靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十六回
幸いなのかは別として、客が少ないだけ筆は進む。大学の頃には、もういくつかの短編は書き上げていた。かといって、上梓に及ぶほどではなかった。そして、取り分けてやりたい別の仕事もないまま、さも ━ そうしないといけない ━ という風に直吉の跡を継いでこの椅子に座り、本屋になったのだ。やがて、椅子に座りながら雑文を書き殴っているうちに、知らず知らず小説家を目指すようになっていた。その後、新人賞とかの作家登竜門を叩いてはみた。”頼もう!”と、剣客のごとく声はかけたが無しの礫(つぶて)で門前払いだった。それでも諦めず、二十年以上、こうして椅子へ座り、客番をしながら筆を執っている。直助の丈夫な精神構造が挫(くじ)けるという撤収の行為をさせなかった。結果、未だに家業の足しにならないことを実直に続けている。次回作は、いいところまで進んではいた。だが、今の物音で筆は止まってしまっていた。しばらくウロウロと探すうちに、スゥーっと音は鳴り止んだ。屋根裏で鼠でも騒ぎだしたか…と、気を取り直して椅子に戻ったが、気を削がれて思っていた物語の筋立てを忘れてしまっている。メモ書きでもしておけばよかったのだが、あとの祭りだ。チッ! と舌打ちしたところで、どうなるものでもない。結局、執筆は頓挫した。さて、こうなると、ただ椅子に座っての暇な店番のみである。アアーッ! と一声、誰もいない店内で大声を発し、直助は両腕を上げると、大欠伸をひとつ打った。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十五回
しかし、野菜は萎(しお)れて捨てられる一歩前のものだし、肉類といってもスジ肉、これはご馳走だから滅多とないのだが…。まあ、売れ残りのコロッケやミンチカツも時折り口に出来た。直助の母は、彼が小さい頃、亡くなり、家事については自分なりの才覚で切り盛りしてきたから、家事はそれほど苦にはならなかった。寝たきりの父親の看病には些(いささ)か困ったが、その父も今はもう亡くなり、直助には憚(はばか)られる存在は、すでに何一つなかった。だが、凡々と日が流れ、老いだけが遠くから忍び寄ってくる気配を感じる五十路にかかっていた。このままでは…と思うのだが、今のところ、これといった打開策は見出せず、如何(いかん)ともし難かった。
カタカタカタ…と何やら物音がする。直助は机から、ふと視線を上げたが、その音がどこから響くのかが分からない。耳を澄ますと、どうも金属音のようだが、今一つ得体が知れない。人間とは妙なもので、分からないとなると、それを知りたいと思う深層心理が働く。直助もご多分に漏れなかった。
「いったい、何や…」と、独り言を吐いて椅子から立ち上がり、右往左往するが、まったく要領を得ない。すると妙なもので、余計、気になりだして、書き始めた原稿を放っぽらかして直立のまま腕組みした。
そうなのだ。直助はこの歳になっても、小説家への夢は捨て切れていなかった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十四回
その後、女性との縁が薄かった直助は、この歳になるまで、ずっと独身を続けている。だから、早智子との出会いが直助の人生で今まで唯一の男対女の縁(えにし)と言えるのだ。忽然と早智子が消えてしまわねば、恐らく直助の妻になっていただろう…とは、飽く迄も希望的観測に過ぎないのだが、そうしたチャンスがなかったと言えないのも事実だ。そんなことで、直助は今日も一人、父譲りの椅子にぽつねんと座り、靫蔓(うつぼかずら)になりきっていた。
季節は巡り、真夏のギラついた日々が去り、すでに扇風機も片づけられた小春日和である。昼過ぎともなれば、陽気のよさに加えて余りの無変化に眠気を催す。それを避ける意味で飲み始めたカフェオレが、最近では病みつきになっている。もちろん、豆から焙煎するなどといった高級な手法ではなく、父の法事か何かで他人様から戴いたチープなネルドリップ式である。習慣とは妙なもので、飲むと睡魔が去るのだから、或る意味、怖い。直助にとってカフェオレは、今や昼間に欠かせないもの、になっていた。同じ商店街の菓子屋”鳥船”の主人、平吉つぁんに頼んでおいて、賞味期限の過ぎたものを安く手に入れる算段はつけてある。市販の半値以下だから、これはもう、儲けの少ない直助にとっては実に有難い。コーヒーに限らず、飲食物の調達方法は、もっぱらこの手を採る直助だ。米は”村川米店”だし、野菜類は勢一つぁんの”八百勢”で、肉類は”河北屋”となる。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十三回
直助は、すっかり商売のことを忘れ、オープンリールのデッキに録音したテープを取りに戻った。
「これなんですがね…。いつでもよろしいからダビングでもされたらお返し下さい。気持が洗われるようないい曲ですよ」
「ありがとうございます。…じゃあ、お借りします。…ええと、この本のお代は?」
「あっ! そうでした。すっかり忘れてましたよ、ははは…」
罰悪く、直助は頭を掻いて苦笑した。肝心のところで調子が狂ってしまう。持って生まれた性分だから仕方がないのだが、いつも最後のの詰めが甘いのだ。大学時代は、それで取れる筈の単位を落としたこともあった。まあそれが返って幸いして卒業出来たのだが、直助には、どこか人の同情を引く得な性分もあった。痛し痒し、というところである。
テープの貸し借りで唯一のチャンスをものにし、直助の気持は大層、快活であった。これを境に二人は接近した…といいたいが、実はそうでもなかった。テープの一件のあと、直助は早智子をクラシックのコンサートにでも誘おうと思っていたのだが、早智子の消息はその後、プッツリと途絶え、今まで出会えずにいる。なんでも、会社の電話説明によれば、転勤とかで本社へ戻ったらしかった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十二回
しかも直助である。関東の大都会で大学へ通っていた過去はあるが、大学で男女の機微を習った訳ではない。経済と恋の道は大きく違うから、役に立ちそうになかった。まだ文学部の教職科目を履修し、青年心理学の四単位でも取った方がよかったのかも知れない。
「いや、なかなかいい趣味をお持ちで…。私なんか一日中、椅子に座ってるだけですから余りやりたいことも出来ません。クラシックを聴くか庭いじりをやるかぐらいの時間はありますがね、ははは…」
自分を卑下しても仕方ないのだが、直助は、そう言った。
「私もクラシックは好きですよ。どんなのが、お好き?」
「えっ? いやあ、まあ…、マスネの”タイスの瞑想曲”なんか、いいですよね」
「へぇー、知らないわ。一度、聴いてみたい。どんな曲かしら?」
「この前、FMでやってたのを録音したテープがありますから、お貸ししましょうか?」
「ええ、是非!」
あらぬところから話が盛り上がってきた。直助は小走りして奥の居間へ駆け込んだ。余りの上首尾に心はすっかり動転している。一生に一度、あるかないかの絶好の機会に思われた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十一回
「ここら辺りのが手頃かと思いますが…」
媚びた商売は直助の最も忌み嫌うところだが、好きな相手を目の当たりにしては、理屈もへったくれもあったものではない。早智子は勧められるまま、書棚から一冊取り出して、パラッと捲(めく)った。
「いいですね、これ…」
「でしょ?」
”そうでっしゃろ”と言いかけて、慌てて口を噤(つぐ)み、言い直した。
「編物かなにか、されてるんですか?」
「ええ…レース編みなんです。人様にお見せ出来るほど上手くないんですけど…」
直助にとって、そんなことはどうでもよかった。馨(かぐわ)しい香水が匂い、直助の臭覚を擽(くすぐ)る。自分が上気しているのが直助自身にも分かった。
問題は、これからどう接近するかである。今とは違う、かれこれ二十年以上前の話だから、男女の語らいや付き合い方も、規律というか、どこかそういう堅苦しさが、まだ重んじられていた時代である。都会はいざ知らず、ローカル色の濃い一地方では、その当時、まだ噂で取り沙汰されたりしたから、男女の接触は慎重さが求められる時代でもあった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第二十回
ひと月ばかりは、恋慕の情を伝える勇気もないデクノボウなど、ここでずっと埋もれるんだ…と、自暴自棄になったりもしたが、歳月の慰めとは偉大である。すっかり忘れていたのだから…。それが、また出会ったのである。恋の病(やまい)が、またぶり返した。
「…やあ、お久しぶりです。長い間、お見かけ、しませんでしたね?」
「えっ? ええ…」
急に奥の方から声がかかり、驚いた早智子が首を直助の方へ向けた。
「今日は何か?」
「手芸でも始めようかと思いまして…」
「ああ、そういう本なら右側の真ん中辺りの棚に並べてます」
実用書が必要だということは、”手芸”という最初の二(ふた)文字で閃いた。この機会を逃せば、恐らく二度と早智子とは縁(えにし)の糸が繋がることもなかろう、と思えた。直助は早智子が棚を移動した後を追って、実用書の棚へと動いた。少し陰湿な気分がしないでもなかったが、そうも言ってはいられなかった。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第十九回
滅茶苦茶、好きなのだが、以前のように心が騒がないのだ。ある種の免疫が出来たように思えたが、それが何故かは直助自身、分からなかった。
その後、二人の仲(これは一方的な直助の思い込みで、早智子は異性という対象で直助を見ていなかったようだが…)に進展があったのか? といえば、五十路に入った直助の現状を理解して戴いたならば、お分かりになるだろう。ただ一度、チャンスらしいチャンスがあったことも事実である。
本の購入が終わると、早智子の規則的な来店はプッツリと途絶え、ふたたび直助に空虚な心の穴が出来てしまった。この時点で、なにがなんでも早智子を…という心のアグレッシブさがあれば、直助の人生は、また異質のものになっていたのかも知れない。しかし現実は、夕暮れ時の心の昂りが嘘のように消え、恰(あたか)も蝉の抜け殻なのである。ということは、早智子の出現する以前の自分へ逆戻りしたということに他ならない。その後、千載一遇のチャンスが訪れたのは、ある日、早智子が気まぐれに文照堂へ足を向けたためだった。康成の全集を買ってから、早智子は一度も直助の前へ現れたことはなかった。それが忽然と出現したのである。直助は過去の胸の高鳴りを、すでに忘れかけていた。一年以上も経てば、誰だってそうなるだろう。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第十八回
「…父は半身不随で、車椅子の生活をしていたんです…」
少しだが、早智子は、あらましの経緯(いきさつ)を話し始めた。
「はあ、それはそれは、ご不自由なことで…」
若者らしからぬ語り口調で慰めてしまい、しまった! と直助は後悔した。
「…その父が、煙に巻かれて…」
ふと、早智子の目頭を一筋の泪が伝った。ハンカチを取り出し、早智子は顔を背けながら頬を拭った。それを目にし、直助はそれ以上の言葉を持たなかった。たった、そのひと言で、話のあらましの全てが分かった気がした。分け入り過ぎたんだ…と、思えた。
しばらく空白の時が流れ、直助は、ふたたび口を開いた。
「お父様が好まれて読まれていたんですか?」
「…ええ」
図星だった。やはり、本屋より探偵の才覚がありそうに思えた。そのとき、直助は、もう早智子を意識しなくなっている自分に気づいた。
靫蔓(うつぼかずら) 水本爽涼
第十七回
「実は…亡くなった父が好きだった蔵書なんです。…生憎(あいにく)、火事で失くしてしまって…」
「あ〜あ、そういうことでしたか。で、火事というのは、どうでしたんですか?」
標準語は割合すんなり使えている風だが、やはり言葉の随所に関西訛りが割って入る。しかも、つまらないことを訊いてしまった…と、直助は後悔した。
「はい。幸いボヤ程度、といいましても半焼に近かったんですが、書斎とかが駄目になったんです」
「まあ、それくらいで済んでよかったじゃないですか」
そこまで直助が話を進めたとき、俄かに早智子の表情が陰った。
「いいえ、ちっともよくないんです…」
「えっ?」
直助は疑問の糸をようやく手繰り寄せようとしていた。俺は本屋より探偵の方が性に合っているのかも知れない…という気もした。故意に声をかけるのも憚られる。全集の引き渡し、代金の支払いは無言で淡々と進んだ。
「… …、余り立ち入ってお訊きするのも、なんなんですが…」
遠回りだが、思いきって声を挟んだ。










