倉幕府も源氏三代ころまでは三浦一族は身内も同然であり、三浦への道が想像以上に広く整備されていた、というのはうなずける話です。
 さて、堯恵その日芦名の浜辺には常和が出迎えており、いよいよ堯恵による古今伝授が始まりました。古今伝授とは、十世紀初頭に編纂された我が国初の勅撰和歌集「古今集」を教本として、語句の解釈や詠み込まれた樹鳥についての秘説を特定の人物に伝授する学問の方法をいいます。先の二条派の為氏に始まり、代々武芸の奥義を伝えるように師から弟子へ一対一で伝えていましたが、時代が下って室町中期には廃れてしまっていました。その伝統的な古今伝授を再興したのが堯恵で、秘伝は門下生の堯恵や東常緑に引き継がれました。などという記述がありましたことを申し添え、投稿いたします。

(逗子方面への国道の道案内票)

(国道から名越の切通への道)

(ここから切通入口)

(最初の名越の切通道)

(切通の標示版)

(切通の途中脇にに、まんだら堂やぐら郡3月から6月、10月から12月中旬まで毎週土日開放)

(遺構の説明版)

(同じく説明版)

(まんだら堂全景 ボランティアの方々の説明があります。)

(まんだら堂から先の名越の切通道)
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