ふろむ京都山麓

京都の西山山麓から、気ままな雑話をお送りします。

伊藤若冲の「冲」字考  <第三話> 若冲連載5

2007-12-10 | Weblog
 冲と沖、ニスイとサンズイの話を、二日連続延々と続けてしまったが、今日月曜で土日月連続の三日目。はじめての連日三連載になってしまった。わたしは月曜に駄文をつくることなど、まずない。実はきのうの日曜、あまりに暇だったので、あらかじめの書き溜め置きをしてしまった。余話の賞味期限が切れそうだが。
 ニスイ冲の福永光司先生には、親しみと懐かしみを覚える。十年余り前のことだが、豊前大分・中津にお住まいの先生を訪ねて、ご自宅までおもむいたことがある。中津駅前からタクシーでたしか千円あまりかかったと記憶している。海を見下ろす高台の、田畑に囲まれた農村であった。
 福永先生は京都大学教授、そして後に東京大学に教授として招かれ、京大に戻って人文科学研究所長をつとめられた。老荘思想、道教研究の第一人者である。京大と東大、両大学の教授を経験したのは、福永先生ただひとりではなかろうか。
 先生との話しは、三時間にも及んだ。一対一の真剣勝負である。相手は大家、オオヤではない。話しは中国思想文学、漢字、典籍、民俗民族学、考古学、宗教……。博覧強記、森羅万象とはこのことかと驚いた。
 三時間はあっという間に過ぎたが、疲れた。「先生、そろそろタクシーを呼んでくだい」といったとき、「もう帰るのかね」と不機嫌であった。不思議と鮮明に、そのときのお顔を覚えている。力量は不足しているが、熱心な中年学生が、はるばる京都から訪ねて来てくれた、との感想をもっておられたのだろうか。
 当時のわたしは、若冲に関心も知識もなかった。ニスイとサンズイのことも、当然だが一切知らなかった。『老子』も、斜め読みをしたことがあるだけであった。もしも沖冲字に気づいておれば当然、質問していたのだが。
 世間話もしたが、十年あまりも前のことなのに、不思議なことに俗話はよく覚えている。
 「村のドブさらえも、せんならん。妻がわたしのかわりに出て行ってくれて助かっているのだが、彼女には本当に感謝している。」
 「先生ほどの碩学は、別格です。村でも特別扱いしてくださるでしょうに。中津市が生んだ福澤諭吉以来、最高の知識人です。名誉市民にはやく認定していただきたいものです。」
 「いやいや、村のしきたりは厳しいものです。わたしは若くして中津を去り、京都に出、最近になってやっと半世紀ぶりに故郷に戻ってきたものですから、村人はみな、あの爺は一体何者や? といっています。浦島太郎ですね。中津では、東大と福澤の慶応義塾が一流大学であって、京大など二流に過ぎません。」
 福澤諭吉の出身地ではそうなのかと、妙に感心してしまった記憶がある。
 「ところがこの元旦に、NHKテレビが自動車を連ねて、ここまでやって来たのです。去年の秋に電話があって、正月の生番組出演のために福岡まで来てほしいといわれたのですが、歳も歳だしと断ったら、大きなアンテナを屋根につけたバスとかが、中継に来たのです。」
 以来、村民の福永先生を見る眼がかわった。「どうも、あのジジイは並ではないようだ。」
 「NHKの放送で、わたしの経歴が地元の方に知られてしまったのですね。京大と東大と、両方の教授をやったものですから、元東大教授、京大ではなしに、それでみなさんのわたしを見る眼が一変しました。なかでも受験生をもつ母親たちは、手のひらをかえしたようになりましたね。」
 苦労された奥さんには、大分市の百貨店で買った葉茶を手土産にお渡しした。  「まあ、トキハのお茶ですね。」と、ずいぶん喜んでくださった。
 それ以来、わたしは年配の方のご自宅を訪ねるとき、少量だが葉茶を、値段は松竹梅の竹か梅だが、いつも茶葉っぱを持参することにした。まるで木っ葉を小判のごとく偽って手渡す、中年悪党キツネの気分そのものである。
 ところで福永先生は、六年前に鬼籍に入られた。不肖の弟子はいまだに、ニスイとサンズイの疑問を解くこともできないでいる。残念である。
<2007年12月10日>

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