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京都の西山&播州山麓から、気ままな雑話をお送りします。長期間お休みしていましたが、復活近しか?

若冲の年齢加算 №2 <若冲の命日と享年> 若冲連載53

2010-05-03 | Weblog
 伊藤若冲は八十五年の生涯、三カ寺に深く関わりました。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓があります。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはありません。しかし、おそらく四十歳までは、彼もこの寺の信徒であったろうと思います。

 つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺です。三十歳代後半、売茶翁との出会いから相国寺の大典和尚を知ったのでしょう。本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺です。
 相国寺墓所には、若冲の墓もあります。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいません。

 そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」です。還暦を迎える数年前から、亡くなる八十五歳まで、四半世紀を超える歳月を、彼はこの寺にすべての力を注ぎ込みました。通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」でした。

 つぎに三カ寺に残る記録から、若冲の命日と享年をみてみましょう。まず宝蔵寺の過去帳。二冊ありますが、安永の表紙で、文化九年八月記之と記された冊の十日の項には、
「寛政十二庚申九月/米斗翁若冲居士/四代目源左衛門茂衛右門也/八十七才ニテ死享保元丙申年ノ生」
 また享保年代からはじまる宝蔵寺過去帳の別冊には、
「伊藤若冲祥月命日/寛政十二年庚申九月十日/米斗翁若冲居士/右伏見石峯禅寺ニ葬。土。/玉屋伊右衛門ヨリ志。諷経ニ行」
 若冲の誕生日は正徳六年二月八日(1716)とされています。しかしこの記載によると「享保元年」です。正徳六年は同年六月二十二日に享保元年に改元されました。彼の誕生日は年の後半、改元以降の生まれであろうか。
 相国寺の若冲居士壽藏・寿蔵の大典の記、読み下し文では「父、名は源、母は近江の武藤氏、享保元祀二月八日を以って居士を城中(京)の錦街に生めり」とあります。享保元年ではなく、正徳六年とすべきはずですが…。
 若冲の実享年は八十五歳ですが、ここでは八十七歳と記され、命日は十日である。若冲は伏見深草の禅寺、百丈山「石峰寺」に土葬された。墓はいまも石峰寺にあります。
 彼は、浄土宗宝蔵寺でも臨済宗相国寺でもなく、臨済黄檗に帰依していたのです。黄檗山万福寺の末寺である若冲ゆかりの寺、石峰寺での葬儀には、伊藤家の菩提寺である宝蔵寺からも読経に僧が行った。その費用は玉屋伊右衛門が負担した。玉屋のことは不明ですが、伊右衛門の妻の墓は宝蔵寺にあります。
 なお石峰寺の表記ですが、石峯寺とも記す。まぎらわしいので、わたしは峰で通します。

 伊藤家は慶応三年ころに断絶します。後を引き継ぎ宝蔵寺の同家菩提も弔ったのが、親戚筋である錦市場の安井家でした。大正末年ころに当主の安井源六氏が書き残した「伊藤家系図」によると、
「四代/源左ヱ門/後茂右ヱ門/(米斗翁若冲)/寛政十二年九月十日没/行年八十七才」
 若冲は二十三歳のときに父を失い、若くして錦市場の家業を引き継ぐ。青物大問屋「桝屋」の当主として、四代目源左衛門を襲名しました。その後、四十歳にして「桝源」を弟に譲り、伊藤茂右衛門を名乗る。画号「若冲」は、四十歳で隠居する数年前、三十歳代なかば過ぎからの雅号のようです。

 相国寺の記録をみてみましょう。「祖塔過去帳・侍眞寮蔵」には、「斗米庵若冲居士/寛政十二年庚申九月十日」
 「参暇寮日記七十二・玉岡中館筆録」では「但し居士九月十日、寂。」
 「参暇寮日記」寛政十二年十月二十七日欄に「但し居士九月八日寂、例年以今月今日諷経可在候事」。ここに唯一、九月八日を命日とする記載がみられますが、誤記です。

 そして晩年、若冲が三十年近い歳月、全力を注ぎ込んだ石峰寺の過去帳の十日欄をみてみます。
「壽八十八歳/寛政十二年庚申/斗米翁若沖居士/九月入祠堂」
 この旧冊には「寛政十一歳次己未初冬再改之」と記されている。若冲が亡くなる寛政十二年の前年から記載のはじまった過去帳である。
 なおこの記載で興味をひくのは、「八十八歳」「十日」「居士」、そしてサンズイの「沖」「斗米翁―米斗翁」などである。彼が門前に住み、長い歳月を捧げつくした石峰寺である。この寺の記載、若冲が親密であった住職住持の密山和尚が記したであろう記述である。もっとも信頼度の高い史料とみることができます。命日は九月八日ではなく、十日に違いありません。
 若冲は、寛政十二年九月十日に亡くなり、在家の「居士」であり、出家はしていないと判断できる。また享年は、八十五歳であるが、自称八十八歳であり、石峰寺観音堂を飾った天井画には「米斗翁八十八歳画」と記している。また同様の八十八歳款記は鹿苑寺「亀図」にもある。若冲は最晩年「八十八歳」を自称し、回りのみなも彼を米斗翁「米寿」であると、そのように認識していたのでしょう。なぜか若冲は三歳、実年齢に加算しています。
 余談ですが「亀図」の賛は、黄檗僧の聞中が記しています。若冲没後、二十五年もたってからの後賛で「八十七翁聞中題」とあります。彼は若きとき、若冲から絵を習い芦雁図を描くことを楽しみとした弟子でした。聞中浄復、彼が亡くなったのは若冲逝去の二十九年後、実に九十一歳でした。みな長生きですね。だれもかれも、年齢加算をしていたのでしょうか?
<2010年5月3日>何箇所か、旧字を新字にかえています。

2012年9月10日追記。今日は若冲忌です。伏見深草の石峰寺に行ってきました。阪田良介和尚の読経のあと、「石峰寺伊藤若冲顕彰会」発足の話がありました。若冲の墓と筆塚、五百羅漢の保存。そして寺の歴史や若冲の功績などを後世に伝えることを顕彰会は目指しています。若冲ファンはぜひご入会ください。詳しくは同寺ホームページまで。
 昨日の読売新聞が伝えました。石峰寺筆塚の建立者は清坊ですが、彼は若冲の弟の白歳の孫であることが判明しました。滋賀県信楽のミホミュージアム学芸員・岡田秀之さんの調査結果です。
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1 コメント

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宝蔵寺 (東京たぬき)
2014-01-21 09:36:24
http://www.houzou-ji.jp/

が宝蔵寺のホームページです。
宣伝よろしくお願い申し上げます

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