よく晴れた日の朝、増川は歯を磨(みが)いたあと美味(うま)い某メーカーのインスタントコーヒーを啜(すす)っていた。一時期、豆に拘(こだわ)るコーヒー通になったこともある増川だったが、論理的な悟りまで達したのちは、インスタントコーヒーへと回帰(かいき)したのだった。なんといっても安価な無駄のなさがいい! とは、増川の論理的な悟りの1.だった。2.は時間を取られる無駄がなく、手早く淹(い)れられる無駄のなさである。豆を焙煎(ばいせん)し、挽(ひ)く・・といった無駄な手間(てま)を楽しんだ時期もあるにはあったが、論理的に無駄を悟ったあとの増川は、その手間自体が無駄な時間だと思えるようになっていた。
コーヒーを堪能(たんのう)したあと、増川は応接セットの椅子から立ち、また洗面台へと歯を磨きに向かった。そのとき、ふと増川の脳裏(のうり)に浮かぶものがあった。おやっ! 歯は少し前に磨いたはずだぞ…という想いである。それなのに、今また歯を磨こうとしている。これは明らかに時間と手間の無駄だ…と増川は考えを進めた。この発想は理論物理学者ゆえの発想とも思えた。増川にとって、無駄は人生の究極の無駄とも思えていた。人生には限りがある。いくら長寿で生き永らえたとしても、せいぜい100年がいいところだ。200年生きた者など見たことも聞いたことも増川はなかった。だとすれば、限られた人生では無駄を極力、省(はぶ)く努力をするか、すでに出来ている無駄を除去(じょきょ)する他(ほか)はないのである。これが論理的な増川が導き出した結論だった。
現在、増川は、立って歩きながら食事をする・・という、究極の無駄のない生活を続けている。
完
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