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尾山篤二郎の碑について

2015-05-16 09:00:04 | 日記
 横浜市金沢区の野島公園の伊藤博文公の別邸跡の敷地に、尾山篤二郎の碑がありましたので、今回は、尾山篤二郎について投稿いたします。
 「日本の誌歌」中央公論社「発行者 山越豊」によれば、尾山篤二郎は、明治22年(1889年)金沢市横安江町に父方は、尾山伝兵衛長男与吉、母方は、伽賀藩士八島為晴次女藤の間に生まれた。父与吉は、わずか25歳で没し、明治36年2月篤二郎が15歳のとき、右足膝関節の結核により大腿部より切断、よって学業(金沢商業学校在学中)を廃することとなったが、入院中に秋文学があることをしり、翌年の37年私立金沢英学院へ入学するも明治41年3月母藤を亡くし、次いで9月に祖父伝兵衛を相次いで亡くし、同校を中退することとなった。
 短歌は、1人称の詩であり告白詩であります。とありました。歌人は、一般的に個性的であるが、それぞれ厳しい個性の所有者達であり、厳しい個性を他と妥協させない作家達である様に思える。彼もまた、厳しい個性の持ち主という気がする。時には、妥協させないばかりでなく、更に、誇張し演出し、それによって戦いを作り出し、その戦いが生み出す緊張によって、またさらに妥協を避けようとする傾向にある。
 何気なくここに一般論を書いてきたが、尾山篤二郎を意識しないようにと思いつつ、すでに意識して書いていた。そう印象させる厳しいさが、尾山篤二郎という歌人にはあった。しかし、「もう一つ、尾山さんを知る以前に、私がいだいていた尾山さんのイメージがある。それは小島政二郎さんから聞いた話だが」と前置きして、吉野秀雄が雑誌「芸林」の尾山篤二郎追悼号(昭和39年7月)に書いている話がある。それから触れてゆきます。
 ある日、尾山さんが鎌倉の松村梢風さんを訪ねての帰り際に、梢風さんが一升瓶を云うまでもなく酒飢饉のころに贈呈すると、それを背中へ細引きか何かで十文字にくくりつけ、松葉杖をついて威風堂々と去っていった。「そうした姿がよかったよ」と小島さんが云ってた。私も同感して笑ったことがある。
 「このうしろ姿」のかげには多量の涙が湛えられていて、その感傷に耐えた姿こそ「威風堂々」だったのかもしれない。私も、晩年の尾山篤二郎に幾たびか接して、その思い出から、この吉野秀雄の感想に同感する。
「毛(まう)越寺(つじ)の 池の塘(つつみ)は 低きかも 実(さね)ひくきかも われは登れり」 という歌の作因を篤二郎自身が次のように解説したことがある。それは太田水穂の「登るほどでもない低い塘に《われは登れり》である。人を喰っている・・」という批評に応えたのであった。
 私は、松葉杖をついてひょっこり登ってしまったのある。ひっこりと登り得たことにつて詠っていることをまず念頭において見ていただきたい。えっちらおっちら登るくらいに高い堤、たとえて言えば淀川堤くらいならば、お聞き及びでもありませんでしょうが、この躰ゆえ、おっくうで登らなかったかもしれない・・・。
 この歌の作因がこうした一種の感傷であったことが、これでよく分かる。ただ篤二郎は感傷のあまり露骨に人に示すことを嫌って、くるりと向きをかえて、「うしろ姿」だけを見せる。それが人の眼には「威風堂々」と見えたり、あるいは「ひょうきん」に、あるいは「辛辣(しんらつ)」にも見えたであったろうと思う。
 彼の喧嘩早さ、好悪の甚だしさなどもこの感傷からでている。しかし、歌らには、脚と無関係な感傷を詠んだものが多くて、彼の感傷癖のみなもとは、彼生来の性格ということになるだろう。私はそう思うのだが、それともやはり、彼の感傷は隻脚という点と深くかかわるところがあったのだろう。あらゆる犠牲の誠心(まごころ)、卓上の花に見る、いはれなけれど此夕(このゆうべ)しかとしる
 これは、若い時の作であるが、極めて美しい感傷の心が中心をなしている。そして自由律のような形式が、若い感傷にピッタリと調和している。
 自然への向きかたや対しかたにしても、作者の場合には、一筋の感傷がその底をながれていることが伺えるであろう。篤二郎の歌集に対して「曲線の美」といったことがある。その「曲線美」というのは、単に、言語表現の外形の問題ではなしに、この感傷の浸透の具合に支えられたものであったというべきであろう。
 この作者は、あくまでも、そうした個の感傷に執して作歌活動を続けていったので、それを離れて美とかイデーとかいうものへ向うといった哲学的傾向を有する歌人ではなかった。そこに、この作者の強みも弱みもあったというべきだろうか。「ざっくばらん調」などと彼が唄え出してみたことも、この見地からすればおのずから理解できるように思われるのである。
 二上(ふたがみ)は おほに霧(きら)ひて 降る雨の ひびきは草の 汀(みぎわ)より起(た)つ
 幻想は 鋼鉄(はがね)のごとし 何も喰ふ ものもなければ 風に吹かるる
 人住まぬ 空き家の庭に かたむきて ヒマラヤシーダ 倒れなむとす
など、晩年の尾山篤二郎は、ついにこのような歌境を示した。感傷的な生き方に徹して、それを超えたとも言うべきだろう。その感傷がさまざまな現われ方をして、威風堂々とも、ひょうきんとも、狷(けん)介(かい)とも傲(ごう)気(き)とも、その他受け取られ方をしたけれど、作家としての一分をつらぬきとおした者がついに見せた歌境のごときもの、そういう感じを与える歌であるまいか。
 彼は、金沢の生れだが、彼の魂のなかには、北の国の人が性として持つ不屈さと、またもう一つ感傷性というもの、その二つながらを持っていて、その粗剋(そうこく)を人生とした歌人のように思えてならない。と批評されていた。
 最後に作者の年表に、昭和26年(1951年)5月63歳で芸術院賞受賞されたと記述されていましたので、申し添えます。

(尾山篤二郎の句碑)

(尾山篤二郎の句碑 裏面)

(野島公園山頂から 正面八景島)

(野島公園山頂から 天気が良ければ房総半島が見えます)

(句碑のある場所から 正面八景島)
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