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鎌倉五山第五位浄妙寺について

2017-05-20 08:27:24 | 日記
マイウェー鎌倉物語」著者 小峰邦夫(郷土史家)によりますと次のようなことがらが記載されていました。
 五山めぐりの最後の禅刹、浄妙寺には、JR鎌倉駅を出て鶴岡八幡宮へ繋がる団葛を八幡宮に向って行くと、団葛終点になり、目の前に八幡宮があり、これを右に折れて金沢街道を歩いておよそ30分の道のりです。
 臨済宗建長寺派の禅寺で、正しくは稲山浄妙寺。当寺発行の略記によれば、開山は退耕行勇、開基は足利義兼です。義兼は頼朝挙兵以来の武将で、鎌倉幕府の宿老として活躍し、北条時政の娘時子(政子の妹)を妻としています。
 この義兼が文治4年(1188年)に創建した時には密教系の寺院(極楽寺)でしたが、その後、臨済宗の禅刹となり、寺名を浄妙寺に改めました。
 金沢街道の浄明寺バス停手前の小道を左に折れると、小さな総門があります。総門を入ると、明るい境内の正面に、山の緑を背にして銅葺き方丈形式の仏殿が建ち、仏殿には本尊の釈迦如来が安置されています。仏殿左側の一角には喜泉庵という茶室があり、茶室の前に枯山水の庭園がつくられています。
 この茶室は、天正年間(1500年代)僧が集まり茶を喫したといわれる「喜泉庵」を平成3年に復興し、参拝者に開席されたものです。枯山水を眺めながら、水琴窟の音に耳を傾け、茶を楽しむことができます。さて、一服してから、仏殿裏手の墓地を訪ねましょう。
 ここには浄妙寺殿と呼ばれた中興開基、足利貞氏(尊氏の父)の墓と伝えられる宝篋印塔があり、「明徳3年(1392年)の銘が刻まれています。ちなみに背後にある稲荷山には、鹿島神宮への参拝する途中の藤原鐘足が立ち寄り、鎌を埋めたという伝承があります。一説では、ここから「鎌倉」という地名がうまれたといわれています。などと言う記述がありました。
一方、中世鎌倉五山の建築 著者 鈴木 亘、発行 日野敬一によれば、次のようなことがらの記述がありました。
 浄妙寺は、その谷戸の入口である岐道より東に入った大蔵山の南麓に所在する。寺の南方は滑川を隔てて衣張山、小富士等の丘陵に対し、東隣は足利尊氏の御所跡と伝えられる。浄妙寺は山号を稲荷山、寺号を浄妙広利禅寺といい、中世において鎌倉五山第五位に位した。現在、浄妙寺は臨済宗建長寺派に属する。 
創建は、足利義兼が文治4年(1188年)に創建し、初め極楽と称した。開山は退耕行勇律師、当初密教系の寺院であったが、蘭溪道隆の弟子月峰了然が住持となってから禅刹に改められ、寺号を浄妙寺に改称したと伝えられる。本尊は、阿弥陀如来位像(浄妙寺像)について、浅見龍介氏は、その造像年代を作風から1260年前後に設定できると考えられている。月峰が見た極楽寺仏殿の本尊がこの阿弥陀如来立像であったとすると、旧本尊は正嘉元年(1257年)の地震により破損したため、新しく阿弥陀如来立像を造立したことが推察される。
浄妙寺伽藍は「浄妙禅寺略記」に「諸堂」として浄妙寺の諸堂宇を載せる。「諸堂」の記事は「稲荷山」の額を挙げた総門をのせると、源将祖先の商廟(祠堂)をのせるので、南北朝期、少なくとも文和元年(1352年)頃の浄妙寺の様子を伝えると思われる。また、主要堂宇に三門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、方丈があるので、これは応永31年(1424年)正月の浄妙寺火災以前の堂宇を伝えると考えられる。などと言う記述がありましたので、併せて投稿いたします。

(山門)

(山門からの仏殿)


(仏殿)

(喜泉庵茶室)

(庭の枯山水)

(水琴窟)

(茶室)
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