代役アンドロイド 水本爽涼
(第98回)
保の悩みをよそに、沙耶は規則正しくこの日も機能を停止して、べッドの上に横たわっていた。外見上は薄いシーツを被って停止しているのだから、他人が見ても眠っているように見え、何の違和感もなかった。そのこと自体は当然なのだが、部屋が違うから保にはその姿が見えない。眠れない保だったが、それでも明るくなる早暁前には微睡(まどろ)んで、次の朝は、確実にやってきた。小鳥が窓越しに囀(さえず)っている。朝は新しい何かを生み出すものだ…と、ふと保は思った。昨夜は沙耶の占有に対して結論が出なかったはずなのに、漠然とした可能性が湧いていた。むろん、詳細な方法とかは浮かんでいないのだが、何か可能性がある・・とだけ、意味なく思えた。
「あっ! 教授、岸田です。…朝早くからすみません。実は、今日一日、お休みを戴(いただ)きたいと思いまして…」
「なんだね。何かあったのかい?」
「いや、ちょっとした私事(わたくしごと)でして。詳しいことは言えないんですが…」
「そう。…いいよ。昨日(きのう)の結果が好調だったもんでさ。一応、研究のメドは、ついたからな」
「そうですか。有難うございます」
「じゃあ、切るよ。今、シャワーをしようと衣類を脱ぎかけたところでね。
ほとんど何も着(つ)けておらんのだ。お恥ずかしい話だが…」
「いや~、悪いタイミングでお電話をおかけし、申し訳ございません。では、そういうことで…。失礼します」
保は携帯を切った。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第97回)
だが、食べながら保は沙耶を活用している自分の身勝手さをしみじみ思った。酔いのせいだ…とは思うが、やはり疑念が襲ってくる。製作したのは確かに自分だ。とはいえ、自分一人で、これだけ有能なアンドロイドを占有していいのか…という自分に対する疑念だ。食べ終えたとき、保はすっかりテンションが下がっていた。
『美味しくなかった?』
そんな保を見て、沙耶が怪訝な表情で訊ねた。沙耶の感情システムは疑問の表情を選択していた。正当なデータによって作られたラーメンは、ほぼ90%以上の確率で美味いはずである、という認識システムを受け、感情システムは作動したのである。
「いや、美味かったよ」
『でしょ?! じゃあ、なぜ?』
沙耶には、今の保の感情がつかめない。ほろ酔い状態の言動は、必ずしも本人が普段、思っている感情とは限らない一過性の可能性があるからだった。
その晩、保は寝つけなかった。酔いは、いつの間にか覚め、一時間前には眠たかったものが、今は逆に頭が冴えわたっている。ベッドの上で寝よう寝ようと、もがくほど、益々、真逆になっていった。
━ 沙耶を有効に活用する方法 ━
頭を過(よぎ)るのは、ただ、そのことだった。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第96回)
「中華がいいな。ラーメン!」
『余り身体に、よくないわよ。まあ、お茶漬けよりは、いいか…』
「ひと口でいいんだ」
『はい、それなら、すぐ食べられます。小鉢に分けておくわね』
「えっ! 出来てるの?」
『ええ…。温めたらいいだけ。それが何か?』
凄いなお前! とは言えず、保は黙って上がると、台所へ入った。確かにテーブル上には、和、洋、中と、それなりの料理が置かれていた。保の後ろから入ってきた沙耶は、その中から出汁(だし)つゆだけ入ったラーメン鉢を手にして調理場へ行った。そして、出汁つゆを温め、別に準備しておいた湯がいた麺を笊(ざる)に入れ、熱湯を通して湯切りする。その麺を温めた出汁つゆ入りの鉢の上に盛り、軽く混ぜたあと具材を添えた。ゆで卵、刻み葱、チャーシューの代わりの厚切りハムetc.だ。そして、盛り付けの終った鉢に箸を添え、テーブルへと運んだ。ほろ酔い気分の保は、こりゃ、ラーメン屋もいけるぞ…と、冗談っぽく思った。
『はい!』
「おお、美味そうだな…」
保は、さっそく箸をとり麺を啜った。そして、出汁つゆをひと口、飲む。プロの職人と遜色ない味に仕上がっていた。いったいこの味は、どこで…と、保は出汁つゆの旨味(うまみ)に舌鼓を打った。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第95回)
小一時間、飲み食いして冷麦(ひやむぎ)を出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。支払いはもちろん研究室払いで、教授が最後に支払って店を出た。グデングデンというまでではないものの、ほろ酔い気分の保は、時折り足が縺(もつ)れた。他の三人も程度の差こそあれ似たり寄ったりで、思い思いに帰っていった。
「お~い、今、帰ったぞ」
マンションに辿りつくと、酒の酔いも手伝ってか、自分の言葉が気分よく保に響いた。まるで妻がいて、その妻に語りかけているような心地いい気分だった。
「は~い!」
沙耶はこのとき、最良の出迎え方をプログラムの中から選択していた。こういう場合の大部分の主婦はお冠で夫を出迎える。その迎え方の家庭に与えるマイナス効果は絶大で、世の亭主どもは妻の言葉によって、存在場所のない現実を知らされ、いっそう家庭環境に嫌悪感を増大させる…というデータから、沙耶の思考回路はその回避策を瞬時に探し出したのである。その①が、猫なで声で夫を魅了する。今回の場合は、この選択肢だった。他にも②、③、④、⑤…と対策データが入力されていた。
「ちょっと、軽いものが食べたいな。あるか?」
この言い方も夫、そのものである。保は内心で北叟笑(ほくそえ)んだ。
『と、思って、準備してあるわ。和、洋、中どれでも』
沙耶の顔の表情は優雅柔和な笑みで、感情プログラムが働いていた。通常の夫婦間に生ずる人間関係だと、殺伐感が漂うが、これを回避する思考回路の②が働いたのだった。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第94回)
「親父さん、取あえず中ジョッキ4(よん)」
「へいっ~~! 入ったよ! 中ジョッキ4!!」
室川が大声を出すと、若い板前は慌ただしく、樽の生ビールをジョッキに注ぎだした。このタイミングで、室川は突き出しの鶏ささ身の味噌漬けを乗せた小皿を置いていった。相変わらず同じ突き出しだ…と、保は嬉しく思った。
「君さ、よく働くけど、名前なんてぇの?」
若い板前が生ビールの入ったジョッキを前へ置いたとき、保は思い切って訊(き)いていた。
「ああ、こいつですか! 天宮(あまみや)って言います。可愛がってやって下さい!」
室川が割って入り、先に言った。
「天宮昇って言います」
天宮は、ペコリと頭を下げた。東北訛(なま)りがあるピュアな好青年だ・・と保は思った。
皆にジョッキが行き渡ったところで、山盛教授がジョッキを手にし、音頭を取った。
「それじゃ、皆。成功を祝して乾杯!!」
全員がグビグビッとひと口、ふた口、やった。
「成功とは、おめでたいですね、岸田さん!」
「まっ! とりあえず・・ってことで」
「いやいやいや、いい話は、こちとらも気分がいいや、なあ?」
室川は天宮に同調を促した。
「そのとおりです…」
ふたたび、天宮の口から朴訥(ぼくとつ)とした東北訛りが飛び出した。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第93回)
「なんだ、そうでしたか…。それじゃ、いずれまた」
ふたたび、教授は軽く会釈をすると歩き出した。但馬、後藤、保の三人も機材を肩に手には自動補足機を持ち、教授の後を追う。沙耶一人? が、そのまま四人を見送る。
「じゃあな、沙耶!」
軽く振り返り、保は停止してそう言うと、急ぎ足で二人に追いついた。 こうして、自動補足機の試運転実験は成功裏に終結した。保は、そのこともさりながら、沙耶がアンドロイドだと皆が気づかなかったことが嬉しかった。今まで課題だった人間の両眼の動き、それと皮膚の質感に対する違和感で何度もやり直しを余儀なくされてきた。保にとって、研究室というプロのメンバーの目を欺(あざむ)けた充足感は確実にあった。
その日は研究室の全員で一杯やり、実験の成功を祝った。店は保が親友の中林とよく行った小料理屋の冷麦(ひやむぎ)である。店は早かったせいか、客は誰もいなかった。
「いらっしゃい!!」
「おや、岸田さん。今日は大勢でお越しですね。なんぞ、ありましたか?」
全員がカウンターへ座り、店主の室川がニタリと笑顔を見せた。
「そうなんだよ、親父さん。まあ、企業秘密で詳しいことは言えないけど、いいことがあってさ…」
「そうでしたか。そりゃ、よかった…」
室川の手は絶えず動いている。二人が話している間に若い板前が全員に水コップを置いていった。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第92回)
「あっ、いいんだ、後藤。沙耶はコーヒー嫌いだから…」
保が瞬間、沙耶をフォローした。
「あっ、そうか…」
別に不自然な話ではなく、他の者も驚かない。沙耶がアンドロイドだから飲めない…と知るのは、保一人だった。それだけ沙耶は完璧な人間を演じ切っていた。
「さてと…。但馬君、どうだね? データは、きちっと記録できたかい?」
缶コーヒーで喉を潤し、少し気分が紛(まぎ)れたのか、教授はゆったりと但馬に訊(たず)ねた。
「えっ? ああ、はい。間違いないようです」
「そうか…。なら、いいよ。さあ! 長居は無用、引き揚げだ。昼まで、たっぷりあるが、旧友に済まないからな。少しでも早く、おさらばしよう。今、電話かけておくよ」
教授は背広ポケットから出した携帯を手にした。教授の携帯は相当前の機種タイプで、今、流行りつつあるタッチパネル式ではなかった。教授は電話相手としばらく楽しそうに話していたが、皆の視線に気づいて慌てて切った。
「いや、悪い悪い。待たせたね、行こうか」
『じゃあ、私はこれで失礼します。ちょっと、買い物があるから…』
「あっ! そうですか。それじゃ、お元気で。また東京に来て下さい!」
教授は軽く会釈した。
『いえ、私、まだしばらく、こちらにいますから…』
沙耶は危うく誤解されそうになり、慌てて否定した。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第91回)
「岸田君、ご苦労さん。ちょっと、休もう。私も立ちっぱなしで、少し疲れたよ」
教授は無事に試運転が成功した安心感からか、ふらふらとフロアに座り込んだ。
「教授! 大丈夫ですかっ!」
但馬が素早く駆け寄る。その姿は誰の目にも小判鮫に見えた。そのとき、後藤が走って戻ってきた。いつの間にか姿を消していたのだ。両手には自動販売機で買ったと思われる缶コーヒーを5本持ち、得意満面の笑みを浮かべて近づいてきた。
「皆さん、どうぞっ!」
全ての目が後藤に注がれる。
「なんだね、君。こんな大事な時に…そんなものを」
山盛教授は急に機嫌を損ねた。
「どうも、すんません…」
「まあ、いいが。喉も渇いておったところだし…」
それ以上、教授は言わなかった。まあ、カップコーヒーじゃないから…と、胸を撫で下したのは保だけではなかっただろう。フケの飛び散るアフロヘアーで運ばれたのでは飲む気も失せる。後藤が手渡すのと同時にそれぞれ硬貨を出し缶コーヒーを手にする。そして、後藤が最後の2本の1本を沙耶に手渡そうとした。
『あっ! 後藤さん。私、いいんです』
「えっ?! いいんですか?」
『はい…』
代役アンドロイド 水本爽涼
(第90回)
「じゃあ、ONにして自由に動いてみてくれたまえ。上手く動けたら、一周してきて欲しい。聞くところによれば一周、650mだ」
「分かりました」
保は腰をかがめて、両足のスイッチをONにした。そして歩き始めると、次第に保の足はローラースケートのように滑らかに走行し始めた。いや確かに、それは歩行というよりは走行そのもの、といった動きだった。100mほど保が走行したとき、教授が叫んだ。
「よし! そのまま、GOだっ!」
保は、いとも簡単に速度を早めると、視界から消え去った。そして、しばらくすると、反対側から戻ってきた。矢のような速さとは、まさにこのことか…と所員は皆、思った。もちろん、沙耶も分析システムを起動させ、そう感じていた。
「微細な制動をかける自動感知機能がポイントなんですよ」
沙耶が訊(たず)ねた訳でもないのに、教授は自慢口調で説明した。
『そうですの。すごいですわ』
沙耶は会話システムの同調を選択した。
「丁度、競争馬に乗る騎手の手綱の塩梅(あんばい)です」
『脚先の微細な感覚が手綱なんですね。でも、ぶつかりそうになれば危険ですわね』
「いや、お嬢さん、その心配は御無用です。障害物感知センサーが瞬時に働いて、自動停止しますから…」
『なるほど…。でも故障ってことも、あり得ますわよね』
保は元の位置へ戻り、スムースに停止した。
代役アンドロイド 水本爽涼
(第89回)
四人? は、スタンド下部にある回廊で止まった。
『ここですか?』
「はい、トレーニングセンターの一部で、走路として使用されてるんです。まあ見ていて下さい。じゃあ、君達、機材を置いて、梱包を取りなさい」
三人は計測機材を下ろして準備し、自動補足機の梱包を取った。沙耶は教授に言われたとおり、ただ見ている。
「いずれは、これで空中移動できる形を目指しているんですよ、お嬢さん」
教授は沙耶に語りかけた。
『それは可能になると思います。姿勢安定力と推進力、それに揚力の問題さえ解明なされれば…』
「いやぁ~参りましたな。かなりの博学でいらっしゃる」
『いいえぇ~、保も言ってましたが、ただの下手の横好きですわ』
沙耶は表情システムの愛想笑いを選択して、ほほほ…と笑った。
「教授、準備が出来ました!」
後藤が力強く言い切った。
「そうか? 但馬君、大丈夫かね。念のため、もう一度、見ておいてくれ。そう何度もデータを取りに、ここへは来れんからな」
「そうですね、分かりました」
但馬は後藤の準備した計測機器の配線を、もう一度、点検した。
「OKです…」
「そうか…。じゃあ、岸田君、履いてくれ」
「はい」
保はスニーカーを履いたまま自動補足機にスッポリと両脚を入れた。