gooブログはじめました!よろしく

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

亀ケ谷切通しについて

2017-06-17 08:28:38 | 日記
 亀ケ谷切通しについて「かまくら切通しストーリー」著者堤治郎 によれば、次のようなことがらの記述がありました。源氏の棟梁源頼朝が数万の兵を率いて初めて鎌倉に入ったのは、1180年(治承4年)10月6でした。流刑地伊豆での旗揚げから49日目。季節は秋から冬にさしかかっていました。なぜサムライたちの都として鎌倉が選ばれたのでしょうか。
 鎌倉に来るまでの頼朝一行は、明日をも知れぬ闘いに明け暮れていました。公式な記録として知られる「吾妻鏡」から拾ってみます。
 関東各地では、源平それぞれ加担する地方勢力の小競り合いが展開され、正確に言うと、源氏か平家かではありません。当時、関東の野にサムライの末裔である源氏と平家が混在していましたが、同じ平家でも清盛一族に属すかどうかで処遇に大きな差が生じていました。京の朝廷では清盛一門だけが栄えていて、怨嗟の声は各地に未知ふれていたのです。現実に、頼朝の後見人となった北条一族が平家です。また一族の中で兄弟が敵味方に分かれた家も出てきます。その複雑さがその後の幕府内部の道士討ちや粛清につながるのですが、それはずっと後の話。20年にわたる配所暮らしに耐えた頼朝にとって、それは貴重な体験でした。緒戦は明らかに負けでした。それが伊豆を逃れ出て房総に上陸したとたん、時代の風は一転、頼朝に追い風と化しました。結果的に、自ら命を掛けた闘いは伊豆での旗揚げのいくさだけとなります。この緒戦の敗退で生き残ったことが後の成功につながったのです。あとは、源氏の嫡流として振る舞うだけでよかった。頼朝にとって大事なのは、無敵の戦士となるよりも人心の動きを読む政治家になることでした。
 安房で一息ついた頼朝は意気揚々、今の東京湾を時計回りと反対に軍を進め、上房国、下総国、隅田川を渡り武蔵野国に入る。従う兵力は三万余騎となり、平家に加担していた畠山、河越、江戸の一族郎党が源氏に帰服、関東でのめぼしい抵抗は終わりを告げた。
 かくして10月6日頼朝軍はついに念願の鎌倉入りを果たします。旧暦10月はすでに初冬で再び「吾妻鏡」より、おそらくは、鎌倉始まって以来の盛況だったに違いありません。野も山も谷も兵士たちで満ち満ちて、堂々数万の大軍です。しかも、おかしなことに、このときの鎌倉には、それだけの人数を泊めるだけの建物が無かったはずです。そろそろ寒さが訪れようとしていましたし、兵士たちの食糧も鎌倉では何ひとつ調達できなかったはずです。鎌倉の先住民たちは迷惑したのではないでしょうか。
 それにしても、畠山重忠を先頭に頼朝ら一行が鎌倉入りしたのは、どのルートからでしょうか「吾妻鏡」には何の記載もありません。ただ、入ってすぐに「亀ケ谷の旧跡」と言う地名が出てきます。亀ケ谷には少し前まで頼朝の父義朝の屋形があったからです。このころの鎌倉には、後につくられる切通しの道はまだできていません。山道以外に道らしい道もなかったはず。しかし、関東からの道筋といえば、後の巨福呂口、亀ケ谷口、化粧坂口の三カ所が想定されます。いずれも当時は名もない山道にすぎません。それやこれやで結局、三つのル-トのうち、亀ケ谷口から入ったと言う説が一番有力です。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。

(鎌倉切り通しの見取図)

(切通の指標)

(亀ケ谷切通しの入口付近)

(亀ケ谷切通し同じく入口)

(亀ケ谷切通し中間にある説明標)

(出口付近)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 朝夷奈切通しについて | トップ | 巨(こ)福(ぶく)呂坂(ろさか)... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。