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遊行坂について

2016-12-10 09:00:20 | 日記
 本町本通りを北に向って歩いて行くと公園があり、そこから下って行く坂道があったので、「横浜の坂 著者 小寺 篤 発行者 今野繁光によると次のような記述がありましたので、投稿いたします。
 明治30年の頃のある日、番傘をさした一人の少年が、片方の手に鼻緒の切れた足駄をぶら下げ、ベソをかきながら雨に濡れた坂道を上がっていた。「遊行坂は、今でも、かなりな急坂である。ぼくの8、9歳頃は、もっと道が悪かった。雨の日の通学などには、やたらに辷ったり転んだりしたものである。」と後年いまは亡き吉川英治は回想する。(「忘れ残りの記」)
 明治31年、7歳のころの少年の家は、横浜植木会社の裏手の所にあって、彼はその裏門から、園内の幾箇所もの上り下りの屈折を越えて表門を出ると、桜並木と呼ばれていた山手通りへかかり、遊行坂を下りて車橋をわたる。学校は橋をわたって左手へ折れたところの「横浜市私立山内尋常高等小学校」であって、その当時、市立小学校が少なく不足していたので代用小学校に指定されていたのである。
 道は,のっけから登りにかかって、実にだらだらとながい急坂で、左側はところどころ上の住宅へ上がる石段の入口を設けた崖に沿い、右手には桜の老木が枝を張ってかぶさり、車の上下の割りには夕方ともなれば人影のすくない、小暗いところである。その途中に「時宗浄光寺」と門標のある寺があり、そこのところがちょっと階段の踊り場といった感じにくびれていて、寺の庭を見下ろせる場所になっている。
 坂は、そこのあたりから右手にある石川小学校にかかるところから更に角度が険しくなり、文字通りの胸突き坂である。吉川英治一家が越してきたのは、およそ明治32年のころである。
 「日本人の家は桜並木の角にある雑貨店とおなじ通りの西にある神崎騎手の邸宅ぐらいで、この近所は殆ど外人の家だった。ぼくらはこれを古風な意味でも何でもなく、日常語として、”異人館”とよんでいた。」などの記述がありました。

(山手通りからの遊行坂の入り口の公園)

(遊行坂の標石)

(坂の標石)

(坂の中間付近)

(左は桜)

(坂下の出口付近)



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